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湯の花  作者: 真核生物
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第五章 十一年

三日は、足だけにした。


脱衣所で浴衣の裾をたくし上げて、浴槽の縁に座る。膝から下だけを湯に入れる。それ以上は入れない。入れないと決めると、身体の上半分が急に寒かった。


一日目は、五分でやめた。

二日目は、十五分いた。

三日目は、時計を見なかった。窓のガラスが暗くなるまでいて、上がるとき、膝の裏に湯の線があった。


膝から下だけが赤い。上は白い。

脱衣所の鏡は曇っていて、映るのは腰から上だけだった。下は見えなかった。見えないところが、いちばん熱かった。


*


足だけの三日のあいだに、帳場の壁の紙を見た。


日付が縦に並んでいて、名前が横に書き込んである。名前は二つ。

わたしの線は、延ばした日から右へ伸びて、紙の端で少し跳ねている。


もう一つの線は、紙の上端で切れていた。

紙をめくってみた。下に、同じ紙がもう一枚あった。そこでも線は上端で切れている。

三枚めくった。四枚めくった。どの紙でも、線は上から入ってきて、途中で終わるか、また端まで行くかしていた。


紙は全部で九枚あった。

九枚目の紙は、色が変わっていた。上のほうの日付が、もう読めなかった。


老人が裏から出てきたので、手を離した。

「見てもいいですよ」

「何枚あるんですか」

「二十二枚です」

壁にあるのは九枚だった。

「残りは帳場の引き出しです。入れ替えます、たまに」


「入れ替えるのは、いつですか」

「線が全部終わったときです」

老人は帳場の椅子に座った。

「今の紙は、まだ終わってません」


*


四日目の昼、炊事場に男がいた。


鍋を火にかけていた。中を覗くと、湯だけに見えた。よく見ると、切った大根が二切れ沈んでいる。それだけだった。

男は火を弱くして、椅子に座った。椅子は炊事場に一つしかない。わたしは流しに寄りかかった。


「足だけですか」

「はい。三日だけと言われて」

「守りますね」

男は鍋を見たまま言った。

「守らない人のほうが多い」


「守らないと、どうなるんですか」

「もう一回来ます」

男は少し笑った。息が短く鳴った。

「二回目のほうが長いです。私は二回目のとき、四日寝ました」


「二回目があるんですか」

「あります。書いてないだけで」


*


大根が透きとおるまで、しばらくかかった。

男はその間、二度立ち上がった。一度目は火を見に。二度目は、椅子に座り直すために立った。座り直すだけのために立つのを、初めて見た。


「十一年って聞きました」

「そうです」

「毎年ですか」

「年に二回です。春に二週間、秋に三週間」

「三週間」

「おおむね二ないし三週間を適当とすること、と書いてあります」

男は正確に言った。読み上げたのではなく、覚えている言い方だった。


「それ、全部覚えてるんですか」

「あそこに書いてあることは、全部」

男は玄関のほうを指した。指の先が、少し曲がっていた。

「ほかに読むものがないので」


*


大根が煮えた。

男は皿に一切れ取って、もう一切れは鍋に残した。


「食べますか」

「いえ」

「味はないですよ」

男は箸で割った。大根は簡単に割れた。

「醤油も味噌も入れてません。入れると翌日むくむので」


わたしは何も言わなかった。

言わなかったのが伝わったらしく、男は皿を置いた。


「聞かないんですね」

「何をですか」

「どこが悪いか」

男は鍋の火を止めた。

「みんな、三日目くらいに聞きます。あなたは十二日目です」


十二日目だった。数えていないつもりで、数えられていた。


「聞いてもいいですか」

「いいですよ」

男はそう言って、それから言わなかった。

わたしも、そのあとを待たなかった。


*


夕方、男が帳場にいた。


湯の花の袋を、木箱に詰めていた。数えている。

「二十四」

老人が横から数を読んだ。

「二十四です」

男が繰り返した。


二十四袋。四百円で、九千六百円。

箱は一つでは足りなくて、二つ目に八袋入った。


「持って帰るんですか」

「家の風呂に入れます」

男は箱に新聞紙を詰めた。

「一回に一袋。十日はもちません。だから足りない」

「足りないのに、二十四で」

「持てるのが二十四なので」


男は箱の蓋を閉めて、ガムテープを引いた。テープを切るとき、両手を使った。片手で切ろうとして、できなくて、両手にした。


「送らないんですか」

「送ると、着くころには湿ってます」

老人が答えた。

「乾いたまま持って帰るなら、抱えて帰るしかない」


男は箱を二つ重ねて、廊下の端に置いた。

「まだ三週間あります」

そう言って、置いた箱を一度見た。


*


翌朝、網の音で目が覚めた。


降りていくと、浴場の戸が半分開いていた。

老人が掬っていた。湯の中に男がいた。いつもの隅に、いつもの高さで浸かっていた。


わたしは戸口に立った。

今日は男が先に目を開けた。

「足だけの日は、今日で終わりでしょう」

「はい」

「何回にします」

聞かれると思っていなかった。


「一回から、と書いてありました」

「最初の数日は、でしょう」

男は湯に顎をつけた。

「あなたはもう最初の数日じゃない」


老人の網が、手前から奥へ滑った。奥で返る。かつん。

その音のあいだ、誰も何も言わなかった。


「二回にします」

わたしが言うと、男はうなずいた。

うなずいてから、こう言った。

「私は三回です。十一年、ずっと三回」

「三回までって書いてあります」

「までです」

男は目を閉じた。

「までのところに、ずっといます」


*


午後、廊下で若い女に会った。


女は洗濯物を抱えていた。干す場所を探しているらしかった。

「裏に台があります。湯の花を干すところですけど、端が空いてます」

「あ、ありがとうございます」


二人で裏へ出た。

ござが並んでいて、白いものが薄く広げてある。女はそれを見て、少し離れて立った。


「これ、何ですか」

「湯の花です」

「あ、売ってるやつ」

女は洗濯物を台の端にかけた。かけながら、ござのほうを見ていた。


「あの人、買ってましたよね。二十四袋」

「見たんですか」

「昨日、帳場で。すごい量」

女はTシャツの皺を伸ばした。

「わたし、あの人とお風呂で一回だけ一緒になって」

「そうですか」

「話しかけないほうがいいのかなって思って、黙ってたんですけど」


女は洗濯バサミを一つ落とした。拾って、続けた。

「向こうから、何日いるのって聞かれて。二週間ですって言ったら」

「なんて」

「短いですね、って」


女は笑った。

「わたし、二週間って長いと思ってたんですよ。有休、全部使ったので」


風が来て、ござの白いものが少しだけ動いた。

動いたのは表面だけで、下は動かなかった。


*


その夜、玄関で男と会った。


わたしは額の前にいた。

男は風呂から上がってきたところで、手ぬぐいを首にかけていた。


「よく読みますね」

「まだ、全部は覚えてません」

「覚えなくていいですよ」

男は隣に立った。ガラスに二人分の顔が薄く映って、字の上に重なった。


「どこを読んでるんですか」

わたしは黙っていた。


男は、額のある一点を指した。

浴用の禁忌症の段だった。

指は、上から三つ目の語のあたりで止まった。止まって、それからガラスに触れずに下りた。


「そこ、当たってます」

男が言った。


わたしは男の顔を見た。

男は額を見たままだった。


「知ってるんですか」

「知ってます」

「知っていて、来てるんですか」


男は手ぬぐいで首を拭いた。

拭き終わってから、こちらを向いた。


「その下、読みました?」

「その下」

「いちばん下の段です」


わたしは読んだ。何度も読んだ段だった。


  なお、禁忌症にあたる場合でも、専門的知識を有する医師の指導のもとに

  温泉療養を行うことは妨げない。


「妨げない、って書いてあります」

男は言った。

「禁じる、とは書いてない。妨げない、と書いてある」

「先生に言ってあるんですか」

「言いました。十一年前に一度だけ」

「何て言われました」

「行ってもいいけど、長湯はするなと」


男は手ぬぐいを畳んだ。畳み方が、脱衣かごの浴衣と同じだった。袖を内側に折るのと、同じ手つきだった。


「長湯、してますよね」

「してます」


男は玄関の戸の桟に手をかけて、体重を少し預けた。

「あなたも、そこを読んでるんでしょう」

額のほうは見なかった。


わたしは答えなかった。


「自分が入ってるかどうか、知らないんでしょう」

男はこちらを見なかった。

「知ってたら、あんな読み方はしません。上から下へ読んで、下から上へ読む。あれは、探してる人の読み方です」


廊下の奥で、水が落ちる音がした。

老人が湯を落としているのだと思った。夜も止めないと聞いた。


「聞いてないだけです」

わたしは言った。

「聞けば、わかるんですけど」


「聞かないほうが長くいられますよ」

男は戸から手を離した。

「私は聞きました。だから、これが十一年目です」


歩き出して、三歩で止まった。

振り返らずに言った。


「知ってるよ。読んだもの、あの額」

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