第十一章 湯冷め
十一月の初めに、山を下りた。
予約を取ったのは、その一週間前だった。
帳場の黒い電話を借りた。老人は帳場にいたが、聞いていない顔をしていた。それでも土間に立っているのが不自然にならない距離にいた。
「何時のがいいですか」
電話を切ってから、老人が言った。
「午前中です。十一時の予約で」
「なら、九時四十分の便です」
老人は壁の時刻表を見なかった。
「十一時には着きます。帰りは、十五時十分しかありません」
「一泊とかは」
「しなくていいです」
言ってから、自分が早く答えすぎたと思った。
老人は何も言わなかった。
*
当日、五時に目が覚めた。
湯には入らなかった。
入ってから行くと、髪が乾かないと思った。それだけの理由だった。
服を出した。
来たときに着ていたものだった。押入れの奥に、紙袋に入れて置いてあった。出すと、袋の内側に少し湿りがあった。
着替えて、鏡を見た。脱衣所の鏡は曇っているので、窓のガラスを使った。
外が明るくなりはじめていて、ガラスに顔が映った。二か月半、ほとんど見ていなかった。
腕を見た。
肘の内側の色が、来たときと違っていた。日に焼けたのとは違う変わり方だった。指で押すと、押した跡がしばらく残った。
袖を下ろした。
*
玄関で、老人が待っていた。
「これ」
紙の袋を差し出された。中に、おにぎりが二つ入っていた。
「昼、食べるところがあるかわかりませんので」
「ありがとうございます」
額の前を通った。
通りしなに、見た。
増えた段は、いちばん下にある。かがまないと顔が重ならない位置にある。かがまなかった。
戸を引いて、出た。
外は寒かった。谷の底に霧が溜まっていて、砂利道の先が見えなかった。
十五分歩いた。下りだから十二分だった。
石の土台のところで、霧が薄くなった。四つの土台が、いつもより白く見えた。
*
バスは九時四十分に来た。
乗ったのは、わたしだけだった。
運転手は、何も言わなかった。整理券を取って、いちばん後ろに座った。
窓の外を見た。
川に沿って、道が下っていく。カーブのたびに、山が入れ替わる。三十分ほどで、家が増えた。家が増えると、川が広くなった。
四十分で、麓の町に着いた。
バスを降りると、匂いがしなかった。
硫黄の匂いがしないということに、降りてから気づいた。気づくまでに、三十秒かかった。
*
病院は、駅の裏にあった。
自動ドアが二重になっていた。
一枚目を抜けたところで、足が止まった。床が固かった。宿の板とも、土間とも、違う固さだった。
受付で診察券を出した。
「お久しぶりですね」
受付の人が言った。カルテの画面を見ていた。
「七か月ぶりです」
「そうですね」
待合室に座った。
椅子は硬いが、背もたれがあった。テレビがついていて、音が小さかった。
向かいに、老人が二人と、子ども連れが一組いた。子どもが靴を脱いで椅子に上がって、母親に注意されていた。
壁に、紙が貼ってあった。
インフルエンザの予防接種の案内だった。値段と、期間と、予約の電話番号が書いてある。
その隣に、別の紙があった。受診の際のお願い、と書いてある。四項目あった。
わたしはそれを読んだ。
上から下へ読んで、下から上へ読んだ。
読んでから、自分が何をしているか気づいた。
*
名前が呼ばれた。
診察室は、二番だった。
入ると、先生が画面のほうを向いていた。こちらを向いて、椅子を回した。
「おかけください」
座った。
*
診察は、十分で終わった。
*
会計を待つあいだ、廊下のベンチに座っていた。
処方の紙を持っていた。二枚あった。一枚は前と同じ内容で、もう一枚は初めて見るものだった。増えていた。
窓の外に、駐車場が見えた。
白い軽ワゴンが停まっていた。九月に宿に来た車と同じ型だった。荷室は閉まっていた。降りてきたのは知らない人だった。
会計の番号が呼ばれた。
払って、薬局へ行った。薬局は病院の向かいにあった。
薬剤師が袋に薬を入れながら、説明をした。
飲む時間と、回数と、注意することを言った。
わたしは聞いていた。聞きながら、宿の脱衣所の、伏せてある袋のことを考えていた。名前の面を下にして置くのは、慣れている人のやり方だと思ったこと。
「何か、ご質問は」
「ないです」
袋は、思っていたより大きかった。
リュックに入れると、上の口が閉まらなかった。
*
十二時半だった。
バスは十五時十分まで、ない。
駅前に喫茶店があった。入って、窓際に座った。
コーヒーを頼んでから、飲んではいけないことを思い出した。飲用直後に、お茶・コーヒーはお控えください。
今日は飲んでいない。飲んでいないので、いいはずだった。
コーヒーが来た。
熱かった。四十一度五分より、ずっと熱かった。
おにぎりを出して、食べた。
店の人は何も言わなかった。
窓の外を、人が歩いていった。
みんな、上着を着ていた。前を留めている人と、留めていない人がいた。
わたしは二時間、そこにいた。
*
十五時にバス停へ行った。
同じバスが来た。同じ運転手だった。
乗ったのは、わたしのほかに一人いた。途中の集落で降りた。降りぎわに、運転手と二言三言かわしていた。
終点で降りた。
橋のたもとだった。時刻表の裏に、歩いて十五分、と書いてある。
砂利道を登った。
登りだから、十八分かかった。荷物が重かった。薬の袋のぶんだった。
*
宿に着いたのは、十六時十分だった。
玄関を開けると、硫黄の匂いがした。
匂いは、谷に溜まっているという来かたをした。じっとしていた。
老人が土間にいた。温度計を持っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
言ってから、その言葉を使ったことに気づいた。
「どうでした」
老人は聞いた。聞き方が軽かった。天気を聞くときの聞き方だった。
「変わりないそうです」
「そうですか」
それだけだった。
老人は温度計を持ち直して、廊下の奥へ行った。しばらくして、木の蓋を持ち上げる音がした。
*
部屋に戻って、薬の袋を出した。
机の上に置いた。
名前の面が上を向いていた。
しばらく見てから、伏せた。
伏せてから、かごに入れるものではないと思って、押入れに入れた。押入れの中で、また表を上にして置いた。
窓を開けた。
外は暗くなりかけていた。山の斜面の段は、もう見えなかった。
湯に入りに降りた。
脱衣所のかごは、一つだけ使われていた。薬の袋が、伏せてあった。位置は、いつもと同じだった。
その隣のかごに、わたしは自分の服を入れた。
いちばん端ではなかった。
湯に入った。
足。膝。腰。胸。
熱かった。
今日は町にいたので、ぬるいと感じるはずだと思っていた。
思っていたのと違った。いつもと同じ熱さだった。
*
上がって、廊下を歩いた。
玄関まで降りて、額の前に立った。
夜だった。土間の電球が一つついていて、ガラスに顔が映った。
いちばん下の段まで、かがんだ。
・一日に四百ミリリットルを超えて温泉を飲用する場合
塩分制限の必要な病態
(腎不全、心不全、肝硬変、虚血性心疾患、高血圧など)
五つと、など。
上に戻った。
浴用の禁忌症の三行。動いていない。
わたしは今日、十分間、その人の前に座っていた。
聞けば、わかることだった。この三行のどれかに当たるのか、当たらないのか。
十分あった。
聞かなかった。
先生は、聞かれなかったことには答えない。




