第十章 帰る人
女は、二度延ばした。
一度目は、再来週の火曜の三日前だった。
帳場で老人と話しているのを、階段の途中で聞いた。
「あと一週間、いいですか」
「いいですよ」
「有休、もう使い切っちゃったんですけど。ずる休みってことにします」
女は笑った。老人は壁の紙に、線を足した。
二度目は、その一週間が終わる日だった。
今度は笑わなかった。
「もう一週間だけ」
「はい」
老人は線を足した。足すとき、紙の端まで届いたので、右上に小さく矢印を書いた。
*
延ばしているあいだ、女は変わった。
はじめの二週間は、湯から上がると足音が速かった。階段を二段ずつ上がっていた。
三週目からは、一段ずつになった。
炊事場で会うことが増えた。
最初は、レトルトと、カップのものと、コンビニの袋に入った何かだった。袋には麓の店の名前が印刷してあった。
三週目に、女が米を買った。帳場の棚の、手書きの値札のついた米だった。
「炊き方、わかりますか」
「炊飯器ないんですね、ここ」
「鍋です」
わたしは自分の鍋を貸した。女は火加減を三度聞いた。
四週目、女が飲泉所から上がってきた。
カップを洗って、伏せて、取っ手を山のほうへ向けていた。
「一杯じゃなくなりましたか」
「二杯です」
女は手を拭いた。
「二百なら、書いてない量なので」
*
帰る前の日、女は荷物を出した。
廊下にリュックを置いて、中身を全部畳の上に広げていた。戸が開いていたので、見えた。
Tシャツが六枚。下着。タオル。充電器。本が二冊。
本は、二冊とも読んだ形跡がなかった。帯がついたままだった。
「読まなかったんですか」
「読もうと思ってたんですけど」
女は本を手に取って、裏の説明を読んだ。読んでから、リュックに入れた。
「一か月あったのに」
女は畳の隅を見ていた。
「ここ、何にもないじゃないですか」
「何もないですね」
「なのに、何もしなかったです」
女は笑った。笑ったが、そのあとが続かなかった。
*
当日の朝、女は湯に入った。
わたしも入った。
二人で入るのは、初めてだった。
湯は濁っていた。朝に掬ったあとなのに、もう白かった。
女は肩まで浸かって、しばらく黙っていた。
「これ、家で再現できますかね」
「湯の花、買っていくんですか」
「買いました。三袋」
「三袋だと、三回ですね」
「三回でいいです」
女は湯の面を手で払った。白いものが寄って、また散った。
「あの人、二十四袋でしたよね」
「そうでした」
「三袋と二十四袋って、違いますよね」
「違います」
「何が違うんですか」
わたしは答えなかった。
女も、答えを待っていなかった。
「わたし、ここ好きです」
女は言った。
「好きですけど、住みたくはないです」
*
上がってから、女は浴場の戸の前に立った。
中から湯の音がした。誰かが動いている音だった。
女は戸に手をかけて、開けなかった。
「挨拶、したほうがいいですよね」
「したいなら」
「したいんですけど」
女は手を下ろした。
「なんて言えばいいのか、わからなくて」
戸の向こうで、湯が縁を越える音がした。人が動いたのだと思う。
女はもう一度、手をかけた。今度は少しだけ開けた。
「あの、今日帰ります」
声が湯気に吸われて、思ったより小さくなった。
返事は、間があった。
「そうですか」
男の声だった。
「一か月、お世話になりました」
「気をつけて」
それだけだった。
女は戸を閉めた。閉めてから、少し立っていた。
「起きてました?」
「起きてたと思います」
「よかった」
女は階段のほうへ歩いた。三段上がって、止まった。
「あの人、何日目なんですかね」
「三週間で来てるそうです」
「何年目とかじゃなくて」
「今回は三週間だと」
女はうなずいた。
「じゃあ、あと少しなんだ」
そう言って、上がっていった。
*
十四時に、女は玄関に降りてきた。
リュックを背負って、両手の親指を肩紐にかけていた。
老人が出てきた。手に温度計を持っていた。いつもそうだった。
「お世話になりました」
「はい」
「一か月も、すみません」
「三十一日です」
老人が言った。
「延ばした人で、三十一日は、五番目に長いです」
女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「上に四人いるんですか」
「います」
老人は上を見なかった。
「一人は、今もいます」
老人は帳場の棚から紙の袋を取って、女に差し出した。
「これ、持っていってください」
「え、買いましたけど」
「買ったのは三袋でしょう。これは別です」
女は受け取った。袋は、買ったものと同じ大きさだった。
「いいんですか」
「四袋あれば、四回できます」
老人はそれだけ言って、帳場に戻った。
女は袋をリュックの外側のポケットに入れた。
入れてから、口を二回折って留めてあるところを、指で押さえ直した。
女は額のほうを見た。
浴場のほうも見た。それから、玄関の戸を引いた。
「バス停まで行きます」
わたしが言うと、女は少し目を開いた。
「いいですよ、そんな」
「下りたいので」
*
砂利道を下った。
女の歩くのが速かった。荷物があるのに速かった。
石の土台のところで、女が立ち止まった。
「これ、なんですか」
「宿があったところです。四軒」
「四軒」
女は草の中の錆びた蛇口を見た。ひねろうとして、手を止めた。
「この宿も、いつかこうなるんですかね」
「そうかもしれません」
「そのとき、あの人どうするんですかね」
わたしは答えなかった。
女は蛇口から手を離して、また歩き出した。
*
橋のたもとに、十四時四十分に着いた。
ベンチはない。ガードレールに寄りかかった。
川の水は透けていた。石の色がそのまま見えた。ここは、一度も白くなったことがないのだと思った。
「時刻表、裏に何か書いてあります」
女がバス停の柱を覗き込んだ。
「歩いて十五分、ってやつですか」
「これ、おじいさんが書いたんですか」
「たぶん」
「にじんでますね」
十五時五分に、山の下のほうから音がした。
エンジンの音が、谷に反響して、実際より近く聞こえた。それから遠ざかって、また近づいた。
「来ますね」
「来ますね」
「あの」
女が言った。
「変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「いつまでいるんですか」
わたしは川を見ていた。
「決めてないです」
「決めないんですか」
「決めてから来る人と、決めないで来る人がいるそうです」
女は少し黙った。
「わたし、決めてきました」
「そうですね」
「決めてきたのに、二回延ばしました」
女はリュックを背負い直した。
「三回目は、なかったです」
*
十五時九分に、バスが橋を渡ってきた。
車体が古い。前の窓の下に、行き先の板が差してある。
バスは停まった。戸が開いた。運転手がこちらを見た。同じ運転手だった。
女はリュックを背負い直して、一歩前に出た。
出てから、振り返った。
「またとか、言わないほうがいいですか」
「言ってもいいです」
「じゃあ」
女は少し笑った。
「言わないでおきます」
女は乗った。
戸が閉まった。
窓のところに来て、こちらを見た。手は振らなかった。わたしも振らなかった。
バスは出た。
カーブで一度、車体の横が見えて、それから見えなくなった。
エンジンの音は、しばらく谷に残っていた。残っている音のほうが、長かった。
*
わたしはガードレールに寄りかかったままだった。
時刻表を見た。
十五時十分。最終。その上に、九時四十分。その上に、十三時四十分。
三本しかない。
裏を見た。
歩いて十五分、と書いてある。にじんだボールペンの字だった。
女は、この字を読んで来た。
読んで、十五分歩いて、上がってきて、三十一日いて、今日、十五分ぶんを下りて、乗った。
乗る日を、来る前から決めていた。二度延ばして、それでも決め直して、乗った。
わたしは砂利道のほうを見た。
登りだと、十八分かかる。
帰る日を決めてから来る人のことを、わたしは知らなかった。




