92 魔女の悲しき過去①
一連の事態を、チェリシアは遠くから見ていることしかできなかった。
逃げ惑う人々の叫び声も、皇帝のうめき声も、今は何の音も彼女の耳には入ってこなかった。
「何が……どうして……」
ただ目の前で起きている出来事が信じられなくて、呆然としていた。皇帝のマントと同じ色の血が、床に広がった。
アンリーシェの正体が魔女であることは知っていたが、就任式でこのような行動を取ることは予想していなかった。
「リシア!一体どういうこと!?何が起きているの!?」
「リア……」
アルセリアが不安げに彼女の腕にしがみついた。アルセリアは他の人々のように逃げることもせず、状況を把握するためにその場に留まり続けていたようだ。
しかし、その質問に関しては、チェリシアも上手く答えることができなかった。
彼女は少し離れたところにいる、アンリーシェを見つめた。正確には、魔女の魂が入ったアンリーシェ。
「アンリーシェ……いや、お前は一体誰なんだ……!?」
そこでステインも、流石に目の前にいる彼女が本物のアンリーシェではないことに気が付いたのだろう。本物の彼女が皇帝を暗殺などするはずがない。
アンリーシェはやっと気付いたのね、と面白そうに口角を上げた。
彼女は丁寧に結い上げていた髪の毛を解き、床に装飾品を落とした。
肩にかけられていた長いマントを力ずくで剥ぎ取り、それもどこかへ放り投げた。
ステインの前に立ちはだかった彼女の右手からは、黒いモヤのようなものが発生していた。
彼女は酷薄な笑みで彼を見下ろし、口を開いた。
「――私は魔女のデボラよ。あなたが深く愛する聖女アンリーシェではないの」
「魔女……?」
魔女とは、国に災いをもたらす邪悪な存在。
まさに安寧をもたらす聖女とは対照にいるものとして知られていた。
ステインは衝撃で床に膝をつき、ショックを受けたようにアンリーシェ――魔女デボラを見上げた。
「魔女が何故……俺のアンリーシェの体に!」
「あらぁ、そんなにショックだったかしら?」
デボラは慟哭するステインを嘲笑った。長い間騙されていた彼は気の毒だが、デボラは同情する素振りすら見せなかった。騙されたあなたが悪いのよ、とでも言わんばかりの表情だ。
彼女は闇魔法を使い、ステインを一瞬で拘束した。
体の自由を奪われたステインが、苦しそうにうめき声を上げた。
そんな彼の頬を、デボラは嬉しそうに長い指でなぞった。
「あぁ、いいわねぇ……その赤い瞳……あの女とは似ても似つかないくらい汚れた色だけれど、憎たらしくて殺してやりたいわ……」
「……何だと?」
ステインは眉をひそめ、デボラが彼の銀色の髪の毛を強く掴んだ。
血を流している近衛騎士が剣を抜くが、彼女はその剣を闇で包み込み、あっさりと使えないようにした。魔力の多さだけではなく、反射神経も一級品だった。
「な、何をする……」
「あなたが気になっているようだから、特別に教えてあげるわ。どうして私がここに来たのかをね」
デボラは彼の髪の毛から手を離し、クルッと背を向けた。拘束されていたステインは体を投げ出され、床に倒れ込んだ。
背中を向けたせいで、彼女の顔が見えなかった。
どんな顔をしているのかは見当もつかないが、異様なまでに低い声が彼女の今の心情を物語っていた。
「あれは今から千年近く前のことよ……忘れもしない……悪夢のような日々だったわ……」
その一言を皮切りに、彼女は自身の過去について語り始めた――
――千年前、ベレニウム帝国がまだ小国だった頃のこと。
魔女であるデボラは、人々に危害を加えることなく、首都から離れた森の中で大人しく暮らしていた。外へ出ることもほとんど無く、退屈な毎日だった。
デボラは小さな窓から肘をついて外を眺めた。
(王都へ出たところで、魔女として迫害されてしまうだけだし……)
彼女の置かれた立場を考えれば、気軽に人々の前に姿を現すことができなかった。魔女はいつの時代も害とみなされ、徹底的に排除される存在だったからだ。
しかしそんな彼女には、一人だけ心を許している男がいた。
彼は一人ぼっちだったデボラの元へ毎日のように会いに訪れ、彼女が魔女だと知っていながら一切の差別をしなかった。
いつからかデボラは、そんな彼に淡い恋心を抱くようになった。
しかし、相手が人間である以上結ばれることは簡単ではない。魔女と人間が結ばれるなど、前代未聞だった。
そのため、デボラは想いを伝えることなく諦めていた。
しかし、彼の方はそうではなかった。
『――デボラ、私は君に一目惚れしてしまったようだ。どうか、私と一緒になってはくれないか?』
『あ、あなた本気で言っているの……?』
ある日、彼は真っ赤な薔薇の花束を持ってデボラに愛の告白をしたのだ。
彼女は目に涙を浮かべて首を縦に振った。デボラの人生で、最も幸せな瞬間だった。
このとき、彼女にプロポーズした相手――それは、後にベレニウム帝国初代皇帝となるアルベルトだった。
デボラはアルベルトと婚約し、彼の婚約者となった。
『デボラ、私たちが結ばれるには私がこの国の王とならなければならない。そうすれば、魔女との結婚を認める法律を作ることができる』
『アルベルト……』
愛する彼にそう言われたデボラは、闇の魔法を使って国王を殺害し、アルベルトをその座に就けた。アルベルトは元々高貴な家の生まれだったため、反対する者は誰もいなかった。
そのような経緯で彼は国王となったが、それでも一向にデボラを王妃にはしなかった。
『デボラ、国を大きくしたいと思っているんだ。次のカラミタ王国との戦争で最前線に行ってはくれないか?』
『最前線に……?私が……?』
デボラは戸惑ったが、それを受け入れ、戦争で指揮官として敵将の首を獲ってみせた。魔女である彼女にとって、多少剣術に長けた人間との戦いくらいどうだってことはなかった。
彼女の活躍でカラミタ王国は彼の領土となり、アルベルトは同じ方法で国を大きくしていった。そのたびにデボラは最前線へ行き、大きな活躍を果たした。
そうしているうちに、小国だった彼の国は、いつの間にか大陸最大の大国となった。
彼は自身の国にベレニウム帝国という名を付け、初代皇帝として君臨した。
――十分すぎるくらいの力を手に入れた彼にとって、もうデボラは用済みだった。
『アルベルト……私、いつになったら皇后になれるの……?』
『何を言っている?お前を皇后にするつもりなんてない――皇后になるのは、彼女だ』
そのとき、デボラの前に一人の女性が現れた。
彼の腕に抱かれて勝ち誇ったような笑みを浮かべていたのは、真っ赤に輝く瞳を持った美しい女だった。
『私は彼女を皇后にする。この女は魔女だ――お前たち、この女を捕らえろ!』
『アルベルト……?』
衝撃で呆然としていたデボラはあっという間に魔力封じの枷を付けられ、皇宮の地下牢へ入れられてしまった。
彼女は最後の最後までアルベルトが来るのを待ち続けていたが、彼はいつになっても彼女の元へやってこなかった。
そこで彼女はようやく、騙されていたことに気が付いた。
彼のために先王を殺害し、戦争では最前線に立って武功を上げた。
しかし、アルベルトは最初からデボラのことなど愛してはおらず、全てはあの女と一緒になるための演技だったのだ。
彼女の心がズタズタに切り裂かれ、同時にアルベルトと女への強い憎しみで胸が埋め尽くされた。
『――絶対に許さない……アルベルトも女も……復讐してやるからな……』
彼女は最後、力を振り絞って決死の思いで脱獄した。
追手が迫りくる中、デボラは胸を矢で貫かれ、崖へ落ちて行った。
死んだと思われていた彼女だったが、何とか川から這い上がり、九死に一生を得た。
驚異的な魔女の生命力と、執念が生んだ奇跡だった。
それから彼女は、皇帝アルベルトと新たに皇后となった女への復讐だけを目標に生きていくこととなった。
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