第八章 分析
車の音で目が覚めた。
宿の前まで車が来ることはない。砂利道は途中で細くなって、軽トラでもぎりぎりだと聞いていた。
窓を開けると、玄関の前に白い軽ワゴンが停まっていた。荷室の扉が開いていて、中に樹脂の箱が積んであった。
人が二人いた。
一人は作業着で、長靴を履いていた。もう一人は、紺色の上着に、首から札を下げていた。
*
降りていくと、玄関の土間で老人が茶を出していた。
湯呑みは三つあった。三つ目は、わたしの分ではないらしく、誰も触っていなかった。
「お客さんですか」
札を下げたほうが、わたしを見て言った。四十代くらいの男だった。
「泊まってます」
「そうですか」
男は少し会釈して、それ以上は聞かなかった。
作業着のほうは、床に膝をついて、箱を開けていた。
中に、瓶が並んでいた。茶色いのが四本。透明なのが六本。それぞれ栓の色が違う。ゴムのキャップが被せてあるものもあった。
「上まで、どのくらいですか」
作業着が老人に聞いた。
「四十分です」
「道は」
「途中から細くなります。手すりが途中までしかありません」
「じゃあ、背負っていきます」
作業着はザックに瓶を移しはじめた。緩衝材で一本ずつ包んで、立てて入れた。入れる順番が決まっているらしく、迷わなかった。
*
登る前に、浴場を覗いた。
男がいた。
いつもの隅に、いつもの高さで浸かっていた。戸の外が騒がしいのに、目を開けなかった。
「今日、上に行くそうです」
わたしが言うと、男は目を開けた。
「十年ですか」
「十年だそうです」
「早いな」
そう言って、また閉じた。
「一緒に行きませんか」
「行きません」
男は湯に顎をつけた。
「行っても、汲むところしか見えません」
*
「わたしも行っていいですか」
言ってから、聞く筋合いではないと思った。
札を下げた男が老人を見た。老人はうなずいた。
「危なくないところだけです」
男が言った。
「壁には近づかないでください」
四人で登った。
作業着が先頭で、次が老人、その次がわたし、いちばん後ろが札の男だった。男は途中で二度、立ち止まって手帳に何か書いた。書きながら、斜面のほうを見ていた。
「何を書いてるんですか」
「経路です」
男は手帳をこちらに見せなかった。
「あとで書けなくなるので、その場で書きます」
*
段に着いた。
作業着はザックを下ろして、まず枡の写真を撮った。
枡だけではなく、壁と、管と、看板と、段の全景を撮った。撮るたびに、小さい板を画角に入れた。板には日付と番号が書いてあった。
それから手袋をした。使い捨てのものだった。
「温度、いきます」
作業着は、細い金属の棒を湯に差し入れた。棒から線が出ていて、手元の機械につながっている。
液晶の数字が動いた。動いて、止まった。
「四十八度一分」
札の男が手帳に書いた。
次に、別の機械を出した。ガラスの電極がついていた。それを湯に入れた。
今度は、数字が止まるまで時間がかかった。作業着は電極を軽く揺すった。揺すって、待って、また揺すった。
「二・四七」
「二・四七」
男が復唱して、書いた。
わたしは老人を見た。
老人は段の端に立って、こちらを見ていなかった。壁を見ていた。
*
採水がはじまった。
作業着は管の先にホースを当てず、直接、瓶の口を管の下に持っていった。
瓶を一本ずつ、満たしていく。
満たしたら栓をして、栓の上からラベルを貼る。ラベルには、その場で番号と時刻を書き込んだ。書いているあいだ、瓶は箱の中で立てたままにしていた。
茶色い瓶のうち一本には、栓をする前に、小さい注射器のようなもので液体を一滴落とした。落としてから栓をして、二度振った。
「それは何ですか」
「固定します」
それだけだった。
透明な瓶のうち二本は、口いっぱいまで満たして、空気が入らないように栓をした。栓をしたあと、逆さにして中を見ていた。泡が入っていないかを見ているのだとわかった。
一本目は、泡が入った。作業着はその瓶の中身を捨てて、もう一度、満たし直した。
全部で十本になった。
箱に入れて、蓋をして、上から保冷剤を置いた。
「持って帰って、いつわかるんですか」
「二週間から、三週間です」
作業着は手袋を外した。
「項目が多いので」
*
下りる前に、札の男が老人に紙を渡した。
二つ折りの紙だった。老人はその場で開いて、読んだ。読むのが速かった。読み終えて、折り直して、作業着のポケットではなく、自分の懐に入れた。
「期限は」
老人が聞いた。
「来月の十四日です」
男は答えた。
「今日が九月十五日なので、二十九日あります」
「間に合いますか」
「間に合わせます。うちのほうで急ぎます」
男は手帳を閉じた。
「通知が行ったら、そこから三十日以内に掲示を直してください。あわせて、変更届を出してもらいます」
「様式は」
「持ってきました。あとで置いていきます」
*
宿に戻った。
札の男は、玄関の額の前に立った。
上から下まで読んだ。読みながら、何度か手帳に目を落とした。
それから、写真を撮った。
額の全景を一枚。上半分を一枚。下半分を一枚。分析年月日のところだけ、近づいて一枚。
フラッシュが光って、ガラスに反射した。反射で、その部分だけ白く飛んだ。男はもう一度、角度を変えて撮り直した。
「これ、いつからかかってるんですか」
男が老人に聞いた。
「この紙は、十年前からです」
「額は」
「額は、昭和です」
男は額の枠を見た。
「木ですね」
「木です」
男は枠に触れなかった。
*
昼を過ぎて、二人は帰り支度をした。
そのとき、若い女が階段を降りてきた。
玄関の車を見て、立ち止まった。
「何かあったんですか」
「湯を汲みに来たんです」
「汲む?」
「十年に一回、調べるそうです」
女は車の荷室を覗いた。箱が積んであった。
「これ、飲んでるやつですよね」
「同じです」
「え、調べるって、何を調べるんですか」
札の男が振り返った。
「成分です」
「成分って、体に悪いかどうかですか」
男は少し考えてから答えた。
「入っているものを、全部書き出します」
「全部」
「全部です」
女はうなずいた。うなずいてから、もう一度聞いた。
「結果、貼るんですか」
「貼ります。そこの額に」
男は玄関の横を指した。
女は額のほうを見た。
それから、何も言わずに階段を上がっていった。
作業着が箱を車に積んだ。積むとき、荷室の床に滑り止めのマットを敷いてから置いた。箱は動かなかった。
札の男が、玄関で書類を老人に渡した。
「これが変更届の様式です。書き方の見本も一緒に入れてあります」
「はい」
「掲示は、いま貼ってあるものを剥がして、新しいものを入れてください。額はそのままで結構です」
「紙だけですね」
「紙だけです」
男はそこで、一度だけ言い添えた。
「中身が変わることもあります」
老人は返事をしなかった。
*
夜、帳場に灯りがついていた。
老人が机に向かっていた。
渡された書類を広げて、書いていた。ボールペンで、一字ずつ、間隔を空けて書いていた。書いては止まり、見本の紙を見て、また書いた。
わたしが土間に降りると、老人は顔を上げなかった。
「読めますか、それ」
「読めます」
「難しくないですか」
「書く欄が決まっているので、難しくありません」
老人は見本の紙を指した。
「ここに書いてあるとおりに書けば、通ります」
書き終えて、老人は紙を封筒に入れなかった。
机の端に置いて、その上に湯呑みを載せた。文鎮のかわりらしかった。
「通知が来てから出すんですか」
「通知と一緒に出します」
老人は椅子の背にもたれた。
「中身がわからないと、書けない欄があります」
どの欄ですか、とは聞かなかった。
*
*
車が出ていったあと、わたしは玄関に残った。
男は、わたしにも一言だけ言っていった。
「お客さん、お大事に」
悪意はなかった。誰にでも言う言い方だった。
土間に、湯呑みが三つ残っていた。
二つは空で、一つは手をつけられていなかった。三つ目の茶は、表面に薄い膜が張っていた。
わたしは額の前に立った。
分析年月日 平成二十八年十月十四日
この行だけを、しばらく見ていた。
ほかの行は、十年前から一度も変わっていない。泉質も、泉温も、成分の並びも、禁忌症の三行も。
十年前に誰かが湯を汲んで、瓶に入れて、持って帰った。
その結果が、ここに貼ってある。
そして今日、また汲まれた。
十本の瓶が、白い車で山を降りていった。
数字は、十年で変わるものらしい。




