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湯の花  作者: 真核生物
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第六章 飲む

飲泉所は、浴場の外にあった。


裏口を出て、干し場の台の脇を通って、石段を五段降りたところ。屋根だけの小屋で、壁は三方しかない。開いている一方から、山が見えた。


奥の壁から、細い管が出ていた。

管の先から、湯が落ちていた。落ちる先に、石の受けがある。受けは苔でふちどられていて、苔の色が場所によって違った。湯の当たるところだけ、白かった。


受けの横に、板の台があった。

台の上に、竹の柄杓が一本。

その隣に、透明な計量カップが一つ。

その隣に、水道の蛇口が一つ。蛇口の下に、ステンレスの桶。


台の前の柱に、紙が貼ってあった。玄関の額と同じ字だった。


  飲用の方法及び注意

  ・飲用は食後としてください

  ・当館の湯はpH三未満です。真水でpH三以上になるよう薄めてから、

   一回百ミリリットルまで、一日二百から五百ミリリットルまでとしてください

  ・飲用直後に、お茶・コーヒーはお控えください


  飲用の禁忌症

  下痢の時


*


「やってみますか」


老人が後ろから来た。手に、白い布を持っていた。飲泉所の掃除をしに来たらしかった。


老人は柄杓を取って、管の下に差し入れた。

湯が柄杓に溜まる。溜まりきる前に引いた。半分くらいだった。


それを計量カップに移した。

カップの目盛りは、下から五十、百、百五十、二百と刻んである。湯は五十のところで止まった。


「五十です」

老人は蛇口をひねった。水を、五十のところから百のところまで足した。細く出して、目盛りを見ながら止めた。止めるのがうまかった。


「これで、半分です」

「半分ですか」

「半分にして、やっと三を超えます」


老人はカップを台に置いた。

中は、白くなかった。浴槽の湯より透けていた。底に、粒のようなものが少しだけ回っていた。回りながら、落ちていった。


「飲んだのは、いつですか」

「今ですけど」

「ごはんです」

「一時間くらい前です」

「では、いいです」


わたしはカップを持った。

温かくなかった。ぬるい。柄杓に半分と、水が半分では、そうなるのだろう。


飲んだ。


一息では飲めなかった。三回に分けた。

飲み終わって、カップを台に戻した。底に粒が残っていた。指で触ると、ざらざらしていた。朝、ござの上で触ったものと同じ手触りだった。


「お茶は」

老人が言った。

「飲まないでください。三十分は」

「なぜですか」

「書いてあるので」


老人は布で受けのふちを拭いた。

苔は拭かなかった。白いところだけを拭いた。拭いても白かった。


「飲まないんですか」

わたしが聞くと、老人は布を絞った。

「飲みません」

「一度も」

「若いころに飲みました」

老人は受けの中を覗いた。湯が落ちて、同じところに当たり続けている。当たるところだけ、石がくぼんでいた。

「うちの父が、飲めと言うので。朝と晩に」

「やめたんですか」

「父が死んでから、飲んでません」


老人は布を台の端にかけた。

「湯に入るのと、飲むのは、別のことです」

「どう別なんですか」

「入るのは、外につきます。飲むのは、中に入ります」


それだけ言って、石段を上がっていった。

布は、かけたままだった。


*


その日から、一日に二回、飲むようになった。


朝食のあとに百。

夕食のあとに百。

一日で二百。二百から五百までとしてください、と書いてある。二百は、下の端だった。


計量カップは一つしかないので、使ったら洗って、伏せて戻す。

戻す向きが決まっているわけではなかったが、老人はいつも取っ手を山のほうへ向けて伏せていた。わたしもそうした。


四日目の朝、カップが逆を向いていた。

取っ手が、宿のほうを向いていた。

誰かが使ったということだった。


*


量だけを書いておく。


 十三日目 朝百 夕百    二百

 十四日目 朝百 夕百    二百

 十五日目 朝百 昼百 夕百 三百

 十六日目 朝百 昼百 夕百 三百

 十七日目 朝百 昼百 夕百 三百

 十八日目 朝百 昼百 夕百 夜百 四百


二百から五百までとしてください、と書いてある。

四百は、範囲の中だった。


カップの取っ手は、毎朝、山のほうを向いていた。

わたしが伏せたのではない日も、山を向いていた。


*


若い女が飲んでいるのを、一度見た。


石段を降りていくと、小屋の中に女が立っていた。カップを両手で持って、柱の紙を読んでいた。読み終わってから飲んだ。

飲んだあと、口を手の甲で押さえた。押さえたまま、二秒くらい止まった。


「大丈夫ですか」

「あ、はい」

女は笑った。

「思ってたのと違いました」

それ以上は言わなかった。わたしも聞かなかった。


女はカップを洗って、伏せた。取っ手を山のほうへ向けた。誰かに教わったのだろう。


「これ、毎日飲むんですか」

「二百から五百までって書いてあります」

「五百って、どれくらいですか」

「このカップで、五杯です」

女は伏せたカップを見た。

「五杯」

「薄める前だと、二百五十です」


女は少し考えて、それから言った。

「わたし、一杯でいいです」

そう言って、石段を上がっていった。


*


男が飲むのを見たのは、その夜だった。


わたしは干し場にいた。ござを見ていた。

石段の下で、音がした。柄杓が石に当たる音だった。


降りていくと、男がいた。

男は柄杓を管の下に差し入れて、いっぱいまで溜めた。溜まりきってから引いた。

それを、カップに移さなかった。


柄杓のまま、口をつけた。

飲んだ。一息だった。


蛇口はひねらなかった。桶も使わなかった。


飲み終えて、柄杓を受けの水で軽くすすいで、台に戻した。

それから、わたしが立っているのに気づいた。


「見てましたか」

「見てました」

「薄めてない、と思ったでしょう」

「思いました」


男は台に寄りかかった。

「柄杓で、いっぱいにすると何ミリリットルか、知ってますか」

「知りません」

「百です。ちょうど」


男は柄杓を指した。

「これ、そういう柄杓です。あの人が選んだんでしょう」

「でも、薄めろって書いてあります」

「書いてあります」

男は認めた。認めたまま、それ以上は言わなかった。


「なんで薄めないんですか」

「薄めると、量が増えるので」

「増えると、だめなんですか」

「腹に入るのが二百になります。百のつもりで二百飲むことになる」


男は柱の紙を見た。

「百ミリリットルまで、と書いてあるのは、湯の量なのか、飲む量なのか」

わたしは紙を読み返した。

薄めてから、一回百ミリリットルまで、と書いてある。


「薄めてから百、です」

わたしが言うと、男はうなずいた。

「そう読むのが正しいです」

「じゃあ」

「正しいほうを読んでます。読んだうえで、こうしてます」


男は石段のほうへ歩いた。

一段目に足をかけて、そこで止まった。


「十一年前は、薄めてました」

「いつからやめたんですか」

「覚えてません」

男は上がっていった。二段ごとに、手すりに手をついた。


*


わたしは台の前に残った。


柄杓を取って、管の下に差し入れた。

溜まるのを、最後まで見た。ふちのところで表面が盛り上がって、それから平らになった。


引いて、計量カップに全部移した。

目盛りは、百のところで止まった。ちょうどだった。


そこに水を足した。

五十、足すつもりだった。目盛りを見ながら足して、百五十のところで止めた。


カップを持ち上げた。

両手だと、思っていたより軽かった。片手でも持てた。


飲まずに、台に置いた。

中の粒が回って、落ちた。落ちきってから、また少し舞った。


夜の山は、開いている一方から見えていた。

斜面の段は、暗くて見えなかった。


わたしはカップの中身を、受けに戻した。

戻すとき、湯が石に当たって、白い跡を一本つけた。跡は、すぐには消えなかった。


百ミリリットルは、思っていたより少ない。

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