↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
湯の花  作者: 真核生物
PR
13/13

第十三章 効能

保健所の人が来たのは、三月だった。


九月に来たのと、同じ人だった。紺色の上着に、首から札を下げている。

今度は一人だった。車も、白い軽ワゴンではなく、普通の乗用車だった。


砂利道の雪は、もう半分になっていた。

車は石の土台のところまでしか上がれなくて、そこから歩いてきた。靴が濡れていた。


*


土間で、茶を出した。


湯呑みは二つにした。

男は座らなかった。立ったまま、手帳を出した。


「休業の届けは、出されましたか」

「出しました。一月に」

「はい、こちらにも来ています」


男は手帳を見た。

「再開のご予定は」

「ないです」

「そうですか」


男は手帳を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。

「廃止になさる場合は、また別の届けがいります。公衆浴場のほうと、温泉利用のほうと、二つです」

「わかりました」

「様式は、送ります」


*


男は浴場を見たいと言った。


案内した。

脱衣所のかごは、六つとも空だった。板を拭いてあったので、埃はなかった。


浴室の戸を開けた。

湯気が出て、廊下の空気とぶつかって、そこで白くなった。


「まだ、出してるんですね」

「止めると、木が傷むそうです」

「なるほど」


男は浴槽を覗いた。

湯の面は白かった。今朝、掬ったばかりだった。掬っても、この時間にはもう白い。


「ご自分で、掬ってるんですか」

「やってます」

「大変でしょう」

「一日やらないと、翌日が倍になります」


男は少し黙った。

それから、手帳に何か書いた。書きながら、天井を見ていた。梁が黒い。煤ではないほうの黒さだった。


*


玄関に戻って、男は額の前に立った。


九月と同じように、上から下まで読んだ。

今度は、写真を撮らなかった。


「この紙は、令和八年のものですね」

「十月に貼りました」

「有効です」

男は言った。

「分析年月日から十年ですので、令和十八年の十月まで」


「休んでいても、ですか」

「掲示は、温泉を利用する施設にかかるものなので」

男は額の枠を見た。

「利用していなければ、掲示の義務もありません」


「じゃあ、外してもいいんですか」

「外していただいても、構いません」


わたしは額を見た。

壁の、四角い跡の上に、ぴったり重なっている。


「そのままにしておきます」

「はい」


男は何も聞かなかった。

理由も、いつまでかも、聞かなかった。


*


帰りぎわ、男は土間で靴を履いた。


履きながら、こちらを見ずに言った。

「去年、お会いしましたよね」

「お会いしました」

「お客さんでしたよね」

「そうです」


男は靴の紐を結んだ。両方結んでから、立ち上がった。


「お大事に」

九月と同じ言い方だった。誰にでも言う言い方だった。


戸を引いて、出ていった。

砂利道を下っていく足音が、しばらく聞こえた。石の土台のあたりで、聞こえなくなった。


*


四月の中ごろに、男が来た。


長期滞在の男だった。

玄関の戸を引いて、土間に立って、それから帳場のほうを見た。


「休みだと聞きました」

「休んでます」

「そうですか」


男は木箱を持っていなかった。

持っていたのは、小さいリュックが一つだけだった。


「湯は」

「出てます」

「入れますか」

わたしは少し考えた。

「宿としては、入れられません」


男はうなずいた。

うなずいて、それから玄関の横を見た。額があった。


「読んでいいですか」

「どうぞ」


男は近づいて、読んだ。

上から下まで、時間をかけて読んだ。増えた段のところで、少しかがんだ。かがむのに、両手を膝についた。


読み終えて、男は顔を上げた。

「増えましたね」

「十月に」

「四百ですか」

「四百です」


男は笑った。息が短く鳴った。

「私、柄杓で飲んでました」

「百でしたよね」

「一回が百です。一日に、何回か」


男はそれ以上、数えなかった。


*


男は、その日のうちに下りた。


十五時十分のバスに間に合う時間だった。

玄関まで見送った。


「来年も来ますか」

聞いてから、聞かないほうがよかったと思った。


男は戸の桟に手をかけた。

「わかりません」

「そうですか」

「十二年目です」

男は言った。

「十二年目は、まだ来ていません」


それだけだった。

男は砂利道を下っていった。歩幅は、前と同じだった。

石の土台のところで、一度止まった。止まって、四つの土台を見ていた。それから、また歩き出した。


*


五月に、湯が細くなった。


管から落ちる量が減った。

枡に溜まる速さが、明らかに違った。


登って、見た。

壁の三つの層は、そのままだった。鉄の管も、そのままだった。

管の先から、湯が垂れていた。垂れてはいたが、途切れることがあった。途切れて、また落ちた。


温度計を入れた。

四十六度二分だった。


段の土は、まだ赤かった。

四十年生えないと聞いた木は、四十一年目も生えていなかった。


*


六月に、浴槽の湯が四十度を切った。


掬う量も減った。

一時間かけて、ざるが一つにならなかった。


湯の面が、前ほど白くならなかった。

白くならないので、掬うところがない。


それでも、朝、網を持った。

浴槽の縁に腰かけて、片脚を湯に入れて、身体を前に倒した。


網を、湯の面のすぐ下に通した。

手前から奥へ。奥で、一拍待ってから返した。


網の中には、ほとんど何も載っていなかった。


かつん。


音だけが、前と同じだった。


*


秋に、届けを出した。


様式は送られてきていた。見本の紙も一緒に入っていた。

帳場の机で書いた。ボールペンで、一字ずつ、間隔を空けて書いた。書いては止まり、見本を見て、また書いた。


書く欄は決まっていた。

決まっているので、難しくなかった。


書き終えて、封筒に入れた。

入れてから、机の上を片づけた。湯呑みを台所へ持っていった。


郵便は、週に一回になっていた。


*


玄関の額は、外さなかった。


拭いた。

月に一度、ガラスを拭いた。乾いた布で拭いて、それから息をかけて、もう一度拭いた。枠の下辺だけ、埃が溜まりやすい。そこは指でなぞった。


紙は、少しずつ茶色くなっていった。

四隅から変わっていく。十年前の紙も、そうだった。あの紙は、帳場の引き出しの中にある。筒に入って、三本並んでいる。


字は、一つも動いていない。


  源泉名     第一源泉

  泉質      酸性・含硫黄-ナトリウム・アルミニウム-硫酸塩泉

  泉温      源泉四十八・一度 使用位置四十一・五度

  水素イオン濃度 pH二・四七

  分析年月日   令和八年十月二日

  分析者     登録分析機関


成分の表。ナトリウム。カリウム。マグネシウム。アルミニウム。鉄。メタけい酸。メタ亜ひ酸。


太い線。


  浴用の禁忌症


  急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、

  呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、

  妊娠中(とくに初期と末期)


  泉質別禁忌症(浴用)

  酸性泉  硫黄泉に準ずる

  硫黄泉  皮膚、粘膜の過敏な人 特に光線過敏症の人

       (硫化水素型)高齢者の皮膚乾燥症


  飲用の禁忌症

  下痢の時


  含有成分別禁忌症


  ・一日に四百ミリリットルを超えて温泉を飲用する場合

   塩分制限の必要な病態

   (腎不全、心不全、肝硬変、虚血性心疾患、高血圧など)


  禁忌症は、一回の温泉入浴又は飲用でも有害事象を生ずる危険性がある

  病気・病態である。なお、禁忌症にあたる場合でも、専門的知識を有する

  医師の指導のもとに温泉療養を行うことは妨げない。


*


この紙のどこにも、効くとは書いていない。


神経痛とも、関節のこわばりとも、疲労回復とも書いていない。

慢性という字が一度も出てこない。効能という言葉そのものが、一度も使われていない。


書かなければならないことだけが、書いてある。


入ってはいけない人の一覧。

飲んではいけない量。

超えてはいけない数字。


それだけが、十年ごとに測り直されて、書き換えられて、壁にかかっている。


*


砂利道の右側に、石の土台が四つある。


草が膝の高さまで伸びて、その中に錆びた蛇口が一本、立っている。

土台は四つとも、同じ向きを向いている。


いつか、五つになる。


そのとき、この額がどこへ行くのかは、決めていない。


額は、まだ壁にかかっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。