88 聖女アンリーシェの正体
その日の夜、眠りに就こうとベッドに入ったチェリシアの元に、予期せぬ来客があった。
「――チェリシア、元気にしていましたか?」
「アンリーシェ!?どうしてそんなところに……!」
窓の外から枠を掴んでぶら下がるアンリーシェを、チェリシアは慌てて部屋の中に入れた。
白いドレスに真っ黒なローブを羽織った彼女の体はやけに冷たかった。
雨が降っていたせいか、服が濡れている。
長い金髪からは水が滴っており、長時間雨に打たれていたということが見て取れた。
そんな彼女の姿を見たチェリシアは焦った。
「アンリーシェ、早く着替えてください。風邪を引いてしまいますよ……!」
「――チェリシア、よく聞いてください」
アンリーシェは自身に向かって伸ばされたチェリシアの手を強く掴んだ。
「アンリーシェ……?」
いつになく真剣な彼女の顔つきに、チェリシアは困惑した。
以前から思っていたことだったが、アンリーシェは時々このような表情をすることがある。
前世で彼女が読んだ漫画の中では、当然一度たりとも見せたことのなかった顔だ。
アンリーシェはチェリシアの腕を握る手に力を込め、歪んだ口を開いた。
「――レイド殿下は私を選びました。今すぐに、彼から身を引いてください」
チェリシアは時が止まったかのように、目を丸くしたまま固まった。
「何を……言っているんですか?」
「その言葉の通りです。レイド殿下は私のことが好きだとおっしゃいました。チェリシア、あなたのことはもう愛していないそうです」
アンリーシェは照れたように笑った。
レイドに告白されて嬉しい、とでも言いたそうだ。
そんな、冗談でしょう?
「殿下がアンリーシェに告白しただなんて……嘘をつくのもいい加減にしてください」
「嘘ではないんですが……チェリシアがそう思ってしまうのも仕方がありませんね」
アンリーシェはチェリシアに同情的な視線を向けた。
もしその言葉たちが嘘であるのならば、彼女の演技力は相当である。
そう思ってしまうほどに迫真の演技ではあるが、チェリシアは頑なに信じなかった。
「――いいえ、アンリーシェ。あなたは嘘をついています」
「……そこまでキッパリと言い切るだなんて、よっぽどレイド殿下を信用しているんですね」
レイドを信用しているとは少し違うかもしれないが、チェリシアは少なくともあのときにされた愛の告白が嘘ではないと確信していた。
彼が自身を見つめていた目には、たしかに深い愛情が込められていたからだ。
それに加え、彼は信用に値する人物だと既に十分すぎるくらい理解していた。
「レイド殿下がアンリーシェを選んだとして……ステイン殿下との婚約は破棄なさるおつもりですか?」
「いいえ、ステイン殿下との婚約は破棄しません」
「な、何を……!」
あまりにも身勝手な彼女の言い分に、チェリシアは思わずその胸倉を掴みそうになった。
そんな彼女の手を、アンリーシェが事前に察知して阻止した。
同じ女性ではあるものの、アンリーシェの力はチェリシアよりもずっと強かった。
この華奢な体のどこから、こんな力が出ているのか。チェリシアは目の前にいる彼女が、得体の知れない怪物であるかのように感じた。
「言い方を変えましょう、チェリシア――レイド殿下を解放してあげてください」
「な、何ですって……?」
「殿下は私のことが好きだから、独身を貫くつもりだそうです。あなたとの婚約は破棄したいんだとか」
「レイド殿下がそう言っていたのですか?」
アンリーシェは口元に意地汚い笑みを浮かべながら頷いた。
あなたは負けたのよ――とでも言いたそうな笑みだ。
だが、それくらいでチェリシアの気持ちは揺れない。
「そうですか、なら今度本人に聞いてみますね」
「……何ですって?」
「殿下に直接確かめてみることにします。あなたの言葉は信用できませんので」
チェリシアは彼女を煽り返すかのように、朗らかな笑みで返した。
挑発を含めた笑みに、アンリーシェは拳を握りしめて唇を噛んだ。
「らしくないですね、アンリーシェ。聖女であるあなたがそんなことを言うだなんて……」
一瞬の隙を突いて彼女の手を振り払ったチェリシアは、アンリーシェの両肩をガシッと掴んだ。
掴まれた彼女は、不快そうに眉をひそめた。チェリシアはそんなアンリーシェを逃さない、というように視線を合わせた。
「――あなた、一体誰ですか……?」
「……」
その問いかけに、アンリーシェの顔から全ての表情が抜け落ちた。
チェリシアはそんな彼女を追い詰めるように、畳みかけた。
「アンリーシェじゃないですよね……レイドに何をしたんですか……?」
「……なぁんだ、気付いてたのね」
彼女は小さく息を吐くと、チェリシアの手を強い力で振り払った。
「キャッ!」
羽織っていたローブを乱暴に脱ぎ捨てると、彼女は濡れた前髪を手でかき上げた。
ポタポタと、雫が床に垂れる。
「――そうね、くだらない演技をこれ以上続けている必要は無いわ」
「……リーシェ?」
呆気に取られる彼女をよそに、アンリーシェは瞬時に魔法を発動させた。
地面から伸びてきた無数の糸が、チェリシアの体を拘束した。
「キャアッ!」
驚いてアンリーシェを見ると、彼女は片手の平をこちらに向けて魔術を使用していた。
彼女の体から放たれる黒いモヤのようなもの。
間違いない――闇魔法だ。
身動きが取れないチェリシアを見たアンリーシェがクスクスと笑った。
「あらぁ、無様ね」
「闇魔法を自由自在に操れるということは……あなたは魔女かしら?」
「魔女……そうね、昔はそういう風に呼ばれていたわ。そのときのことはもうあまり覚えていないけれど」
見た目は間違いなく聖女アンリーシェだったが、中身は全くの別人だった。
つまり、アンリーシェの体に別の人物が憑依しているということだろう。
「正体を知られたからって私を殺すつもりかしら?」
「殺すだなんて……そんな面倒なことはしないわ――ベレニウム帝国は私が滅ぼすから」
「なッ……」
アンリーシェの姿をした魔女は、絶句するチェリシアを前に笑みを深めた――
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