二人目
千夏が帰ってからというもの、壁の時計の秒針だけがやけに大きく響いていた。
葵はダイニングの椅子に座ったまま、伏せていたスマホを指先で引き寄せる。
上へはさかのぼらないようにして、千夏とのトークの入力欄だけを開いた。
「さっきは」とだけ打って、そこで指が止まる。
続く言葉が見つからないまま、一文字ずつ消していった。
入力欄が空になると、葵はスマホを裏返してテーブルに置いた。
机の下の箱から、結晶をひとつ取り出してみる。
手のひらにのせると、ひやりとした重みが皮膚に沈んだ。
星晶術。この体の持ち主が持っていたという力。
千夏の店には、これで作った小物がいくつも飾られているらしい。
こんなに冷たいものから、人に贈るような何かが作れたのだろうか。
葵は結晶を箱に戻し、明かりを消してベッドに横たわった。
知らない人の匂いがしみこんだ枕の上で、何度も寝返りを打つ。
目を閉じると、あの暗闇がまぶたの裏によみがえった。
自分の輪郭がほどけていく感覚と、すぐそばにいた、知らない誰かの気配。
そして、遠くから届いた女の人の声。
――生きて。
あれが誰の声だったのか、葵にはまだ分からない。
ただ、その声を思い出すたびに、胸の真ん中が鈍く疼いた。
枕元のスマホは、とうに午前一時を回っていた。
カーテンの隙間から、街の明かりに縁取られた黒い亀裂がのぞいている。
かちり、と。
小さな金属音が、玄関の方から聞こえた。
葵はベッドの上で身を起こし、息を殺して耳を澄ませる。
もう一度、かちり。鍵穴の奥で、何かが探るように動いている。
そして、外から鍵が回った。
扉がわずかに開き、張りつめたチェーンが、がちりと鳴る。
すぐに、硬いものを断ち切る鈍い音が続いた。
葵は枕元のスマホをつかみ、震える指で画面をたどった。
発信履歴のいちばん上に、「千夏」の名前がある。
呼び出し音が、一回、二回。
廊下を進んでくる複数の足音が、そこに重なった。
『――もしもし、葵?』
三回目の途中で、眠たげだった声が弾かれたように鋭くなった。
「来た。あの人たち、中に――」
言い終わる前に、部屋の扉が開いた。
懐中電灯の白い光が、まっすぐ葵の顔を射抜く。
まぶしさに目を細めた一瞬で、スマホが手から叩き落とされた。
床を滑っていった画面の向こうで、千夏の声が何か叫んでいる。
葵はベッドから転がり落ち、窓へ向かって這った。
ガラス戸を引き開け、裸足のままベランダへ飛び出す。
両手で戸の枠をつかんで押さえたが、内側から力任せに引かれ、指はあっけなく引きはがされた。
部屋の中から現れたのは、昼間のスーツの男だった。
その後ろに、黒い服の男が三人。
一人が、細長い銃のようなものをこちらへ向けている。
「夜分に申し訳ありません、星川さん」
男は、昼間とまったく同じ穏やかな声で言った。
「手荒な真似はしたくないんです。私たちの望みは、あなたに生きたまま来ていただくこと。それだけですから」
葵はあとずさり、背中がベランダの手すりにぶつかった。
冷たい金属の感触が、薄いシャツ越しに背骨をなぞる。
振り向くと、七階下の路面が街灯に白く照らされていた。
黒いワゴン車のスライドドアが開いたまま、こちらを見上げている。
――前にも、こんなふうに見下ろした。
雨の音。濡れたフェンス。一本ずつほどいていった指。
あのとき、あんなにあっけなくほどけたはずの指が、今は手すりに食いこんだまま離れない。
関節が白く浮き出るほど、葵は鉄の棒を握りしめていた。
「こちらへ」
黒服の一人が距離を詰め、葵の手首をつかんだ。
骨がきしむほどの握力に、喉の奥から短い悲鳴が漏れる。
その瞬間、つかまれた手首の内側で、何かが弾けた。
手のひらの真ん中に、焼けるような熱が集まっていく。
指のあいだから、青白い光が細くこぼれた。
光はまたたく間に冷えて固まり、葵の手の中に、細く鋭い結晶の針が生まれていた。
考えるより早く、葵は手首をひねり、それを男の手の甲へ突き立てた。
短い呻き声とともに、手首をつかむ力がゆるむ。
スーツの男の顔から、初めて笑みが消えた。
「撃つな!」
鋭く飛んだ声は、銃を構えた部下に向けられていた。
男はすぐに葵へ向き直り、なだめるように両手を広げてみせる。
「星川さん、それ以上はいけません。これ以上力を使えば、あなたの体は――」
男の言葉の続きは、耳に入らなかった。
黒服たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
針一本では足りない。もっと鋭いものを。もっと、たくさん。
葵は手のひらに意識を集め、ありったけの力でそれを引きずり出そうとした。
胸の奥で、ぴしり、と乾いた音がした。
凍った湖に罅が走るような音だった。
次の瞬間、肋骨の内側から、何かが外へ向かって押し広がってくる。
見下ろすと、シャツの胸元から青白い光が滲み出していた。
皮膚の下で、無数の結晶が行き場を求めてせめぎ合っている。
――ああ、そうか。
目を覚ましたとき、内側から弾けたように裂けていたシャツ。
床一面に散らばっていた、血をまとった結晶。
あれは、こうやって――。
光が、胸を突き破った。
音は聞こえなかった。痛みも、途中から分からなくなった。
崩れ落ちていく視界の端で、床に転がったスマホの画面だけが、小さく光り続けていた。
* * *
雨の音が、しなかった。
最後に覚えているのは、顔を叩く大粒の雨と、足の下から地面が消えていく感覚だ。
それなのに今、頬に触れているのは、乾いた夜の空気だった。
背中の下には硬く冷たい床があり、胸から腹にかけて、ぬるく濡れた何かがまとわりついている。
鼻をつく鉄の匂いに、天野蒼太はうっすらと目を開けた。
すぐ真上に、男の顔があった。
見知らぬ大人の男が、蒼太の肩へ手を伸ばしている。
その指先が触れるより早く、蒼太の両腕は勝手に頭を抱えこんでいた。
膝が腹に引き寄せられ、体が小さく丸まる。
歯の根が、かちかちと鳴り始めた。
「……戻った」
誰かが、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「本当に、蘇るのか……」
別の男の声が、かすれながらそれに重なる。
蒼太は腕の隙間から、おそるおそる自分の手を見た。
細く長い指が、手首まで赤黒く濡れている。
見慣れた、骨ばった自分の手ではなかった。
肘のあたりには、肩までありそうな柔らかい髪が、血を吸って張りついている。
「なんだよ、これ……」
こぼれた声は、聞いたこともない女の声だった。
蒼太は自分の喉を両手で押さえ、そのまま凍りついた。
しゃがみこんだスーツの男が、蒼太の顔をのぞきこむ。
その口元に、穏やかな笑みがゆっくりと戻っていった。
「おかえりなさい、星川さん」
男の背後、開け放たれたガラス戸の向こうから、かすかな声が漏れ聞こえていた。
床に転がったスマホの中で、女の人が、誰かの名前を何度も呼んでいる。
『葵! 葵、聞こえる!? お願い、返事して!』
葵。
知らない名前だった。
蒼太は震える腕で頭を抱えたまま、その声をただ聞いていることしかできなかった。




