30 聖女の警告
アンリーシェは暗い表情で、そう口にした。気のせいか、いつもより声が低い。
チェリシアはそんな彼女とじっと目を合わせていた。ついさっきまでとても愛おしく感じていたはずの青い瞳が、今は底知れない闇を感じる。
(どうして……そんなことを言うの……?)
理解できなかった。
まだ聖女となったばかりのアンリーシェは、レイドと関わったことなんてほとんど無いはずだ。
それなのに、どうして関わらない方がいいだなんて言うのか。
チェリシアはすぐには受け入れられなかった。
もちろん、レイドは血の皇子として貴族社会で恐れられている存在ではあったが、他者がそうやって人の交友関係に口を出すべきではない。
「社交界の噂を鵜呑みにしているのですか?そんな風に憶測で言うだなんて、聖女様らしくありませんね」
「いいえ、そういうわけではありません」
アンリーシェは何の迷いもなく、そう答えた。
毅然とした振舞いに、チェリシアは違和感を覚えた。
(一体何が言いたいの?アンリーシェ……そんなことを口にするなんて、あなたらしくない……)
チェリシアは既にレイドとの婚約が内定しているうえに、彼と婚約破棄後の約束までした。
今さら、それらを反故にする気はさらさらなかった。
アンリーシェはチェリシアの疑念に直接触れることはなく、言葉を濁した。
「ただ、レイド殿下に関わってもいいことはないと思うんです」
「ですから、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか?」
レイドと関わっても、いいことはない。
それはまさに、少し前のチェリシアが思っていたことだった。
しかし、今はどうだろうか。
彼女は彼と接点を持つことで多少なりともメリットを得られている。
そのときになってチェリシアはようやく、全てが悪い方向にばかり進んでいくわけではないのだということを知った。
チェリシアはアンリーシェを正面から見据えた。
「聖女様が何を言おうと私の意思が変わることはありません。私が関わる相手は私自身で決めますから」
「……」
誰に何と言われようと、チェリシアはレイドとの関係を切るつもりはなかった。
何より、彼には助けてもらった恩もあるし。
「……警告はしましたよ、チェリシアさん」
「……警告だなんて、大げさな」
アンリーシェは椅子から立ち上がり、傍にあった窓から外の景色を眺めた。
チェリシアはそんな彼女の背中に声をかけた。
「……私は、彼を信じています」
「……」
あのとき私を火の中から救い出したあの優しさは真実であるのだと。
チェリシアはそのことをアンリーシェに表明した。
その言葉をはっきりと耳に入れたアンリーシェは、ゆっくりと彼女の方を振り返った。
「……」
いつもと変わらない、穏やかで柔らかい眼差し。
霧がかかっているように見えたその目は、澄み切った空のような青い瞳に戻っていた。
彼女はチェリシアにニッコリと笑いかけた。
「……そうですか、なら今の発言は忘れてください。チェリシアさん」
「ど、どういうことですか……?」
予想外の返事に、チェリシアは思わず眉をひそめた。
「そのままの意味ですよ、今の発言は綺麗さっぱり記憶から消してもらって構いません」
「よ、よけいにわけがわかりません……一体何を言っているのか説明し――」
そのとき、アンリーシェが突然チェリシアの肩に手を置いた。
「チェリシアさん、まだ全快していないんでしょう?あまり深く考えるのは良くないと思いますよ」
「……何を、急に」
深く考えさせたのはあなたではないか。
「――どうかお大事になさってくださいね、チェリシアさん」
アンリーシェは美しく聖女の礼をすると、そのまま部屋を出て行った。
***
結局、チェリシアが公爵邸に帰れたのは一週間後のことだった。
かなりの重症だったため、もっと治療に時間がかかると思われていたが、アンリーシェから貰った薬がかなり効いたようだった。
後に知ったことだが、彼女が作った薬の原料であるカシの葉は最近ではもうほとんど採ることができなくなっているのだという。
医者に見せたときは、こんなものをどうやって手に入れたのかとずいぶん驚かれた。
採取したのはチェリシアではなくアンリーシェだったから、彼女はその質問には答えられなかった。
「お世話になりました。私のために手を尽くしてくださり、本当にありがとうございました」
「お大事になさってください、ロクサーヌ令嬢」
チェリシアは第二皇子宮から公爵邸に帰る日、看病してくれた医師とラリサに礼を言った。
レイドにも挨拶をしたかったが、彼は今ちょうど仕事でどうしても来ることができなかったそうだ。
(……私たちは婚約者なんだから、きっとまたすぐに会えるわよね)
チェリシアは迎えの馬車に乗り込み、ロクサーヌ家へと戻った。
十日ぶりの我が家は、前と何も変わっていなかった。
長女が大怪我をして生死の境を彷徨っていたというのに、誰一人として慌てる素振りすら見せなかったようだ。
(まぁ、マリーナがやったことなんだから当然か……)
彼女を問い詰めたところで、マリーナを溺愛する両親は今回の一件をもみ消すだろう。
妾腹の妹が、正当な嫡子である姉を殺そうとしただなんて醜聞でしかないし。
(むしろここでは私が頭のおかしい人扱いされて終わりね……)
彼女は気が重くなりながらも、邸の中に入った。
すれ違う使用人たちが何事も無かったかのようにチェリシアを通り過ぎた。まるで幽霊にでもなったかのような気分だった。
そんな中、彼女に話しかけた人物が一人だけいた。
「――チェリシア、帰っていたのか」
「……お父様?」
帰宅早々、彼女の目の前に現れたのは父親だった。




