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湯の花  作者: 真核生物
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第七章 坑道

「見に行きますか」


老人がそう言ったのは、朝の網を上げたあとだった。

ざるを三つ、裏へ運び終えて、ござにならし終えて、手を洗っているときだった。


「どこにですか」

「湯の出るところです」


老人は長靴を出してきた。二十五センチと二十三センチが並んでいた。二十三のほうを渡された。

「登りますか」

「四十分くらいです。途中から道じゃなくなります」


*


干し場の裏から、山に入る道があった。


はじめは幅があった。軽トラが通れるくらいの幅で、轍が残っている。轍には草が生えていた。生えているが、生えきってはいない。誰かが年に何度か通っているのだとわかった。


十五分ほど登ると、幅がなくなった。

道は人ひとり分になり、右が斜面、左が谷になった。谷側に、錆びた手すりが途中まで残っている。残っているのは十メートルほどで、そこから先は支柱だけが等間隔に立っていた。支柱は五本あった。


老人は前を歩いた。歩幅は狭かったが、止まらなかった。わたしは二度止まった。


「大丈夫ですか」

「はい」

「湯あたりのあとは、しばらく登りがこたえます」

老人は振り返らずに言った。

「三日は足だけ、と言ったのは、そのためです」


道の途中に、鉄のかたまりがあった。


草の中に半分埋まっていて、上だけが出ている。長さは一メートルくらい。細い鉄の棒が二本、平行に走っていた。棒と棒のあいだに、木が渡してある。木は腐って、真ん中がなくなっていた。

その先に、同じものがもう一つあった。さらに先にも。等間隔に、斜面を横切っていた。


「これ、線路ですか」

「そうです」

老人は止まらなかった。

「上から下へ、落とすだけの線路です。上りはありません」


「どこまで行ってたんですか」

「川です」

「川で、どうしたんですか」

「積み替えました」


それきりだった。

わたしは三つ目の鉄を跨いだ。跨ぐとき、靴の裏が滑った。


*


*


三十分ほどで、平らなところに出た。


木がなかった。

下から見えていた、あの横一文字の段だった。

段の幅は、テニスコートが二面入るくらいあった。土がむき出しで、色が赤かった。赤いところと、白っぽいところがまだらになっている。草は、端のほうに少しだけ生えていた。真ん中には何もなかった。


「生えないんですか」

「生えません」

老人は段の真ん中を歩いた。靴の下で、土が乾いた音を立てた。

「四十年です」


段の奥に、崖があった。

崖の下のところに、コンクリートの壁があった。


高さは二メートルくらい。幅は三メートルくらい。

表面が平らではなかった。何度か打ち足したらしく、色の違う層が横に三本、見えた。いちばん下の層がいちばん古く、いちばん白かった。


壁の真ん中より少し下に、鉄の管が一本、突き出ていた。

直径は、握りこぶしくらい。


管から、湯が出ていた。


*


出ている、というより、垂れていた。


勢いはなかった。管の下唇のところをつたって、途切れずに落ちている。落ちる先に、コンクリートの枡があった。枡は四角くて、深さは膝くらい。中に湯が溜まっていた。


湯は、白くなかった。

透けていた。枡の底のコンクリートが、そのまま見えた。底に、白いものが厚く積もっていた。積もっているというより、こびりついていた。


「ここは白くないんですね」

「熱いからです」


老人は枡のふちにしゃがんで、温度計を湯に入れた。柄の赤い、いつもの温度計だった。

しばらく待って、引き上げて、目の高さまで持ち上げた。


「四十八度三分」

「掲示は、四十八度二分でした」

「あれは十年前に測ったときの数字です」


老人は温度計を振って、腰の袋に戻した。


枡から、太い塩化ビニルの管が出ていた。

管は地面に沿って走り、途中で枯れ草の下に入り、段の端で見えなくなった。そこから下へ落ちているのだろう。


「これが宿まで行ってるんですか」

「行ってます」

「途中で冷めますよね」

「冷めます。四十八度で出て、四十一度五分で浴槽に入ります」

老人は管を靴の先で軽く押した。管は動かなかった。

「六度八分は、山にあげてます」


*


壁の横に、看板が立っていた。


鉄の板で、支柱が二本。板の四隅が錆びて、丸くなっていた。

文字が書いてあった。白い地に、赤い字だった。赤はほとんど飛んでいて、残っているのは輪郭だけだった。


  立入禁止


その下に、もう一行あった。

そちらは黒い字で、細かった。


  坑口閉塞済


その下は、剥がれていた。

剥がれた跡に、ビスの穴が四つ残っていた。そこに別の板が貼ってあったらしい。板はなかった。


「ここに、何が書いてあったんですか」

「会社の名前です」

「取ったんですか」

「なくなったので」


老人は看板の支柱を握って、少し揺すった。支柱は根元でぐらついた。揺すってから、手を離した。


*


「四十年前に閉じたって、聞きました」


「閉じたのは四十一年前です」

老人は壁を見ていた。

「掘りはじめたのは、その百年前です」

「百年」

「百三年です」


老人は壁の、いちばん下の層を指した。

「塞いだのは、閉じた年です。これが一回目」

指を、真ん中の層に移した。

「二回目が、その八年後。漏れたので」

いちばん上の層に移した。

「三回目が、十九年前。また漏れたので」


「今は漏れてないんですか」

「漏れてます」

老人は管を指した。

「そこから、出してます」


*


段の端に、コンクリートの土台が並んでいた。


砂利道の脇にあったものより、ずっと大きかった。縦横が四メートルはある。それが六つ、間隔を空けて並んでいた。表面にボルトが残っていて、ボルトの頭が全部、同じ方向に傾いていた。


「ここに、建ってたんですか」

「建ってました」

老人は土台の一つに腰を下ろした。降りるとき、両手をついた。


「何人いたんですか」


老人はしばらく答えなかった。

枡のほうを見ていた。湯が垂れる音が、間を置かずに続いていた。


「いちばん多かった年で、四百二十人です」

「四百二十」

「家族を入れると、千百です」

老人は土台の表面を手のひらでなでた。ざらざらした音がした。

「学校がありました。分校です。児童は、いちばん多い年で九十四人」


「先生は」

「三人です」


老人はそこで止まった。

わたしは次を待った。老人は続けなかった。


「閉じたとき、みんなどこへ行ったんですか」


「わたしは残りました」

老人は立ち上がった。二度に分けて立った。

「残ったのは、十一世帯です。今は、一世帯です」


数字だけだった。

名前も、行き先も、そのあとのことも、老人は言わなかった。

言わないのではなく、数えることしかしないのだと思った。


*


わたしは枡を覗き込んだ。


底の白いものは、層になっていた。

薄い層が何枚も重なって、全体で指の厚さくらいになっている。いちばん上の層だけ、まだやわらかそうだった。


「これ」

「湯の花です」

「ここでも出るんですか」

「湯が冷めるところなら、どこでも出ます」


老人は枡のふちの、内側を指した。

湯の面から少し上のところに、白い線が横に一本ついていた。線より上は、コンクリートの色だった。


「湯の面が、そこにあった時期があります」

「今より高かったんですね」

「高かったです」


老人は立ち上がった。

膝に手をついて、二度に分けて立った。


「湯の花が何でできてるか、聞きましたね」

「聞きました。溶けてたものです、と」

「そうです」

老人は枡の底を見た。

「山が溶けてます」


風が来た。段には遮るものがなかったので、まっすぐ来た。

赤い土が、わずかに舞った。


「掲示に書いてある成分が、全部です」

老人は続けた。

「ナトリウムも、アルミニウムも、鉄も。書いてある順に、多い順です」

「メタ亜ひ酸も」

「書いてあります」


老人はこちらを見なかった。

「書いてあるものは、全部、あの白いのに入ってます。湯が冷えると出る。出たものを、掬ってます」


*


帰りは、三十分だった。


下りのほうが、老人の歩幅は狭かった。

斜面側の木の幹に、手をかけながら降りた。同じ木にかけているようだった。幹の同じ高さのところだけ、樹皮がすり減って白くなっていた。


段を出るとき、一度だけ振り返った。


コンクリートの壁が、崖の下に嵌まっていた。

三つの層が横に並んで、いちばん上の層の端から、鉄の管が一本だけ出ている。

管の先から、湯が垂れていた。垂れる音は、ここまでは届かなかった。


壁の向こうに、穴があるはずだった。

穴は、埋められてはいなかった。埋めたなら、湯は出てこない。


山は、閉じたのではなく、塞がれていた。

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