21 偽装婚約
レイドがチェリシアを引きずり込んだのは、公爵邸にある誰も住んでいない小さな部屋だった。
彼は彼女を部屋に押し込むと、扉の鍵を閉めた。
本来なら、未婚の貴族令嬢が男と部屋で二人きりになるのはご法度だ。
しかし、悪役皇子レイドがそのようなことを気にするわけがない。
(レイドと密室で二人きりになったことは何回もあるけれど……)
今日は前より小さい部屋だったから、何だか変な感じだ。
「レイド殿下、どうしてここに?」
「あぁ、ちょっと話があってな……」
そのとき、レイドは何かに気付いたように動きを止めた。
何の感情も感じさせない平淡な目で、彼女の顔をじっと見つめた。
「お前、その頬の傷はどうした?」
「あ、これは……何でもありません。ちょっと転んで傷付いちゃっただけです」
「……」
レイドはその言葉が信じられないのか、チェリシアに一歩近付くと、頬にそっと手を触れた。
こちらを探っているかのような瞳と、至近距離で視線がぶつかった。
(前から思っていたけれど、コイツはちょっと異性に対する距離感がバグってる!)
鼻先が触れそうな距離で、宝石のように輝く赤い瞳がチェリシアを捉えた。
彼女は真実を話すつもりはなかった。
別に知られて困ることではなかったが、家族の事情に無関係な人間を巻き込むわけにはいかないからだ。
チェリシアは気まずそうに目を逸らした。
「ほ、本当ですよ……殿下……何ともありませんから……」
「……そうか」
レイドはそこで彼女から手を離した。
チェリシアの苦し紛れの言い訳を信じてくれたのかはわからないが、この場は切り抜けられたようだ。
「ところで、今日は何の話をしにこちらへ?」
「ああ、その話をするのが先だったな」
レイドは立ったままのチェリシアの方を振り返った。
口元に浮かぶ意地の悪い笑みに、彼女は嫌な予感がした。
そして、不運なことにその予想は的中してしまう。
「――ロクサーヌ令嬢、俺たち婚約しないか?」
「……………………………はい?」
***
「――チェリシア!!!」
「……お父様」
その日の夜、帰宅した父親が大慌てで彼女の部屋の扉を開けた。
いくら父親とはいえ、淑女の部屋を勝手に開けるのは無礼なのではないか。
しかし、今はそんなこと気にする余裕すらなかった。
チェリシアの父ロクサーヌ公爵は額に汗を垂らした状態で、彼女に詰め寄った。
その右手には、一枚の紙が握られている。
アレが何なのか、チェリシアはわざわざ確認せずともわかった。
「レイド殿下からお前に婚約の申し込みがあった」
「ええ、そのようですね」
「何故お前はそんなに平然としていられる?」
いつも冷静な父が慌てふためいている。
彼はチェリシアがレイドと関わりがあることなんて全く知らなかったのだから当然だ。
美しいマリーナなら一目惚れという結論が出るだろうが、チェリシアなら話は別である。
(そりゃあ私だって落ち着かなかったわよ。でもまぁ、事前に聞かされていたことだし、お父様よりかはマシね)
チェリシアは目の前の父を見つめながら、ついさっきの出来事を思い浮かべていた。
「こ、婚約……?殿下、冗談を言うのはよしてください」
「冗談を言っているつもりはないんだが」
レイドはいつもと変わらない顔でチェリシアを見下ろした。
いきなりの提案にこっちは動揺しているっていうのに、何故そうも落ち着いていられるのか。
(もしかして、本当に私のことを気に入ったから……?)
どうせ他の女を妻として迎えるくらいなら俺はお前がいい、てきな……?
「ああ、勘違いするなよ。別にお前のことを好きになったわけじゃない」
「……」
黙っていれば良い男なのはいつものことである。
「ただ、お前も知っているだろう?この国のしょうもない規則を」
帝国法をしょうもないだなんて言えるのはきっとこの世でレイドだけだろう。
「……婚約していない皇子は皇太子になれないってやつですか?」
「そうだ」
ベレニウム帝国では、歴代で未婚の皇帝は存在しない。
いや、正確に言えば一人だけいる。
今はもう歴史からその名を消されてしまった人物。
それが第八代皇帝のフレウだった。
彼は類を見ないほどの女好きとして知られていた。
彼は皇后を娶ることなく、国内外問わず様々な女を連れてきては後宮で囲っていた。
フレウはいつからか女たちとの遊びに明け暮れ、まともに仕事をしなくなった。
皇帝に唯一進言できる皇后はおらず、貴族や国民たちは何もできなかった。
執務を放棄し、暴政を敷き、毎日のように女たちと贅沢な暮らしを送った。
九代皇帝がクーデターを起こし、彼を捕らえるまでその地獄のような日々は続いた。
彼は処刑され、愚帝として歴史に名を遺すこととなってしまったのである。
――未婚約の皇子は皇太子になることができない。ベレニウム帝国において、皇帝と皇后は対等な関係である。
そのような事態が二度と起きないよう、九代皇帝が定めた帝国法の一つだった。
「私が殿下と結婚するだなんて、あんまりですよ」
「何も結婚するとは言っていない。俺が皇帝の座に就くまでの間だけだ。その間だけ、お前は俺の婚約者としていてくれればそれでいいんだ」
レイドは簡単に言うが、こちらとしてはすぐに受け入れられることではなかった。
彼にとっては偽装婚約などどうだってことはないに違いない。
「何の見返りも無しにそれをしろと?」
「何か望むものでもあるのか?」
「あります、一つだけ約束してください」
チェリシアの言葉に、レイドは言ってみろと目で合図を送った。
その合図を受け取った彼女はゆっくりと口を開いた。
「――婚約を解消したあと、私が平民として豊かに暮らせるように手配してください」




