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湯の花  作者: 真核生物
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第四章 三日ないし一週間

七日目が、帰る日だった。


朝、荷物をまとめた。

下着と靴下を袋に分けて、浴衣をたたんで、押入れに戻した。窓を閉めた。畳の上に髪が二本落ちていたので、拾って紙に包んだ。部屋は、来た日と同じになった。


十四時に部屋を出た。

リュックを背負って、階段を降りた。帳場に老人はいなかった。裏で水を使う音がしていた。声はかけなかった。


砂利道を下った。

十五分と書いてあったが、下りだから十二分だった。石の土台のところで一度立ち止まって、そこから先はもっと速かった。


橋のたもとに着いたのは、十四時四十分だった。

バス停の柱に、時刻表がある。裏に、歩いて十五分、と手書きしてある。表を見た。十五時十分。最終。


ベンチはなかった。ガードレールに寄りかかって、川を見た。

水は白くなかった。上流で湯が入っているはずなのに、川の水は透けていた。石の色がそのまま見えた。


十五時五分に、山の下のほうから音がした。

エンジンの音が、谷に反響して、実際より近く聞こえた。それから遠ざかって、また近づいた。


十五時九分に、バスが橋を渡ってきた。

車体が古い。前の窓の下に、行き先の板が差してある。


バスは停まった。

戸が開いた。運転手がこちらを見た。来たときと同じ運転手だった。


わたしはリュックを背負い直した。

背負い直して、そのまま立っていた。


運転手は何も言わなかった。二十秒くらい待って、それから戸を閉めた。

バスは行った。カーブで一度、車体の横が見えて、それから見えなくなった。エンジンの音は、しばらく谷に残っていた。残っている音のほうが、長かった。


砂利道を、また登った。

登りだから、十八分かかった。


*


宿に戻ると、玄関の土間に老人がいた。

温度計を持っていた。わたしのリュックを見た。


「延ばせますか」

「延ばせます」

老人は宿帳を出さなかった。かわりに、帳場の壁の紙を見た。紙には日付が縦に並んでいて、名前が書き込んである。名前は二つしかなかった。片方は、一行が長く伸びていた。始まりの日付が、紙の上端で切れている。


「何日まで」

決めていなかった。

「決まってからでいいです」

老人は紙に、わたしの名前の横から線を引いた。線は、その日から右へ伸びて、紙の端で止まった。端のところで、少しだけ上に跳ねた。


*


その日から、回数を書かなくなった。


朝に入る。昼に入る。夕方に入る。

一日当たり二回ないし三回までとすること、と書いてある。三回は、範囲の中だった。


湯の温度が、少し下がった気がした。

浴槽の縁に温度計が置いてあったので、見た。四十一度五分だった。掲示と同じだった。

自分の指を湯につけて、それから温度計の球のところを触った。同じくらいの温度に感じた。


八日目、昼に入ったとき、浴槽の中で立ち上がるのに手間取った。

縁に手をかけて、一度で上がれなかった。二度目で上がった。

上がってから、脱衣所の板に座って、五分いた。心臓が耳のところにあるのは、いつものことだった。その日は、耳のところにあるものが、少し遅れて鳴っていた。


夜、廊下で男とすれ違った。

今度は、男がこちらを見た。

「いつからです」

「七日です。今日で八日」

男は少しうなずいた。

「そろそろですね」


わたしは立ち止まった。男も立ち止まった。

「何がですか」

「脱衣所に貼ってあります」

男は浴場のほうを顎で示した。

「玄関のは読んだでしょう。あれは入る前に読むやつです。もう一枚あります」

「もう一枚」

「服を脱がないと読めないところに貼ってある」

男は少し笑った。笑うと、息が短く鳴った。


「読んだほうがいいですか」

「読んでも、来るときは来ます」

男は歩き出した。

「私は十一年、毎年来てます。来ない年はなかった」

それだけ言って、行った。歩幅は、前と同じだった。


*


九日目。


朝の湯は澄んでいる。掬ったあとだから澄んでいる。

入る。足。膝。腰。胸。

熱い。熱いのはいつものことで、いつものことは熱くない。


窓の曇りガラスが白い。外が明るいから白い。

天井から水が落ちる。一滴。間。一滴。間。同じ間。


数えていない。

数えるのをやめたのは五日目で、五日目から数えていないので、いま何分か知らない。

知らないことにしている。


指を見る。ふやけている。ふやけるのは十五分からで、だからもう十五分たっている。

腕を上げると、腕が重い。下ろすと、軽い。

湯の中では軽い。出すと重い。当たり前のことが、いちいち届いてくる。


立つ。


立ったところで、天井が下りてくる。

下りてこない。下りてくるように見えるだけ。見えるだけのことが、見えている。


縁に手をかける。木が冷たい。木は冷たくない。湯より冷たいだけ。

座る。浴槽の縁に座る。片脚は湯の中。片脚は外。

外の脚が冷えていく。中の脚が熱い。同じ身体で、別のことが起きている。


湯気が動く。

右から左へ流れて、戸のところで消える。戸は閉まっている。閉まっているのに流れる。

流れる先を見る。


*


床。

板が見える。木の目が見える。目が細い。細い目が並んでいる。並んでいるものを数えようとして、やめる。


頬が板についている。

冷たい。冷たいのは板で、頬ではない。

どっちが冷たいのか、決められない。


音がする。

遠い。遠いのに近い。かつん、と鳴る。かつん。

朝は終わったはずで、朝は終わったのに鳴る。


まぶたの裏。

まぶたは開いている。開いているのに裏が見える。


*


見えたものは、書かない。


*


「聞こえますか」


声がした。

老人の声だった。目を開けると、天井があった。天井は上にあった。


わたしは脱衣所の板に寝ていた。上に浴衣がかけてある。自分のではなかった。男物だった。


「動かないでください」

老人が、湯呑みを持っていた。水だった。

飲んだ。冷たかった。冷たいものが喉を通って、胃に落ちるところまでわかった。


「何時ですか」

「十一時です」

朝、入ったのは六時半だった。


老人は、わたしの横に座って、湯呑みを受け取った。

「湯あたりです」

「湯あたり」

「珍しくありません」

老人は立ち上がって、脱衣所の壁を指した。壁に、小さい紙が貼ってあった。玄関の額と同じ字だった。今まで、一度も見ていなかった。


  温泉療養開始後、おおむね三日ないし一週間前後に湯あたり

  (湯さわり又は浴湯反応)が現れることがあります。

  「湯あたり」の間は、入浴回数を減じ、又は入浴を中止し、

  湯あたり症状の回復を待ってください。


「九日目です」

わたしが言うと、老人はうなずいた。

「おおむね、と書いてあります」


*


部屋に戻された。


布団が敷いてあった。敷いたのは老人ではないと思った。枕の位置が、窓のほうを向いていた。わたしは昨夜、廊下のほうに頭を向けて寝ていた。


昼をすぎて、戸を叩く音がした。

若い女だった。

「大丈夫ですか。おじいさんが倒れたって」

「わたしのほうです」

「あ」

女は戸口で立ったまま、少し笑った。笑ってから、笑うところではないという顔をした。


「水、持ってきました」

ペットボトルを置いていった。まだ冷たかった。売店の棚にはないものだった。自分の荷物から出したのだろう。


夕方、戸の外に湯呑みが置かれていた。

中は空だった。底に、白いものが薄く残っていた。誰が置いたのか、聞かなかった。


夜になって、老人が上がってきた。

戸の外で膝をついて、開けずに話した。

「明日から、三日は入らないでください」

「三日」

「入るなら、足だけにしてください。膝から下です」

「書いてあるんですか」

「入浴回数を減じ、又は入浴を中止し、と書いてあります」

老人は少し間を置いた。

「減じる、のほうを選ぶ人が多いです」


足音が降りていった。

途中で一度止まって、また降りた。


*


夜、廊下を歩いて、玄関まで降りた。


額の前に立った。

ガラスが冷たいのは、前と同じだった。


わたしは、入浴の方法及び注意の段を読んだ。

そこに湯あたりのことは書かれていなかった。あの紙は、脱衣所にだけ貼ってある。

書いてある場所が、玄関ではなく、脱衣所だった。服を脱いだ人だけが読む場所に貼ってある。


もう一度、上から読んだ。

源泉名。泉質。泉温。水素イオン濃度。成分。メタ亜ひ酸。禁忌症。

どの行も、九日前と同じだった。字は一つも動いていない。


わたしのほうが動いた。


帳場の壁の紙には、わたしの名前から右へ、線が伸びている。

線の端は、紙の端で跳ねたままだった。


書いてあるとおりの日に、書いてあるとおりのことが起きた。

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