↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
湯の花  作者: 真核生物
PR
9/13

第九章 書き換え

通知は、十月八日に来た。


郵便は週に三回、麓から上がってくる。配達の人は砂利道の途中までバイクで来て、そこから歩く。宿の前に着くと、必ず一度、玄関の戸を叩いた。中に人がいてもいなくても叩くのだと、老人が言っていた。


その日、老人は土間で受け取った。

封筒は厚かった。角が二重になっていた。


老人は封を切らずに、帳場に持っていった。

机の端に、九月に書きかけた変更届が置いてある。上に湯呑みが載っている。老人は湯呑みをどけて、その横に封筒を置いた。


それから、椅子に座った。座って、封筒を見ていた。

わたしは土間に立っていた。


「開けないんですか」

「開けます」

老人は言ったが、手を出さなかった。


三十秒くらい、そのままだった。

それから封を切った。刃物は使わず、指で端から裂いた。裂け目が斜めに入った。


*


中身は、綴じてあった。


表紙に、源泉名と、採水の年月日と、分析の年月日が書いてある。分析年月日は十月二日だった。

めくると、表が並んでいた。左の列に成分の名前、右の列に数字。数字の桁が揃えてある。


老人は最初の一枚を見て、二枚目をめくって、三枚目でとまった。

三枚目を、しばらく見ていた。


「変わってますか」

「変わってます」

「どこが」

老人は答えなかった。綴じを閉じて、机に置いた。


それから、変更届の紙を引き寄せた。

空けてあった欄に、書きはじめた。ボールペンで、一字ずつ、間隔を空けて。

書きながら、綴じを開いて、また閉じた。三回そうした。


書き終えて、老人は紙を封筒に入れた。

入れてから、机の上を片づけた。湯呑みを台所へ持っていった。


「郵便、明後日です」

それだけ言った。


*


三日後、保健所から電話があった。


帳場の黒い電話が鳴って、老人が出た。

「はい」

「はい」

「わかりました」

それだけで切れた。


老人は受話器を置いて、玄関のほうへ歩いていった。

額の前に立った。


わたしは階段の途中にいた。

老人は額の枠の下側に手を入れて、持ち上げた。枠は壁から浮いて、少し傾いた。埃が落ちた。

老人は壁から額を外して、両手で抱えた。


思っていたより大きかった。老人の胸から腰までを覆う大きさだった。


「手伝いましょうか」

「いいです」

老人は額を土間に立てかけた。ガラスの面を外に向けて、壁に寄りかからせた。


壁には、額のあった跡が残っていた。

四角く、周りより色が濃かった。周りが焼けて、そこだけ焼けていない。角は直角ではなく、少し丸かった。額の枠が、そういう形をしていた。


*


新しい紙は、翌日届いた。


筒に入っていた。丸めて送られてきたのを、老人は板の上に広げて、四隅に湯呑みを載せた。載せても端が持ち上がった。しばらくそのままにしておいた。


夕方、紙は平らになった。


老人は額を土間に寝かせて、裏の止め具を一つずつ外した。止め具は八つあった。外すたびに、小さい音がした。

裏板を取ると、中から古い紙が出てきた。


十年、ガラスの下にあった紙だった。

表からは白く見えていたが、裏から見ると、全体が薄く茶色かった。四隅がとくに濃い。裏板に当たっていた面に、四角い跡が薄くついていた。


老人は古い紙を持ち上げて、土間の光に透かした。

透かすと、印刷の字が裏返しに見えた。


「捨てるんですか」

「取っておきます」

老人は紙を丸めて、送られてきた筒に入れた。筒を帳場に持っていって、引き出しに入れた。引き出しの中に、同じような筒が二本あった。


*


新しい紙を入れて、裏板を戻して、止め具を八つ留めた。


老人は額を持ち上げて、壁に戻した。

四角い跡の上に、ぴったり重なった。少しずらして、戻して、それで手を離した。


わたしは近づいた。


上から読んだ。


  源泉名     第一源泉

  泉質      酸性・含硫黄-ナトリウム・アルミニウム-硫酸塩泉

  泉温      源泉四十八・一度 使用位置四十一・五度

  水素イオン濃度 pH二・四七

  分析年月日   令和八年十月二日

  分析者     登録分析機関


泉質名が長くなっていた。

ナトリウムという語が、前にはなかった。


成分の表は、数字だけが違った。

並びは同じだった。ナトリウム。カリウム。マグネシウム。アルミニウム。鉄。メタけい酸。メタ亜ひ酸。

どの数字も、前の数字を覚えていないので、変わったのかどうか、わたしにはわからなかった。


太い線があった。

線の下も、前と同じだった。


  浴用の禁忌症


  急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、

  呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、

  妊娠中(とくに初期と末期)


三行。同じだった。字の並びも、読点の位置も。


その下も、同じだった。


  泉質別禁忌症(浴用)

  酸性泉  硫黄泉に準ずる

  硫黄泉  皮膚、粘膜の過敏な人 特に光線過敏症の人

       (硫化水素型)高齢者の皮膚乾燥症


  飲用の禁忌症

  下痢の時


ここまでは、一字も変わっていない。


*


その下に、段が一つ増えていた。


前の紙には、なかった段だった。

見出しの字が、ほかより少し太かった。


  含有成分別禁忌症


  ・一日に四百ミリリットルを超えて温泉を飲用する場合

   塩分制限の必要な病態

   (腎不全、心不全、肝硬変、虚血性心疾患、高血圧など)


一行だった。

一行というより、一項目だった。


わたしはそれを読んだ。

読んでから、上に戻って、また読んだ。


四百。

飲用の方法及び注意の段には、二百から五百までとしてください、と書いてある。その段は変わっていない。

五百まで飲んでいい湯で、四百を超えると、そこから先は誰かのための行になる。


*


「これ、増えましたよね」


老人は止め具の袋を片づけていた。

「増えました」

「前はなかったですよね」

「なかったです」


「湯が変わったんですか」

「量が変わりました」

老人は袋の口を閉じた。

「増えると、計算の答えが小さくなります。小さくなって、五百を切ると、書かなければならなくなります」


「十年前は」

「十年前は、五百を超えていました」

老人はこちらを見なかった。

「超えていたので、書かなくてよかった」


「同じ湯なのに」

「同じ湯です」


老人は袋を帳場の引き出しに入れた。

引き出しを閉めるとき、少し力が要った。中に筒が三本になっていた。


*


夜、飲泉所に降りた。


柱の紙も、新しくなっていた。

飲用の方法及び注意は、前と同じだった。一回百ミリリットルまで。一日二百から五百まで。食後。お茶とコーヒーは三十分。


その下に、玄関と同じ段が足してあった。

同じ字で、同じ文面だった。


柄杓を取って、管の下に差し入れた。

溜まった。引いて、計量カップに移した。百のところで止まった。水を足して、百五十にした。


飲んだ。三回に分けた。

今日で三杯目だった。朝に一杯、昼に一杯、いま一杯。

三百だった。


四百まで、あと一杯ある。

四百を超えるには、あと二杯いる。


カップを洗って、伏せた。取っ手を山のほうへ向けた。


*


戻ると、玄関に若い女がいた。


額の前に立って、読んでいた。

今度は、速くなかった。増えた段のところで、指を紙の上のほうに向けて、何かを確かめていた。


「増えてますよね、ここ」

女が言った。

「増えてます」

「わたし、四百も飲んでないです」

「一杯でいいって言ってましたね」

「一杯です」


女は指を下ろした。

「じゃあ、関係ないですね」

そう言って、階段を上がっていった。


*


わたしは、しばらく残った。


ガラスに顔が映る。

増えた段は、額の下のほうにある。かがまないと、顔が重ならない。かがんでみた。


  腎不全、心不全、肝硬変、虚血性心疾患、高血圧など


五つ並んでいた。

最後に「など」がついている。五つで終わっていない。


上の段に戻った。

浴用の禁忌症の三行。こちらは十年間、一度も動いていない。動かないものと、動いたものが、同じガラスの下に並んでいた。


わたしは下の段をもう一度読んだ。


四百ミリリットルを超えて飲用する場合、と書いてある。

超えて、である。四百は入らない。


増えた一行を、わたしは自分のことだと思わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。