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殻

肩に置かれた男の手が、ずしりと重かった。


「立てますか、星川さん。……ああ、無理はなさらなくて結構です」


スーツの男は穏やかに言い、背後の部下へ顎で合図を送った。

手の甲に布を巻いた黒服が、舌打ちまじりに近づいてくる。

巻かれた布は、内側からじわりと赤く染まっていた。


* * *


蒼太の体は、床に縫いつけられたように動かなかった。

大人の男が、すぐそこにいる。

こういうとき、どうすればいいかは知っていた。

声を出さない。目を合わせない。終わるまで、じっとしている。

そうしていれば、殴られるのは自分だけで済む。

隣の部屋で息を殺している、橙真《とうま》のところまでは行かない。


――逃げたら、橙真が。


体に染みついた声が、膝の裏を床に押しつけた。

けれど次の瞬間、白い菊の匂いが鼻の奥によみがえる。

小さな棺。読経の声。最後まで誰とも目を合わせず、涙を流さない母の横顔。


――橙真は、もういない。


背中の後ろに、守るものなんて何も残っていない。

それなのに、体だけが昔の形のまま固まっている。

蒼太の喉から、笑いとも呻きともつかない息がこぼれた。


* * *


黒服の手が、蒼太の二の腕をつかんだ。

その瞬間、頭を抱えていた腕の内側が、かっと熱を帯びた。

皮膚の上を、ぱきぱきと薄い氷が張るような音が走っていく。

気づけば、肘から肩にかけてを、青白い結晶の殻が覆っていた。

つかんでいた指が硬い表面にはじかれ、滑り落ちる。


「……何だ、これ」


黒服が、自分の手と蒼太の腕を交互に見比べた。

スーツの男が、すっと目を細める。


「針では、ない……?」


独り言のようなその声からは、さっきまでの余裕が抜け落ちていた。

男はすぐに表情を戻し、銃を構えた部下へ短く告げる。


「眠っていただきましょう」


乾いた発射音がして、何かが蒼太の背中を打った。

けれど、痛みは来ない。

背中まで広がった結晶に弾かれ、細い針のついた弾が床を転がっていく。


そのとき、遠くでサイレンが鳴った。

一つではない。夜の街の底から、いくつも重なってこちらへ近づいてくる。

黒服たちが、いっせいにスーツの男を振り返った。


「……あの電話か」


男は、ガラス戸の向こうの床に転がるスマホへ目をやった。

画面の中では、まだ女の人の声が、誰かの名前を呼び続けている。


男たちの視線が自分から外れた、その一瞬だった。

蒼太は這うように後ずさり、背中が薄い板にぶつかった。

ベランダの端を隣と仕切っている、白い板だ。

目の前の高さに、色あせたステッカーが貼られている。


――非常の際は、ここを破って隣戸へ避難できます。


考えるより先に、体が動いていた。

蒼太は結晶に覆われた肩を、板へ叩きつけた。

一度目で、板が大きくたわむ。

二度目で、乾いた音とともに真ん中が裂けた。


「待て!」


背後で黒服の声が上がった。

蒼太は裂け目に体をねじこみ、隣のベランダへ転がり出る。

破れた板の縁が頬をかすめ、熱い線が一本走った。

足元の床には、四角い金属の蓋がはめこまれている。

蓋の上にも、同じ色あせた文字。避難はしご。

蒼太は震える指で取っ手を引き上げた。

蓋の下から、折りたたまれた梯子ががらがらと音を立てて垂れ下がっていく。


振り返ると、裂け目の向こうで黒服が板に手をかけていた。

その肩を、スーツの男が後ろから押さえる。


「追わなくていい。今夜はここまでです」


男は、裂け目越しに蒼太の顔をまっすぐ見ていた。

その口元に、またあの穏やかな笑みが浮かぶ。


「またお会いしましょう、星川さん。何度でも」


蒼太は男から目を逸らし、梯子に足をかけた。

鉄の段が、素足の裏に冷たく食いこむ。

一段おりるたびに、腕を覆っていた結晶がひびを走らせ、ぱらぱらと剥がれ落ちていった。

六階のベランダにも、少しずれた位置に同じ蓋がある。

五階にも、四階にも。

明かりの消えた誰かの家の窓の前を、息を殺して通り過ぎる。

二階の手すりを越えて植え込みに飛び降りたとき、殻はもう、ひとかけらも残っていなかった。


* * *


マンションの裏手は、細い路地になっていた。

表の通りから回ってくる赤い光が、ビルの壁を何度も舐めていく。

黒いワゴン車のものらしいエンジン音が、サイレンと入れ違いに遠ざかっていった。

蒼太はブロック塀に背中を預け、そのままずるずると座りこんだ。


手のひらを見る。

細く長い指の、爪の先まで赤黒い。

頬に触れると、板の縁でできた傷から、ぬるい血がにじんでいた。

濡れた髪が首筋に張りつき、身じろぎするたびに、胸元で慣れない重みが揺れる。

蒼太はとっさに、自分の腕で胸の前を覆った。


「……なんなんだよ」


声も、指も、体の重さも、何ひとつ自分のものではなかった。

路地の入り口で、誰かが走ってくる足音がした。

蒼太は塀に爪を立て、身を縮める。


飛びこんできたのは、息を切らした女の人だった。

表の騒ぎを避けて回りこんできたのか、マンションの上の階を見上げ、それから路地の暗がりへ目を走らせる。

その視線が、蒼太の上で止まった。


「――葵!」


女の人が、まっすぐこちらへ駆け寄ってくる。

大人の女の人。

その顔に、見て見ぬふりをした母の横顔が、一瞬だけ重なった。

蒼太は塀に背中を押しつけ、手のひらを前に突き出す。


「来んな!」


女の人の足が、二歩手前でぴたりと止まった。


「葵……? うちだよ、千夏だよ。電話くれたでしょ」


千夏と名乗った人は、その場に膝をつき、蒼太と目の高さを合わせようとした。

蒼太は、その視線から顔を背ける。

さっきスマホの中で叫んでいたのと、同じ声だった。


「……誰だよ、それ」


千夏の唇が、小さく開いたまま固まった。


「葵って、誰だよ。俺は、そんな名前じゃない」


サイレンの光が、路地の奥まで赤く差しこんだ。

照らされた千夏の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。


「……あなた、誰?」


問いかける声は、ひどくかすれていた。

蒼太は答えなかった。

血に濡れた知らない手で、ただ自分の膝を抱えていた。


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