第三章 湯の花
網の音で目が覚めた。
金属が木に当たる音だった。かつん、と一度鳴って、間があって、また鳴る。間の長さがいつも同じだった。窓を開けると、音は下から来ていた。まだ暗い。空の端だけが、薄い。
浴衣の上に上着を羽織って、階段を降りた。
土間は冷えていた。廊下の板も冷えていた。素足で歩くと、足の裏が板にくっつく感じがした。
浴場の戸が半分開いていた。
中から湯気が出て、廊下の空気とぶつかって、そこで白くなっていた。
*
老人が湯に入っていた。
入っているのではなかった。浴槽の縁に腰かけて、片脚だけを湯に入れ、身体を前に倒していた。両手で長い柄を持っている。柄の先に、浅い網がついていた。
網を湯の面に沿って滑らせる。手前から奥へ。ゆっくり、一定の速さで。
奥まで行くと、そこで手首を返す。網が湯から上がる。
上がった網の中に、白いものが載っている。
老人は網を横に傾けた。湯が落ちた。落ちきるまで待った。
それから網を、脇に置いたざるの上で叩いた。
かつん。
わたしが目を覚ました音だった。
白いものがざるに落ちる。
老人はまた網を湯に戻す。手前から奥へ。
わたしは戸口に立ったまま、しばらく見ていた。
湯の中に、人がいた。
浴槽の反対側の隅に、肩まで浸かっている。顎を縁に載せて、目を閉じていた。昨夜すれ違った男だった。
老人の網は、男のほうへも滑っていった。男の肩の手前で止まって、そこで返る。男は動かなかった。網が来ても、水が寄っても、まぶたも動かさなかった。
老人は男を避けているのでも、いないものとして扱っているのでもなかった。浴槽の一部として、そこに手を入れないだけだった。
何往復かして、老人は男のいる側へ回った。今度は男の後ろから網を入れた。男は少し顎を上げて、場所を空けた。目は閉じたままだった。
「おはようございます」
老人はこちらを見なかった。
「毎朝、やるんですか」
「毎朝です」
網が滑る。
「一日やらないと、翌日が倍になります。二日やらないと、四倍になります」
かつん。
男が目を開けた。
こちらを見て、それから湯を見た。
「掬っても、朝には白い」
声が低かった。喉の奥で鳴る声だった。
「十一年、そうです」
そう言って、また目を閉じた。
網は同じ速さで動いた。速くもならず、遅くもならなかった。老人の呼吸のほうが、網に合わせているように見えた。
湯の面は、掬うほどに澄んでいった。
掬われた場所が、また白くなるまでに、たぶん一分もかからなかった。老人はそこをもう一度掬った。
「終わらないんじゃないですか」
「終わりません」
老人は初めて手を止めて、網を湯から上げた。
「終わらせるためにやってるんじゃないので」
*
ざるが三つ、いっぱいになった。
老人は柄を壁に立てかけて、浴槽の縁から下りた。片脚だけが赤かった。
ざるを重ねて持ち上げようとしたので、一つ持ちますと言った。
老人は少し考えて、いちばん上のざるをこちらに渡した。
重かった。
水を含んでいるからだと思ったが、それだけではない重さだった。ざるを胸の前で持つと、白いものが端に寄った。寄っても、崩れなかった。指で押してみたら、少し沈んで、指の跡が残った。跡はそのままだった。
「押さないでください」
老人が前を歩きながら言った。見ていないはずだった。
裏口から外に出た。
まだ暗かったが、東の山の稜線が出ていた。空気が冷たくて、湯上がりでもないのに、肩から湯気が上がった。
裏には、木の台が並んでいた。
高さは腰くらい。台の上に簀の子が敷いてある。簀の子の上に、ござが広げてある。ござは何枚もあって、何枚かにはもう、白いものが薄く広げられていた。
乾き具合が違った。手前のござのものは、まだ湿って灰色がかっている。いちばん奥のものは、白かった。粉に近かった。
老人はざるを傾けて、空いているござの上に白いものを移した。移してから、手でならした。手のひら全体を使って、押さずに、撫でるように。
撫でたあとが、筋になって残った。
「同じ厚さにするんですか」
「厚いところが残ります。残ったところが、あとで色が変わります」
老人はならし続けた。
「色が変わったものは、売りません」
わたしのざるも、同じようにした。
手のひらで白いものに触れた。ざらざらしていた。砂より細かくて、粉より粗い。冷たくはなかった。ざるの中にいたときより、乾いたものは温度がなかった。
*
朝が明けきる頃、いちばん奥のござの前に立った。
そこの白いものは、指で触れると散った。息を吹きかけると、飛んだ。飛んだものが、ござの目の中に落ちた。
老人が木の箆を持ってきて、端から寄せはじめた。
寄せて、すくって、紙の袋に入れる。袋は昨日、炊事場で見たものと同じだった。口を二回折って留める。
一袋につき、箆で四すくいだった。数えてみたら、どの袋も四すくいだった。
「四百円でしたね」
「四百円です」
「一袋が、四すくい」
老人は手を止めなかった。
「四すくいです」
袋が十一できた。
老人は袋を木箱に入れて、箱を抱えて、裏口から入っていった。
わたしは残った。
ござの上に、まだ白いものが薄く残っていた。箆で寄せきれなかった分だった。それを指の腹で集めてみたが、集まらなかった。指について、ござについて、風でどこかへ行った。
顔を上げると、山の斜面が明るくなっていた。
横一文字の段が、はっきり見えた。段の上に、木が一本もない。四十年たっても生えないのだと、あとで聞いた。
*
昼、帳場の棚に袋が並んでいた。
昨日は十二あった。今日は二十三ある。並べ方は、やはり丁寧だった。
「これ、何でできてるんですか」
言ってから、聞くつもりがなかったことに気づいた。
老人は帳場の椅子に座ったまま、棚のほうを見た。
「湯に溶けてたものです」
「溶けてたものが、出てくるんですか」
「湯が冷めると出ます。熱いままなら、出ません」
それだけだった。
わたしは棚の袋を一つ手に取った。
軽かった。朝、ざるで持ったときとは別のものに感じた。水がなくなると、これだけになるらしい。
袋を戻すとき、棚の板に白い粉が少し落ちていた。板の木目に入り込んでいた。指でこすっても取れなかった。
*
夕方、玄関に人が来た。
若い女だった。二十代の半ばくらいに見えた。大きなリュックを背負っていて、背負ったまま戸を引いた。戸が重くて、途中で止まった。
老人が出ていって、内側から引いた。
「予約した者です」
「はい」
「二週間でお願いします」
「二週間ですね」
老人は宿帳を出した。女はリュックを下ろして、立ったまま書いた。書きながら、何か話していた。声が明るかった。
「帰りは再来週の火曜です。バス、十五時十分のに乗れば間に合いますよね」
「間に合います」
「よかった」
女は宿帳を返して、それから玄関の横を見た。
額があった。
老人が言う前に、女は近づいて、読みはじめた。
読むのが速かった。上から下まで、二十秒くらいだったと思う。
読み終えると、女はうなずいて、リュックを持ち上げた。
「はい。大丈夫です」
そう言った。
わたしは階段の途中に立っていた。
女が何を確かめて大丈夫だと言ったのか、わからなかった。
*
夜、炊事場に灯りがついていた。
若い女が、流しの前に立っていた。レトルトの袋を鍋に沈めて、火にかけている。鍋の中で袋が浮いて、女が菜箸で押さえていた。
「ここ、電子レンジあるって書いてあったんですけど」
女が振り向かずに言った。
「ありますよ。その棚の上です」
「あ、ほんとだ」
女は火を止めなかった。
「まあいいや。もう火つけちゃったし」
女はわたしの手元を見た。米と、卵と、味噌の袋があった。
「自炊、ちゃんとやるんですね」
「二週間いるって聞きました」
「はい。有休まとめて取ったんです」
女は笑った。
「二週間って、長いですか。短いですか」
わたしは答えられなかった。
女は袋を鍋から上げて、皿にあけた。
「向かいの人、ずっといるらしいですね。おじいさんが言ってました」
「十一年だそうです」
「十一年」
女は皿を持ったまま、少しのあいだ動かなかった。
「わたし、無理だな」
そう言って、笑ったまま出ていった。
足音が階段を上がっていった。速かった。
*
夜、裏へ出てみた。
ござはそのままだった。露が降りていて、いちばん手前のござの白いものは、また湿っていた。朝ならしたときの筋が、まだ残っていた。
奥のござは空だった。今日の分は袋になって、棚に並んでいる。
空のござの上に、白いものが薄く、剥がれずに残っていた。爪を立てると、少しだけ剥がれた。剥がれた下から、また白いものが出てきた。
何でできているのかを、わたしはまだ聞いていない。
溶けていたものです、としか聞いていない。




