60 アンリーシェの機転
突然柱の影へ押しやられたチェリシアは、自分の口元を押さえる人物を見て愕然とした。
(アンリーシェ……!)
幻想でも見ているのか、彼女の目の前にいたのはホールでステインと踊っていたはずのアンリーシェだった。
彼女はシッ!と人差し指を口元に当てながら、チェリシアとじっと目を合わせた。
アンリーシェは絶対にそこから出るなと目で言い聞かせると、そのまま扉の前へ出て行った。
「一体誰だ!盗み聞きするなんて無礼な……」
「――神殿長様、私です」
「……アンリーシェ?」
何と彼女は、神殿長の前に自ら姿を現したのだ。
柱の裏に身を潜めたチェリシアをよそに、アンリーシェは神殿長と会話を続けた。
「どうしてお前がここに?」
「私、久しぶりに神殿に来たので……ちょっと懐かしくなって中を歩いていたんです。そうしているうちに気付いたらこんなところまで来ちゃいました」
彼女は困ったようにエヘヘッと笑った。
そんなアンリーシェに、神殿長は眉をひそめた。
(だ、大丈夫なのかしら……?)
チェリシアは彼女の身が不安でたまらなかったが、今自分が出たところでどうにもならない。
むしろ神殿長の疑いが深まるだけなことは明白であるため、じっとしているほかなかった。
「聖女候補だったときが懐かしくて……殿下の婚約者となってからはなかなか神殿へ来ることができなかったから……」
「……そうか、それでこんなところまで来たんだな。ステイン殿下は?」
神殿長は納得したようで、特に疑念を抱くこともなく、アンリーシェに尋ねた。
「ステイン殿下はパーティーホールでお貴族様たちとお話しています。私は貴族の話にはついて行けないので……居心地が悪くて抜け出してきちゃいました」
「殿下が心配しているのではないか?早く戻るべきだ」
「ええ、そうですね」
アンリーシェが胸に手を置いてお辞儀をすると、神殿長は何事も無かったかのように再び部屋の中へ入って行った。
扉が閉まったのを確認した彼女は、ずっと柱の裏にいたチェリシアの手を引いて歩き出した。
「せ、聖女様!」
「……」
チェリシアは小声でアンリーシェに話しかけるが、彼女は返事をすることなく前を歩き続けた。
しばらくして、部屋から十分離れたところでアンリーシェが立ち止まり、チェリシアの方を振り向いた。
「あ、あの……助けてくださってありがとうございます……」
「……」
アンリーシェは何も言わずに、感情の宿さない瞳で彼女を見つめていた。
チェリシアはそんなアンリーシェに戸惑いを隠せなかった。
いつも柔らかく微笑んでいる彼女が、そのような目をするのはチェリシアの前だけだった。
「――何故あなたはそうやって、自ら危険な行動ばかり取るんですか?」
「…………聖女様?」
アンリーシェはチェリシアを呆れたような顔で見ていた。
「いえ、質問を変えた方がいいですね。何故あそこにいたのですか?」
「そ、それは……たまたま歩いているうちにあそこまで来ちゃって……」
「……あそこは関係者以外は立ち入り禁止の場所ですよ」
「し、知らなかった……!」
入ってはいけない場所だったのか、と彼女はあ然とした。
「あなたはいつもいつも、危機感が無さすぎます――そうやって、レイド殿下とも出会ったんでしょう?」
「……どうしてそのことを」
何故アンリーシェが、チェリシアとレイドとの出会いを知っているのか。
「……でも、そういうところが何だかあなたらしいですね」
「……え?」
チェリシアが顔を上げると、何でもありませんとアンリーシェは静かに首を横に振った。
何故か昔を懐かしんでいるかのような彼女の表情に、チェリシアは首をかしげた。
「聖女様」
「そうやって呼ばれるのは好きではないんです。どうかアンリーシェとお呼びください」
「……では、二人きりのときでだけ」
皇家の次に地位の高い聖女を名前で呼び捨てにするなど本来ならば不敬罪に該当するが、本人がそう望むのならば受け入れるべきだろう。
「アンリーシェ、さっきの話をお聞きになりましたか?」
「……神殿長様の皇家に関する発言でしょうか?」
「その通りです、あんなにも恐ろしいことをどうしてあの方は……」
思い出すだけで背筋が凍るチェリシアに対し、アンリーシェは毅然とした態度を崩さなかった。
「――チェリシア、神殿とは元々そういう場所ですよ。あなたもご存知ではありませんか?」
「アンリーシェ……」
彼女のその言葉が意味しているのは、世間に流れている神殿に関する黒い噂が事実ということだろう。
アンリーシェは聖女候補として神殿にいたせいか、そのような裏の顔を知っているのだ。
あんな発言を聞いても驚かないのはそのせいだろう。
「なら、あの話も本当なのですか?」
「あの話……とは?」
「――神殿が、聖女になれなかった候補者の少女たちを奴隷として売り飛ばしているという話です」
その一言に、アンリーシェの表情が変わった。




