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湯の花  作者: 真核生物
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第十二章 掬う

男は、十一月の末に帰った。


三週間が終わった日だった。

帳場で木箱を二つ、ガムテープで留めていた。テープを切るのに、やはり両手を使った。今度は、切るまでに時間がかかった。


「二十四ですか」

「十六です」

男は言った。

「持てるのが、十六になりました」


老人は袋を数えなかった。

数えないまま、金額を言った。六千四百円だった。


男は箱を廊下の端に置いて、それからわたしを見た。

「春に来ます」

「何日ですか」

「四月の、中ごろです」

「決めてないんですね」

「決めてません」

男は少し笑った。息が短く鳴った。

「十一年、決めたことがないです」


*


十二月になった。


泊まっているのは、わたしだけになった。

帳場の壁の紙に、線は一本しかない。紙の端で跳ねて、矢印がついて、次の紙に続いている。次の紙は、まだ日付の欄が白かった。


雪が来た。

はじめは山の上だけだった。三日目に、宿の屋根に積もった。

砂利道は、老人が朝と夕方に、雪掻きで除けた。除けても、翌朝には積もっていた。


郵便は、週に三回から、週に一回になった。

バスは、三本から二本になった。九時四十分と、十五時十分。


湯の温度は変わらなかった。

四十一度五分だった。老人が毎朝、温度計を入れて、そう言った。


*


十二月十四日の朝、網の音がしなかった。


わたしは目を覚まして、そのことに気づくまでに、少し時間がかかった。

音がしないから起きたのではなかった。起きてから、音がしていないことに気づいた。


窓を開けた。

雪が降っていた。粒が細かかった。下から音は来なかった。


浴衣の上に上着を羽織って、階段を降りた。

土間は冷えていた。廊下の板も冷えていた。素足で歩くと、足の裏が板にくっついた。


浴場の戸が半分開いていた。

中から湯気が出て、廊下の空気とぶつかって、そこで白くなっていた。


*


*


翌朝、網を持った。


柄は思っていたより長い。壁に立てかけてあったものを取ると、先が天井に当たりそうになる。傾けて、戸を通す。


浴槽の縁に腰かける。

片脚を湯に入れる。熱い。

身体を前に倒す。両手で柄を持つ。


湯の面に網を当てる。

当てると、沈む。沈ませないように持ち上げると、今度は浮いて、白いものが下をくぐる。


手前から奥へ。

速い。速すぎて、水が寄って、白いものが逃げる。


もう一度。

遅い。遅すぎて、網が沈む。


三度目。

少しだけ、載る。


奥で手首を返す。

返すのが早い。湯が跳ねる。跳ねたぶん、網の中が減る。


網を傾ける。湯が落ちる。

落ちきるまで待つ。待ちきれずに、ざるで叩く。


かつん。


音が違う。

あの音より、高い。


*


一時間かけて、ざるが一つになった。


老人は三つを、一時間より短い時間でやっていた。


ざるを持ち上げる。

重い。水を含んでいるからだと思ったが、それだけではない重さだった。


裏口から出る。雪が積もっている。長靴を履く。二十三センチのほうを履く。


干し場の台に、雪が載っている。

手で払う。払うと、下からござが出てくる。ござは湿っている。


ざるを傾けて、白いものを移す。

手のひらでならす。押さずに、撫でるように。

撫でたあとが、筋になる。


筋が曲がっている。

もう一度、上からならす。曲がりが消えない。


*


その日、湯を止めなかった。


止めると木が傷むと聞いていた。

落とし口の蓋を持ち上げて、下の音を聞いた。細く続いていた。続いていればいいのだろうと思った。


帳場の温度計を取った。

柄の赤い、ガラスの棒だった。湯に入れて、待って、引き上げて、目の高さまで持ち上げた。


四十一度四分だった。

五分ではなかった。


もう一度入れた。同じだった。

玄関の額には、使用位置四十一・五度と書いてある。


一分の違いを、どうすればいいのか、わたしは知らなかった。


*


三日目には、四十分でざるが二つになった。


網の入れ方がわかってきた。

面に当てるのではなく、面のすぐ下を通す。通すあいだ、手首を動かさない。動かすのは肩だけにする。


奥で返すとき、待つ。

一拍、待ってから返す。待つと、湯が網から抜ける。抜けてから上げると、白いものだけが残る。


かつん。


音が、少し低くなった。


*


五日目。


朝、浴場に降りると、湯の面がいつもより白い。

掬っていない日が、増えたぶんだけ白い。


網を入れる。

一すくいで、ざるの底が埋まる。


手前から奥へ。

返す。落とす。叩く。


かつん。


手前から奥へ。

返す。落とす。叩く。


かつん。


窓の曇りガラスが、白くなってくる。

外が明るくなっている。


ざるが三つになる。

三つになっても、湯の面は白い。


掬ったところが、また白くなるまでに、一分もかからない。

そこをもう一度掬う。


終わらない。


老人が、終わらせるためにやってるんじゃないと言った。

言った意味が、手のほうでわかってくる。


*


裏に出る。雪が降っている。


ござが六枚。うち三枚に、白いものが広げてある。

乾き具合が違う。手前は湿って灰色がかっている。奥は白い。粉に近い。


奥のござの前に立つ。

指で触れると、散る。息を吹きかけると、飛ぶ。


木の箆で、端から寄せる。

寄せて、すくって、紙の袋に入れる。口を二回折って留める。


一袋につき、四すくい。

数えながら入れる。四すくいで、袋が同じ重さになる。


袋が七つできた。


帳場の棚に並べた。

並べ方は、丁寧にした。値札は、もとからあるものを使った。四百円と書いてある。手書きだった。


棚の板に、白い粉が落ちた。

木目に入り込んだ。指でこすっても取れなかった。


*


七日目に、郵便が来た。


砂利道の途中までバイクで来て、そこから歩いてくる。玄関の戸を、必ず一度叩く。中に人がいてもいなくても叩く。

戸を開けると、配達の人が立っていた。雪が肩に載っていた。


「ご主人は」

「今、いません」

そう答えた。ほかに答え方を思いつかなかった。


「じゃあ、これ、判子だけ」

差し出されたのは、封筒ではなく、伝票だった。荷物が一つあった。段ボールの小さい箱で、送り状に薬局の名前が印刷してあった。宛名は老人の名前だった。


わたしは判子を持っていなかった。

「サインでもいいですか」

「いいですよ」


自分の名前を書いた。

書いてから、これは違うと思った。思ったが、配達の人はもう伝票を取って、バイクのほうへ歩いていた。


箱を帳場に置いた。

机の端に置いて、上に湯呑みを載せた。文鎮のかわりだった。そういう置き方を、わたしは知っていた。


*


夜、飲泉所に降りた。


石段に雪が積もっている。五段のうち、二段だけ足跡があった。わたしの足跡だった。朝つけたものだった。


柱の紙を見た。

含有成分別禁忌症の段は、そこにある。四百ミリリットルを超えて飲用する場合、と書いてある。


柄杓を取った。

管の下に差し入れた。溜まった。

計量カップに移した。百のところで止まった。


水を足さなかった。


そのまま飲んだ。

一息では飲めなかった。二回に分けた。


カップを洗って、伏せた。取っ手を山のほうへ向けた。


*


部屋に戻って、帳場の壁の紙のことを思った。


わたしの線は、まだ伸びている。

もう一本の線は、十二月十四日で止まっている。止まったところに、印はついていない。老人がつけるはずの印だった。


わたしはつけなかった。

つけ方を知らなかった。


*


十日目の朝、網の音で目が覚めた。


自分で鳴らす音だった。

自分で鳴らす音で目が覚めることはない。だから、それは昨日の音の続きだった。


降りた。

浴槽の縁に腰かけた。片脚を湯に入れた。

身体を前に倒した。


湯の面は白かった。

昨日、三つぶん掬った。


掬っても掬っても、翌朝には白い。

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