12話:私の余命は、あなたが診て
彼が暇乞いに来たのは、裁きから八日目の午後だった。
経過観察すべき病人は、この屋敷にもういない。往診の口実は、めでたく消滅した。勅任巡察医ともなれば、近く王都を発って、各地を巡ることになる。次に拠点を構えるのは国境沿いの町だと、彼は言った。管轄には、小さな診療所もあるらしい。
「最後に、診察を」
「健康よ?」
「知っています。手順なので」
脈を取る指は、いつも通り正確に——のはずが、今日は、やけに長かった。
「……三十秒、過ぎてるわよ」
「結婚を、申し込みたい」
脈が跳ねたのが、指先から彼に伝わったと思う。最悪だ。この男はいま、世界でいちばん正確な嘘発見器に、指を置いている。
「……り、理由は?」
「三点あります」
「なにそれ理屈っぽい」
言ってから、しまったと思った。茶々で間を稼いでも、この人には通じない。彼は律儀に、一本目の指を立てた。
「第一に。あの束の死者たちの背後は、まだ何も解けていません。叙勲の場で、ガラント侯が私を引き入れてくださった。あの方とともに、国の膿を出すことになる。——だが、あの膿の中に、あの束がある気がしてならない」
「……それ、求婚のお話かしら」
「ここからです。私の目は、不正を見る。だがあなたの目は、その先まで視る。あなたと組まない選択は、非効率だ」
「求婚に非効率って言葉を使う人、初めて見たわ」
茶化したのに、彼は引かなかった。二本目の指が立つ。
「第二に。国境の診療所には、医学の話のできる相手がいません。あなたは、その話ができる唯一の——いえ」
彼は、少しだけ言い直した。
「医学の話が、したい唯一の相手です」
……ずるい。言い直したところが、いちばんずるい。
「……第三は?」
彼は、黙った。
嘘のつけない男が、正確に言おうとして、言葉を探して、見つからなくて、それでも誤魔化さずに、黙っている。長い沈黙だった。
「……第三は。所見のみ、申し上げます」
「所見」
「あなたが死んだことにされた夜。芝居だと知っていて、知っていてなお、私はあの衝立の陰で、生涯でいちばん長い夜を過ごした。——この症状に付ける病名が、まだ、見つかっていません」
(——ああ、もう)
この人は、ずるい。
私は医者だった。前世でも今世でも、人の身体を診てきた。脈の乱れも、顔色の意味も、瞳の奥のことも、たいてい読める。
なのに。
いまこの胸の、妙な速さだけは、どうしても診断がつかない。
脈は正確に読める。他人のものなら。自分の心拍だけが、いつからこんなに当てにならなくなったのだろう。
いえ。本当は、わかっている。
わかっていて、病名をつけるのが、こわかっただけ。
「……処方箋は、出せそうにないわね」
私は、ようやく口を開いた。
「それ、治らないやつだもの」
「同感です」
彼は、まっすぐにこちらを見た。
「それで、お返事を伺いたい」
窓の外は、よく晴れていた。国境は遠くて、社交界からは僻地と呼ばれて、きっと冬は寒い。
でも、美味しいものはどこの土地にもある。診療所には患者がいて、隣には、医学の話の通じる男がいる。
二度目の人生の使い道として——悪くないどころじゃ、ないわね。
それに、父も母も、とうにこの人を気に入っている。改めてお礼にお招きしましょうと母は言って、あの男は信用できると父は頷いた。外堀は本人の知らないところで、すっかり埋まっているのだ。
(……まあ、それは言わないでおきましょう)
知ったらこの生真面目な人は外堀のせいだと思ってしまうかもしれないから。違うのよ、これは。私が決めること。
「ひとつ、条件があるわ。ギデオン」
初めて名前を呼んだら、彼の耳が赤くなった。嘘発見器は、お互いさまらしい。
「私を診ていいのは、あなただけよ。私の余命は——あなたが、診て」
「承知しました」
彼は私の手を取った。何の冗談もない、診断と同じ声で。
「では、所見を申し上げる。——健康そのもの。余命、あと七十年というところです」
七十年。
ずいぶん、長い。
でも、退屈はしなさそうだ。解くべき謎はまだ束のまま残っているし、隣の男は嘘がつけない。
私は握られた手を握り返した。
(さあ。二度目の人生、ここからが本番よ)
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