116 アンリーシェの旅立ち
時間は過ぎ、帝国を揺るがしたあの事件から一ヵ月が経過した。
この頃には既にロクサーヌ公爵邸も元通りに戻り、チェリシアたちの生活も平穏を取り戻し始めていた。
そして今日は、ある人物が旅立つ日だった。
深い夜、誰にも気付かれないようにローブを羽織り、フードを深くかぶった謎の人物が、こっそり皇宮の裏門から出ようとしていた。
旅行用の大きめなバッグを手にした彼女は、そのまま用意されていた馬車へと乗り込もうとした。
そんな彼女に、チェリシアは背後から声をかけた。
「――アンリーシェ」
「……チェリシア?どうしてここに?」
彼女は驚いたように、チェリシアの方を振り返った。
そう、人気の少ない深夜に皇宮を出ようとしていた人物はまさに聖女アンリーシェだった。
あの一件以降、アンリーシェは国民たちから救国の聖女と呼ばれるようになった。
そんな彼女が何故、誰からの見送りも受けることなくこっそりと外へ出ようとしているのか。
――それは彼女が、ステインに対して最後に望んだものがきっかけだった。
「私に何も言わずに行ってしまうだなんて……水臭いではありませんか」
「……チェリシア」
チェリシアは顔を隠すようにフードを深くかぶるアンリーシェにゆっくりと近付いた。
彼女は複雑な目で、チェリシアを見つめていた。
「……私は死んだことになっているのですから、あまり公にしてはいけないと思って」
「そうだとしても、私はリーシェの親友ですよ?見送りにくらい呼んでほしかったです」
――聖女アンリーシェは、世間では既に死んだものとなっている。
それは紛れもなく、彼女自身が望んだことだった。
アンリーシェはステインに帝国を救ったことへの褒美として、自身を聖女の任から解いて平民へと戻してほしいと願った。
ステインは理解できないというような反応を示したが、止めるようなことはしなかった。最後くらい、彼女の意思を尊重してあげたかったのだろう。
そして、その願いは今日叶えられた。
聖女アンリーシェは突然の事故で死んだこととし、ステインは彼女を平民へ戻した。
「望めば何でも手に入れられたでしょうに、あなたってとっても謙虚なんですね」
「私が望んでいるのは、宮殿での煌びやかな暮らしではありません。ただ、平穏な暮らしがしたいだけなんです」
アンリーシェは優しい両親が亡くなり、横柄な叔父に引き取られた。
その生活は幸せとは言えるものではなく、聖女候補として神殿に売られ、自らの意思など関係なく聖女となり、皇子との婚約まで結ばされた。
一見これ以上ないくらい望まれているように思えるが、それは彼女自身が望んだものではなかった。
ようやく巡り会えたと思えた大切な人は、彼女の目の前で無惨にも死んでいった。
そんな彼女が抱えている心の傷は計り知れない。
チェリシアは、ヒロインだからといって幸せになるとは限らないのだということをこのとき知った。
アンリーシェの心境を思って悲し気に目を伏せたチェリシアに、彼女は衝撃的な暴露をした。
「チェリシア、私ね……聖女としての力はもう残っていないんです」
「そ、それは一体……!?」
アンリーシェは驚愕の表情を浮かべるチェリシアをよそに、経緯を説明した。
「あのとき、全て使い果たしてしまって……もう光魔法はほとんど使えなくなりました。今私ができるのは、僅かな治癒魔法だけ。それも、大きな怪我を治すことはできません」
光魔法を使えない聖女に、存在価値など無い。
どちらにせよ私はもう聖女ではいられないのだ、とアンリーシェは切なく笑った。
そんなことはない――と言いかけたチェリシアを、彼女が遮った。
「ステイン殿下が、幼い頃両親と一緒に暮らしていた故郷の地で私が豊かに暮らせるよう手配してくださったんです」
「なら……そちらへ向かうおつもりですか?」
「ええ、両親が暮らしていた土地で、私も生涯を終えたいので」
アンリーシェはニコッと切なげに笑った。
皇宮を離れるのは寂しいけれど、後悔はしていない。そのような意味合いを含んだ笑みだった。
アンリーシェは最後にチェリシアに手を差し出した。
「チェリシア。前も言いましたが、あなたに出会えたのはとても幸運でした。第二皇子妃……いえ、皇后となられるあなたの幸せを願っています」
「皇后?」
チェリシアは一部理解できなかったが、差し出された彼女の手を握った。
最後の挨拶を終えたアンリーシェは、そのまま馬車に乗り込んだ。
ステインが用意した目立たない平民用の馬車。
彼女はこれから聖女ではなく、ただの平民として生きていくこととなる。
どんな困難が待ち受けていようとも、アンリーシェならば大丈夫だろう。
チェリシアは彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
「リーシェ!どうかお元気で!」
「チェリシア……あなたも」
窓から顔を覗かせたアンリーシェの目から、一筋の涙が溢れた。
そんな姿を見ると、チェリシアまで泣いてしまう。たとえ離れていても、同じ空の下で彼女は暮らしている。
――どうか幸せになってね、リーシェ。
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