114 婚約破棄 アンリーシェ視点
アンリーシェは自身を見下ろすステインを、何も言わずに見つめ返していた。
彼の赤色の瞳には、以前のような熱烈な愛情は感じられなかった。
それを知っていてもなお、彼女が何かを思うことはない。
悲しくもないし、寂しくもなかった。
ただ、二人の関係がたった今終わったことを悟っただけだ。
――それが、彼女の答えを切実に表していた。
「ステイン殿下、忙しいところお見舞いに来てくださってありがとうございます」
「君のおかげで国が救われたのだから、俺が足を運ぶのは当然だ」
アンリーシェが先に口を開き、彼が言葉を返した。
以前と違って、そこには一定の距離が置かれていた。どちらからともなく、線を引いていた。
「陛下はお目覚めになられましたか?意識不明だったと聞いております」
「ああ、君が目覚める少し前にな。しばらく政務は出来なそうだが、無事で何よりだ」
体を何回も闇魔法で貫かれた皇帝は、生死の境を彷徨っていたが、つい最近容態が安定した。
彼についていた神官たちの尽力のおかげだ。
しかし、それでも重い後遺症が残ることは免れなかったそうだ。
彼はこの一件で皇座を手放し、完全に表舞台から去ることとなるだろう。優秀な息子が二人もいるため、それでも国の未来は安泰だ。
「皇后陛下も憔悴してしまっていてな……メンタルケアが必定な状態だ」
「そうでしたか……」
アンリーシェは義父母になるはずだった人たちの悲惨な状況を聞いてもなお、表情を変えなかった。
彼らがどうなろうと、彼女の気にすることではなかったからだ。冷たいと思われるかもしれないが、アンリーシェは最初からそういう人だった。
たとえステインがそのような状況に陥ろうとも、彼女は涙すら流さないだろう。
「君は平気か?」
「ええ、私は何ともありません」
彼女は口元に笑みを浮かべて答えた。
それが本心からではなく、ただの愛想笑いに過ぎないことをステインも気付いていた。
「そうか、それはよかった。俺は長い間魅了にかけられていたせいか、未だに体が重いんだ」
「殿下……」
ステインが魔女デボラに長年魅了魔法をかけられていたことは、一部の人間しか知らないことだ。
第一皇子が魅了魔法に操られて国を乗っ取られかけたなんて、絶対に公表できなかった。
ステインは魔女デボラの策略にまんまと嵌まっていた自分が情けなくて、ここ数日は外へ出るのも躊躇われた。
「そこで、一つ君に聞きたいことがある……」
「……何でしょう?」
アンリーシェは顔を上げてステインを見つめた。
何の感情も宿していない、無の瞳が彼を映した。
ステインはその瞳からある程度のことを察したが、それでも直接聞かずにはいられなかった。
「――君は、一度でも……俺を愛したことがあったか?」
「……」
アンリーシェは気まずそうに視線を彷徨わせた。
ステインは罪には問わないから言ってみろ、と付け加える。
そこまで言うと、遠慮はいらないと思ったのか彼女はようやく口を開いた。
「――いいえ、殿下。私は一度たりとも、殿下を愛したことはございません。殿下から向けられた気持ちはハッキリ言って不愉快で、迷惑でした」
あまりにも正直なアンリーシェに、ステインは呆気に取られた。
これまで好意を寄せられることはあっても、ハッキリと拒絶された経験は無かったからだ。
それも、一時は全てを捨ててもいいと思えるほどに愛した女性から。
「……」
「あ、あの殿下……」
俯いたステインに、アンリーシェは不安になった。失礼極まり無い発言に、彼が不快に感じたのではないだろうかと。
しかし、そんな彼女の心配は杞憂だった。
彼はしばらく黙り込んだあと、アハハッと声を上げて笑った。
アンリーシェは普段クールな彼の大笑いに、驚いて目を丸くした。愛する彼女の前ですら、普段滅多に見せなかった姿だ。
ステインは笑いを堪えるように口元を手で押さえた。
「そうか……そうだよな……皇族の誘いを、断ることなんてできなかったよな……」
「は、はい……」
素直に認めた彼女に、ステインはまたしても笑いがこみ上げた。笑いすぎて笑いすぎて、彼の目に涙が滲んだほどだった。
「すまなかったな、アンリーシェ」
「いえ、私の方こそ無礼な発言を……」
「気にしないで言えと言ったのは俺の方だ」
ステインはアンリーシェを安心させるようにニッコリと笑いかけた。
その優しい笑みのまま、彼は信じられない言葉を放った。
「――アンリーシェ、婚約は破棄しよう」
「殿下……?」
今、婚約破棄って言ったの?
アンリーシェは彼の口からそのような発言が出るとは思わなくて、驚いた。
もちろん、彼女にとっても婚約破棄は望んでいたことだったが。
「あぁ、愛してもいない男と結婚するのは君にとっても残酷だろう。それに俺も今は……」
ステインはそこで区切りをつけたが、アンリーシェは何が言いたいのかを瞬時に理解した。
きっと彼は、他に気になる相手がいるのだろう。
だから、あまり悲しそうには見えなかったのだ。もちろん、アンリーシェにとってもその方がありがたい。
その相手が誰かは知らないが、きっと自分とは比べ物にならないほど素敵な方なのだろう。
気持ちを返せなかった分、せめて彼がその人と幸せになってくれたらいいな、とアンリーシェは心の中で願った。
かつて愛した女に婚約破棄を宣言したステインは、続けて彼女にある提案をした。
「アンリーシェ、何か願いはあるか?」
「願い……ですか?」
「ああ、君はベレニウム帝国の英雄だ。望むことは何でも叶えてやろう」
聖女アンリーシェは、女神ディアーナと同じように光魔法で帝国を救ってみせた。
婚約を破棄することにはなるものの、そんな彼女に最後に何かしてあげたいと、ステインは思ったのだ。
アンリーシェはしばしの間悩んだあと、口を開いた。
「……そうですね、なら――」
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