3年後の俺と私へ
空は黒く厚い雲に覆われ、泣き止み方を忘れたように大粒の雨を降らせ続けていた。
屋上へと続く階段は薄暗く、湿ったコンクリートの匂いがこもっている。
一段のぼるたびに、自分の足音と、扉の向こうで雨が打ちつける音が重なって響いた。
重い扉を押し開けると、冷たい雨が一瞬で制服を肩から靴の中まで濡らしていく。
寒さも、肌にまとわりつく布の重さも、もうどこか他人事のように遠かった。
――俺は、今日死のうと思う。
――私は、今日死のうと思う。
同じ時刻、同じ雨の下。
けれど二人は、互いの名前も顔も知らない。
ひとりはとある高校の屋上に、もうひとりはそこから遠く離れた別の高校の屋上に立っていた。
フェンスの向こう側に出ると、遮るもののない風が頬を強く打った。
「あーあ……今思えば、あのクソ再婚野郎さえいなければ、俺は普通に幸せに生きてたんだろうな」
天野蒼太は、額に張りついた前髪の隙間から、灰色に沈んだ街を見下ろした。
「はぁ……なんで私、あいつと仲良くしちゃったんだろ。そうしなきゃ今頃、みんなと笑ってられたのかな」
七瀬葵は、背中越しにフェンスを握っていた指を、一本ずつほどいていく。
『――そんなこと、考えたって仕方ないか』
二人は同時に、遠い地面へと目を向けた。
膝が小刻みに震え、喉の奥で何かがせり上がりかける。
それを飲み込むように、二人は奥歯を噛みしめた。
そして、一歩を踏み出す。
その瞬間、分厚い雲の切れ間を、ひと筋の光が走った。
流れ星――雨の日に、そんなものが見えるはずはないのに。
光はみるみる視界を埋め尽くし、そこで意識はぷつりと途切れた。
天野蒼太、七瀬葵
2026年6月19日 12時32分 死亡 死因:自殺
* * *
暗い。
冷たくも温かくもなく、上も下も分からない。
自分の輪郭がほどけて、何か別のものと混ざり合っていく。
すぐそばに、誰かがいる。
知らない誰か。知らない痛み。知らない後悔。
そしてもうひとつ、ずっと遠くから、女の人の声が届いた。
『……ごめんね。でも、お願い』
『――生きて』
その声だけが、暗闇の中でいつまでも消えずに残っていた。
* * *
最初に届いたのは、ガラスの破片を踏んだような鋭い痛みだった。
目を開けると、見知らぬ白い天井が広がっている。
葵はフローリングの床に、仰向けに倒れていた。
机の上には分厚い本と書類が積み上がり、壁一面に数式のようなメモがびっしりと貼られている。
体を起こした拍子に、しゃら、と澄んだ音が鳴った。
床一面に、青白く光る欠片が散らばっている。
ガラスとも氷とも違う、内側から淡く輝く結晶だった。
そのいくつかは、赤黒い染みをまとっていた。
「なに、これ……」
こぼれた自分の声に、葵は息を呑んだ。
自分の声ではない。少し大人びた、知らない女の人の声だ。
震える手を目の前にかざすと、細く長い指は見慣れた自分のものとまるで違っていた。
葵は這うようにして部屋の隅の姿見まで進み、縁につかまって立ち上がった。
鏡の中にいたのは、二十代半ばくらいの女性だった。
柔らかそうな髪が肩にかかり、胸元のシャツは内側から弾けたように裂けている。
布地には乾きかけた血がこびりついているのに、のぞく肌には傷ひとつない。
「……誰」
鏡の中の女が、葵とまったく同じように唇を動かした。
指先で頬に触れると、鏡の中の指も同じ頬に触れる。
――私、死んだはずだよね。
雨の冷たさも、あの一歩の感触も、まだ体の奥に残っている。
なのに窓の外は、嘘のように晴れ渡っていた。
葵はふらつく足で窓辺に近づき、カーテンの隙間から空を見上げる。
澄んだ青空の真ん中に、巨大な亀裂のような傷跡が、ぽっかりと口を開けていた。
ピンポーン。
乾いたチャイムの音に、葵の肩がびくりと跳ねた。
少し間を置いて、もう一度。
「星川灯さん。いらっしゃいますよね」
扉越しの男の声は穏やかで、それでいて感情の色がまるでなかった。
「アーク・コーポレーションの者です。――少し、お話を伺えますか」
葵は窓辺に立ち尽くしたまま、呼吸の仕方を忘れたように玄関の方を見つめた。




