56 父との決別
夜の七時、チェリシアは父親のいる晩餐室の前までやって来た。
(何だかとっても久しぶりね……誘拐事件があってからは数えるほどしかここへ来ていなかったから……)
元々この場所は、父と義母、そしてマリーナが家族三人で過ごすための場所だった。
そこにチェリシアは入っていない。
彼女がいなかったところで、気に留める人なんて誰もいなかったのだ。
幼いチェリシアはそのことに気付いていながらも、愛されたいと願い、毎日のように辛い記憶が残るここへ通い続けた。結局は三人が和気あいあいと話すところを眺めていることしかできなかったのだが。
「――お父様、失礼します」
「入りなさい」
チェリシアがノックをすると、中から父親の声が聞こえた。
晩餐室に入ると、父がいつもの場所に座っていた。
「失礼します」
「チェリシア、今日はこっちに座りなさい」
「……お父様?」
定位置に座ろうとしたチェリシアだったが、父は何と前まで義母が座っていた椅子を彼女に薦めたのだ。
(……マリーナと違ってお義母様はまだ邸にいるのに、どうしてそんなことを?)
彼女は不思議に思いながらも、そこに腰を下ろした。
いつもと違う画角に父の姿があるせいか、何だか落ち着かない。
公爵邸の広い晩餐室の長いテーブルに座っているのは二人だけ。
四人もいたあの頃が何だか懐かしくなった。
しばらくして、二人の元に食事が運ばれてきた。
気のせいか、今日のメニューはいつもよりも豪華だった。
ナイフとフォークを手に持って食事を始めるチェリシアに、父が声をかけた。
「プレゼントはどうだ?気に入ったか?」
「……驚きました。あのようなものをお父様から頂くのは初めてでしたので」
「……」
父は気まずそうに黙り込んだ。
チェリシアはプレゼントなんてほとんど貰ったことがない。
誕生日ですら、何も贈られてこなかった。
「……今までの態度については、すまなかったな。レイチェルがお前のことを手のかかる子だと言うから……」
「……ろくに確かめもせず、それを信じたのですか」
チェリシアにとって父は、義母よりも罪の重い人だった。
義母とは血が繋がっていないため、チェリシアを愛せないのもまだわかる。
しかし、父は唯一残された肉親であり、彼女にとって唯一の希望の光だったのだ。
そんな父親から見放されたことが、原作の彼女を悪の道へ進ませたのではないだろうか。
チェリシアは彼女の体に転生してからというもの、そう思えてならなかった。
「お義母様の元へは行かれましたか?」
「いや……ノックをしても出てこない。まだ立ち直れていないようだ」
その一言で、チェリシアは父の考えを全て理解した。
父はきっと、義母を見捨てようとしているのだろう。
(そうよ、あなたは精神病を患ったお母様のことも捨てたわ。そういう人だもの)
チェリシアの父は、最初から母と疎遠だったわけではなかった。
たしかに政略結婚で結ばれた二人ではあったものの、最初はお互いを尊重し合う良き夫婦だったのだ。
いつからだろう、母が心を病むようになってしまった。原因は義理の両親との折り合いが悪かったことだったそうだ。使用人たちに当たるようになり、次第に父にもその矛先が向けられるようになった。
父はそんな母の傍にいるのが嫌になり、外に女を作って帰らなくなった。
それをきっかけに母はさらに病み、病気になってしまった。
死に目にすら、父は母に会うことを拒んだ。母はあれほど父に会いたいと言っていたのに。
(あなたは自分を母の病の被害者だと思ってるんでしょう……でもね、あなたが母を義両親から守ってあげていたとしたら、母はあんな風にはならなかったんじゃないかしら?)
父は臆病でずる賢い人だった。両親との関係悪化を恐れ、妻を犠牲にし、都合が悪くなったらすぐに逃げ出した。
「お義母様を捨てるおつもりですか?――私の母親を捨てたときのように」
「な、何を……!」
ほとんどわかりきっているようなことを、何故聞いたのか。自分でも説明がつかなかった。
父は慌てたのか、フォークを床に落とした。
チェリシアはそんな彼を、冷めた目で見つめていた。
「そうしたら、また新しい女を作るのですか?」
「……そんなことはしない、この歳で新しい女などできるわけがないだろう」
「あら、そうですか?公爵家の当主ならいくらでも相手がいると思いますけど」
チェリシアは素早く食事を終えると、口元をナプキンで拭き、椅子から立ち上がった。
「お父様、私が今日ここへ来たのはお父様に最後の挨拶をするためです」
「最後の挨拶……?」
顔を上げた父を、チェリシアは興味の無さそうな目で見下ろした。
「――今さら、私を娘として扱わないでください」
「チェリシア……?」
それは、父親に対する拒絶だった。
「大切な家族であるかのように振舞わないでください。私は少なくとも、あなたのことをそう思ったことは一度たりともありません。お父様もそうだったはずです」
「違うんだ、チェリシア……私はお前のことが……」
「聞きたくありません」
彼女は言い訳がましいその言葉を遮った。
もう、全てを終わりにしたかった。
父と二人でいる時間が、彼女にとってはどうも辛かったのだ。
今日は父親と決別するために、あえてここへやって来た。
「ドレスの件は感謝しています。ちょうどパーティーに着ていくドレスが欲しかったんです。私はマリーナと違って……あんな高いドレス、持っていませんでしたから」
「……」
最後のその一言が、彼女が公爵邸で置かれていた立場を切実に物語っていた。
(さようなら、お父様)
黙り込み、俯いた父を置き去りにしたまま、チェリシアは晩餐室を出て行った。




