73 ヒロインと悪役令嬢
チェリシアとアンリーシェは、二人きりの路地裏でそれぞれお互いを鋭い目で見つめ合っていた。
彼女の首元にナイフを突きつけるアンリーシェの手は微動だにせず、それが彼女の意思が揺らがないということを表していた。
重い沈黙が流れる中、チェリシアが口を開いた。
「……こんなことをしても、何の意味もありませんよ」
「少なくとも、彼女の居場所を聞き出すことくらいはできるのではありませんか?」
アンリーシェはナイフを片手に、ニヤッと口角を上げた。
(彼女って……原作のチェリシアのことよね?どうしてリーシェが原作のチェリシアを知っているの?もしかして、彼女も転生者?)
チェリシアはアンリーシェが何故、原作のチェリシアを探しているのかがわからなかった。
アンリーシェとチェリシアは悪役令嬢とヒロインという立ち位置で、互いに刃を向け合うべき存在なのだ。
(……そこまで躍起になって彼女を探しているのは、憎しみゆえ?いいえ、そんな風には見えなかったわ)
むしろ、アンリーシェが原作のチェリシアに抱いているのは……
「本物のチェリシアをどこかに追い出したんですか?」
「何を誤解しているのか知りませんが、私はチェリシアを追い出してなんていませんよ」
「そんな言葉を信じるとでも?では、あなたがチェリシアの体に入り込んだのは神の悪戯だとでもいうのですか?」
――神の悪戯。
チェリシアはそのような言葉が出てくるとは思わず、目を見開いた。
(たしかに、私がチェリシアに転生したのは神の悪戯ともいえるわね……)
アンリーシェはそんな彼女の反応を、何も言わずに見つめていた。
「……どうやら、本当に何も知らないようですね」
「アンリーシェ?」
そう言うと、彼女はナイフをそっと下ろした。
諦めがついたのか、途端に興味が無くなったかのようにチェリシアから顔を背けた。
「アンリーシェ、このような無礼な真似をするために私を呼んだのですか?」
「ええ、そうです」
アンリーシェは何の迷いも無く、首を縦に振った。
「いくら聖女とはいえ、こんなことをしてただで済むとでも?私はロクサーヌ公爵家の令嬢であり、第二皇子レイド殿下の婚約者なのですよ?」
「……だから、何らかの罰が与えられるはずだと、そう言いたいのですか?」
チェリシアは頷いたが、アンリーシェは全く動じなかった。
ほんの一瞬、僅かに細められたその瞳は、何故か少しだけ悲しそうだった。
「チェリシア、私はそんなものどうでもいいんです。自分の持つ地位や名誉なんて心底どうだっていい」
「……平民から聖女、皇太子妃になった人とは思えないような発言ですね」
「貴族であるあなたには到底理解できないでしょう」
アンリーシェは冷めた目でチェリシアを見つめた。
複雑な感情が入り混じった瞳だった。どうしてあなたはチェリシアではないのか――と言っているようにも思えた。
「何故、そこまでチェリシアを探しているのですか?私にはそちらの方が理解できません」
「……」
アンリーシェはとうとう黙り込んでしまった。
「……逆に聞きますが、あなたは私とチェリシアを敵対関係だとでも思っているのですか?」
「そうでしょう、だってあなたは――」
この世界のヒロインなのだから、と言いかけてチェリシアは慌てて口を噤んだ。
彼女が原作漫画を知っているかどうか、まだ確信できていない。
不用意な発言は控えるべきだろう、と考えてのことだった。
「そうだ、さっきの質問に答えましょう」
アンリーシェはフードをかぶると、背を向けた状態から振り向いた。
「――私はチェリシアを愛しているんです、この世界の誰よりも」
「……何ですって?」
チェリシアは当然、そのようなアンリーシェの言葉を信じることができなかった。
愛?あの二人の間に愛なんてものが存在するわけがない。
二人がヒロインと悪女である以上、分かり合える日など来ないのだ。
「これ以上話すのは危なそうです。私はそろそろ行きますね」
「ま、待ってくださいアンリーシェ……どうして急に……!」
(危ないってどういう意味なの?)
チェリシアは突然立ち去ろうとするアンリーシェを引き留めようと、手を伸ばした。
伸びた手が彼女の着ているローブに触れる寸前、アンリーシェはその手を振り払った。
「……!」
激しく拒絶するかのような彼女の態度に、チェリシアはそれ以上引き留めることができなかった。
(どうして……そんな顔をするの……?)
今のアンリーシェは、まるで酷く恐れる何かから逃げているかのようだった。
ここにはチェリシアと彼女の二人しかいない。一体何をそんなにも恐れているのだろうか。
敵がいたところで、ステインが全員排除してくれそうだけど。
チェリシアはわけもわからないまま、離れていくアンリーシェの背中をじっと眺めていた。
――去って行く彼女の後ろ姿は、何故かとても寂しそうだった。




