出会い
チャイムの余韻が消えても、葵は窓辺から動けなかった。
三度目のチャイムが、今度は間を置かず立て続けに鳴る。
玄関脇の壁で、小さなモニターが青白く光っていた。
映っていたのは、濃紺のスーツを着た男だった。
きちんと撫でつけた髪に、穏やかな笑みを貼りつけている。
その斜め後ろでは、もう一人の男が表情を動かさないまま廊下の左右へ目を配っていた。
「ご在宅なのは分かっています。ほんの少しで構いませんので」
男がカメラのレンズをまっすぐ見上げ、画面越しに目が合った。
気づけば、葵の指は通話ボタンを押しこんでいた。
「……はい」
喉からこぼれたのは、鏡の前で聞いたばかりの、知らない女の声だった。
葵はとっさに口元を手で覆い、それから、ゆっくりとその手を下ろす。
「ああ、よかった。お声が聞けて安心しました」
男は胸に手を当て、深々と息を吐いてみせた。
小さな画面の中で、その仕草は舞台役者のように大げさに映る。
「先日お持ち出しになったものについて、少しお話を。こちらとしても、事を荒立てたくはないんです」
持ち出したもの、と言われても、葵には何ひとつ心当たりがない。
それなのに、男の言葉が丁寧になるほど、うなじの産毛が一本ずつ逆立っていく。
「……今、具合が悪くて。また今度にしてもらえますか」
声が震えないよう、それだけを短く押し出した。
男はほんの一瞬だけ笑みを止め、まばたきひとつのあいだに元の顔へ戻る。
「そうでしたか。では、また改めて伺います。――どうぞ、お大事に」
モニターの光が消え、二人分の靴音が廊下を遠ざかっていく。
葵はその場にしゃがみこみ、両腕で膝を抱えた。
指先が冷えきって、関節がうまく曲がらない。
しばらくして窓辺へ戻り、カーテンの端を指一本ぶんだけめくる。
七階から見下ろした路肩に、黒いワゴン車が停まっていた。
エントランスから出てきたさっきの二人が、その後部座席へ乗りこんでいく。
扉が閉まっても、車は一向に走り出さなかった。
「……帰ってないじゃん」
呟いた声もやはり自分のものではなく、葵はカーテンから手を離した。
* * *
机の書類の陰で、何かが短く震えた。
紙の束をずらすと、黒いケースに入ったスマホが現れる。
持ち上げた拍子に画面がこちらの顔を捉え、ロックがひとりでに外れた。
――この顔なら、開くんだ。
当たり前のことなのに、スマホを持つ手の甲がこわばった。
画面の時刻は13:07、6月19日。あの雨の屋上から、まだ一時間も経っていない。
不在着信が三件、どれも「千夏」という名前だった。
その下に、同じ相手からのメッセージが続いている。
『灯、大丈夫?』
『さっきの電話、声ぜんぜん元気なかったよね』
『既読つかないの、ほんとに怖いからやめて』
『お店閉めたら、すぐそっち行くから。ちゃんと待っててよ』
葵はトーク画面を開きかけ、親指を止めた。
さかのぼれば、この体の持ち主の言葉が並んでいるはずだ。
書類の山の上にのった、表紙の角がすり切れた分厚いノートも同じだった。
体ごと借りておいて今さら、と自分でも思う。
それでも、持ち主の知らないところで中身をのぞく気にはなれない。
下にあの車がいる以上、この部屋からは出られない。
千夏という人は、いずれあの扉の前に立つことになる。
葵は血で強ばったシャツを脱ぎ、肌が赤くなるまで濡れたタオルでこすった。
血がすっかり落ちても、その下からは傷ひとつない肌が現れるだけだ。
裂けたシャツはクローゼットの奥へ押しこみ、床の結晶は空き箱に集めて机の下に置いた。
ひとつ拾うたびに、手の中でしゃら、と澄んだ音が鳴る。
陽が傾いても、空の“傷跡”は黒い亀裂のまま街の上に横たわっていた。
通りを行き交う人たちは、誰ひとりそれを見上げようとしない。
* * *
インターホンが鳴ったのは、通りの街灯がともり始めた頃だった。
モニターには、この体と同じくらいの年頃の女性が映っている。
走ってきたのか、胸元のエプロンが大きく上下していた。
「灯? いるんだよね? うちだよ、開けて」
画面いっぱいに寄った顔が、眉を八の字にしてこちらをのぞきこんでいる。
――この人だって、さっきの男たちと繋がっていないとは限らない。
葵はボタンの上でしばらく指を迷わせてから、玄関のチェーンを外した。
滑りこんできた女性が、葵の肩へまっすぐ手を伸ばす。
葵の体は、考えるより先に半歩うしろへ下がっていた。
行き場をなくした手を、女性はしばらく黙って見つめていた。
「……灯?」
名前を呼ぶ声が、さっきまでの勢いを失って小さくしぼんだ。
「……どうぞ。上がってください」
目を伏せたまま廊下の奥を示すと、女性の眉がぴくりと動いた。
せめてお茶でもと台所に立ったものの、どの戸棚にカップがあるのか分からない。
一つ目の扉を開けて閉め、二つ目に手をかけたところで、背後から静かな声がした。
「カップなら、右の上の段だよ。……灯なら、目つぶってても出せるのにね」
振り返ると、女性は椅子の背に手を置いたまま、まっすぐこちらを見ていた。
玄関でのせわしなさは、もうどこにもない。
「うちの目はごまかせないよ。灯じゃないでしょ」
戸棚の取っ手から、葵の指がすべり落ちた。
小さな音を立てて、扉がひとりでに閉まる。
「……言っても、どうせ信じないでしょ」
葵は女性に背を向けたまま、コンロの縁を握りしめた。
「それは、聞いてみないと分かんないでしょ」
女性は向かいの椅子を指先で軽く叩き、葵が腰かけるのを待った。
昼に目が覚めたら、あの部屋の床に倒れていたこと。鏡を見たら、この顔だったこと。
屋上のことだけは喉の手前で引っかかって、どうしても言葉にならなかった。
「じゃあ、灯は?」
問いかける声は、ほとんど囁きに近かった。
葵は首を横に振ることしかできない。
女性は唇を引き結び、葵が目を覚ました部屋へ足を向けた。
机の下の箱では、拾い集めた結晶が天井の明かりを受けて淡く光っている。
赤黒く染まったひとつへ伸ばされた指が、触れる寸前でぴたりと止まった。
指は何もつかまないまま、ゆっくりと握りこまれる。
「これ……どこにあったの」
振り向かないまま問う声が、かすかにかすれていた。
「床に散らばってた。着てた服も胸のところが破れてて、血がついてた。でも、どこにも怪我はなかった」
女性は返事をしなかった。
エプロンの裾を握る手の甲に、白く筋が浮いている。
長い沈黙のあと、女性は深く息を吸い、膝を伸ばして立ち上がった。
「……そっか」
振り向いた顔には、無理やり形にしたような笑みが浮かんでいた。
「灯は、結晶を作れる異能を持ってたの。星晶術っていって。うちのお店にも、灯が作ってくれた小物がいっぱい飾ってあるんだ」
懐かしそうに目を細める女性の言葉の中に、聞き慣れない単語が混じっていた。
「異能って……あの空の傷も、関係あるの」
葵がカーテンの隙間を指さすと、女性は目をまるくした。
「門のこと? 二十年前の星降りの日に、急に空に開いたの。そこから隕石みたいに降ってきたのが天晶で……それからだよ。人に異能が出たり、動物がモンスターになったり、獣人になる人が出てきたりしたのは」
当たり前のことを話す口ぶりなのに、その声は一言ごとに慎重になっていった。
葵の知っている空に、穴など開いていなかった。
モンスターという言葉が、ゲームの外で使われたことも一度もない。
「……私のいたところには、そんなの、なかった」
ぽつりとこぼした言葉を、女性は否定しなかった。
ただ、口元にそっと指を当てる。
「うち、宮下千夏。灯とは、ちっちゃい頃からの幼なじみなんだ。……あなたの名前、聞いてもいい?」
葵は目を逸らし、しばらく床の木目を見つめていた。
「……七瀬、葵」
「葵、か」
千夏は確かめるように、その名前を口の中で転がした。
昼にアークの人間が来たことを葵が話すと、その表情から笑みがすっと消える。
「アークって、灯が研究の仕事してたとこだよ。……下に停まってる黒い車も、そうなの?」
「たぶん。昼からずっといる。持ち出したものを返してほしい、みたいなこと言ってた」
葵が答えると、千夏は黙って肩の鞄へ手をやり、内ポケットのあたりを一度だけ押さえた。
何を確かめたのか、葵には分からなかった。
千夏は台所へ戻り、持ってきた紙袋からラップに包まれたサンドイッチを取り出した。
葵が手を出さずにいると、ひとつを取り上げて、手のひらにそっとのせてくる。
「ほら、ちゃんと食べなきゃだめだよ。灯の体なんだから」
口元まで運びかけたサンドイッチが、そこで止まった。
自分のものではない手が、自分のものではない口へ、食べ物を運ぼうとしている。
葵は小さくひと口かじり、味の分からないまま飲みこんだ。
「ねえ、今夜はうちにおいでよ。あの人たち、また来るかもしれないでしょ」
食べ終わった包みを畳みながら、千夏が言った。
その声には、どこにも嘘の響きがない。
だからこそ、昨日まで笑い合っていた顔がある朝いっせいに背を向けた、教室の光景が頭をよぎった。
仲良くなりかけたところで、また誤解されたら。今度は、逃げこむ場所さえない。
「……いい。一人でいたい」
葵は千夏の顔を見ずに、畳まれた包みの角を指でなぞった。
「大丈夫だよね?……ううん、大丈夫じゃない顔してる」
千夏が身を乗り出すと、葵は椅子の上でわずかに体を引いた。
「会ったばっかりの人に、そこまでしてもらう理由ないでしょ」
「理由ならあるよ。灯の――」
言いかけて、千夏は口をつぐんだ。
テーブルの下で、エプロンの裾がくしゃりと握られる。
葵がもう一度首を横に振ると、千夏は長く息を吐いて立ち上がった。
「分かった。明日の朝いちばんに来る。誰が来ても絶対開けちゃだめだよ。何かあったら、夜中でもすぐ電話して」
玄関で靴を履くあいだも、千夏は何度もこちらを振り返った。
「……ちゃんと、待っててよ」
スマホに残っていたのと同じ言葉を残して、扉が閉まった。
葵は鍵を回し、チェーンをかける。
しばらくしてから窓辺へ寄り、カーテンの隙間から下の通りを見下ろした。
街灯の下を、千夏の小さな背中が足早に遠ざかっていく。
路肩の黒いワゴン車の窓が、音もなく少しだけ下がった。
その隙間の奥で、小さな赤い光がひとつ、ともる。
葵はカーテンを握りしめたまま、その光が消えるまで目を離せなかった




