第8話 最初の教室 後半
「ああ、そうだよ」
そう答えると、ミリアスはピンク色の瞳をさらに輝かせた。
「やっぱり! すごかったよね、あれ。赤い光を、こう、ばーんっていうか、ぎゅんっていうか……剣で、しゃって!」
ミリアスは両手を動かしながら、あの時の光景を再現しようとしている。
説明にはなっていない。
けれど、本人はいたって真剣だった。
「しゃって感じか」
「うん、しゃって感じ! あ、ごめん。全然伝わってないよね」
「少しだけ」
「それ、ほぼ伝わってないやつだ」
ミリアスは、けらけらと笑った。
その軽さに、教室の空気も少しだけ緩む。
俺へ向けられていた視線も、刺すようなものから、
純粋な好奇心を含んだものへ変わっていった。
ありがたい。
ありがたいが、少し困る。
ミリアスは、悪意なく人の中心を作る。
そして俺は今、その中心へ引きずり出されていた。
「怪我、大丈夫なの?」
「ほぼ大丈夫だよ」
「ほぼ?」
「動けるし、腕も残ってる」
「それ、大丈夫って言わない気がする」
「治癒師にも似たようなことを言われた」
「じゃあ、ちゃんと聞いた方がいいよ。治癒師さんって、だいたい怒るけど、だいたい正しいし」
「経験談か?」
「うん。魔法の練習で何回か怒られた」
ミリアスは、あっさりと言った。
4属性を扱う天才少女。
明るく楽しそうに振る舞い、
周囲が期待する天才の姿を自然に見せているようにも思えた。
その一方で、魔法の練習では何度も失敗してきたらしい。
本当に何事も軽く受け止めているのか。
それとも、軽く見せることに慣れているのか。
そこまでは分からない。
今の俺に分かるのは、
彼女がこの場の空気を変えることに慣れているということだけだった。
「君が、ユアンか」
別の声が会話へ加わった。
柔らかい声だった。
振り向くと、茶色の髪をした男がこちらへ歩いてくる。
ダルタス・エルヴェイグ。
帝国代表。
先ほどまで周囲の生徒たちと話していたはずだが、いつの間にかこちらへ来ていた。警戒心を抱かせない速度で、あまりにも自然に会話の輪へ入ってくる。
「噂より、ずっと普通に見えるな」
ダルタスは笑った。
「いや、失礼。褒めているつもりだ」
「普通に見えるのは助かる」
「本当に普通なら、Sクラスにはいないだろう?」
その言葉に、周囲がわずかに反応した。
責める口調でも、皮肉でもない。
ただ、教室中が抱いている疑問を、笑顔のまま形にしただけだった。
それがうまい。
俺を責めているようには聞こえないのに、
聞いていた者たちの意識を、自然に同じ疑問へ向けている。
「それは、俺も聞きたいくらいだ」
「そうか」
ダルタスは一度だけ笑みを深めた。
何かを知っている者の反応にも見えたが、
次の瞬間には、先ほどまでと変わらない爽やかな表情へ戻っている。
「自分でも分からない、と」
「少なくとも、魔力で選ばれたわけじゃないと思う」
「だろうね」
軽い返答。
だが、その視線は会話の間にも、俺の左腕、腰の双剣、顔色を順番に確かめていた。
必要な情報だけを拾っている。
やはり、油断できない。
「でも、嫌いじゃないな。分かりやすい強さだけで席が決まるなら、こんな教室は退屈だ」
「退屈しに来たのか?」
「まさか。退屈しないために来たんだ」
ダルタスは、楽しそうに言った。
その言葉だけなら、好奇心旺盛な同級生に聞こえる。
だが、帝国代表が口にすると、どこか違う意味を含んでいるようにも感じられた。
この男にとって退屈しない状況が、誰かにとっての平穏とは限らない。
「まだ痛むのではありませんか」
今度は、柔らかな声が届いた。
メルディ・トリステアが、こちらを見ていた。
金髪が教室の白い光を受け、淡く揺れている。
「左腕を、少し庇っています」
「よく分かったな」
「癖のようなものです。痛みを隠している方は、どうしても目についてしまうので」
メルディは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません。初対面で、失礼でしたね」
「いや。こちらこそ、これからよろしく」
「はい。よろしくお願いします」
メルディは丁寧に頭を下げた。
その仕草は柔らかい。
けれど、ただ周囲へ流されているわけではない。
きちんと相手を見て、必要な言葉を選んでいる。
「治癒は受けましたか?」
「ああ、受けたよ」
「それでも痛むなら、無理はしない方がいいです。傷は、塞がった後が一番雑に扱われますから」
丁寧で穏やかな言葉だったが、そこには妙な実感があった。
多くの怪我人へ、何度も同じことを伝えてきたような声だった。
トリステア聖邦から送り出された聖女。
聖女と呼ばれるだけの理由が、少し分かった気がした。
「気をつけるよ」
「はい。できれば、本当に」
メルディは、柔らかく念を押した。
その横で、ミリアスが何度もうなずいている。
「そうだよ、ユアンくん。無茶したら、また治癒師さんに怒られるよ」
「もう怒られた」
「じゃあ、次はもっと怒られるね」
「それは困るな」
「困るなら、やめよう?」
正論だった。
返答に困る。
その時、少し離れた場所から、妙に熱のこもった視線を感じた。
ディムローだった。
赤髪の少年が、こちらを見ている。
いや、正確には俺ではない。
俺の腰に吊るされた双剣を見ている。
目が合った。
ディムローは、びくりと肩を震わせる。
それから、なぜか覚悟を決めたような顔で、こちらへ歩いてきた。
「な、なあ」
「うん?」
「その剣、どこで作ったんだ?」
初手がそれだった。
ミリアスが目を瞬かせる。
メルディは、少し困ったように微笑んだ。
いつの間にか、ダルタスは会話の輪から半歩離れていた。
近くの生徒へ声を返しながらも、黒い瞳だけは時折こちらへ向いている。
踏み込みすぎず、完全には離れない。
本当に、距離の取り方がうまい。
俺は、思ったより早かったな、と内心で呟いた。
「鍛冶屋だけど」
「それはそうだろうけど!」
ディムローは、思わず声を上げた。
教室の何人かがこちらを見る。
ディムローは、慌てて声を落とした。
「いや、ごめん。でも、その短剣、斬ることだけを考えた形じゃないだろ。長剣も普通より背の面が広い。あの赤い光を流した動きと、剣の形が妙に噛み合ってる」
勝手に話が進んでいく。
俺は、口を挟むタイミングを失った。
ディムローの目には、もう完全に双剣しか映っていない。
「受け止めるためじゃなくて、力を横へ逃がすためなのか? 短剣で何かを崩してから、長剣へ乗せて滑らせる……いや、でも剣だけでそんなことができるのか? それに、あの赤い光を受けた後でも折れていない。歪んではいるみたいだけど、それでも原型が残っているなら、素材も――」
さっきまで熱に浮かされたように喋っていたディムローが、
糸を切られたように口を閉じた。
視線だけが、俺の後ろへ向いている。
俺も振り返った。
ルビア・フォルテアが、こちらへ歩いてきていた。
教室の空気が、ほんのわずかに変わる。
ミリアスはきょとんとし、メルディは静かにルビアへ視線を向けた。
ディムローは、何も言わず一歩下がる。
顔色だけで、彼が何を感じているのかは十分に分かった。
先ほどまでの勢いは、完全に消えている。
ルビアは、ディムローを見ていなかった。
赤い瞳は、俺へ向いている。
いや。
正確には、俺へ向けようとして、途中でわずかに迷っているようにも見えた。
彼女は俺の前で足を止める。
近い。
焦げた布と血の臭いは、もうない。
代わりに、青薔薇を思わせる、微かに冷たいブルーの香りがした。
ルビアの唇が、わずかに動く。
けれど、すぐには声にならなかった。
俺は待った。
何か用があるのだろう。
たぶん。
そうでなければ、わざわざこちらへ来る理由がない。
ただ、その用件がまったく読めなかった。
試験場の件か。
Sクラスの件か。
それとも、別の何かか。
ルビアは、ほんのわずかに顎を上げる。
いつものように冷たく。
けれど、どこか言葉を選ぶように。
身体の横へ下ろした右手が、制服の裾をほんのわずかに掴んだ。
「あなたに、試験場のことで言っておくことが――」
「ねえねえ、ユアンくん!」
ミリアスが、完璧なタイミングで割り込んだ。
悪意はない。
たぶん、本当にない。
彼女の意識は最初から、俺とディムローがしていた剣の話へ向いている。
ルビアが何かを言いかけていたことにも、気づいていないようだった。
「さっきの剣の話、私も気になる! 魔法なしでどうやってあれをやったの? あ、言いたくないならいいんだけど、でも、やっぱり気になる!」
ルビアの言葉が止まった。
近くにいた者たちの間にも、短い沈黙が落ちる。
俺は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ミリアスは、にこにことこちらを見ている。
ディムローは「そ、それ俺も聞きたい」と小声で言いかけ、
ルビアの横顔を見てヒュッと口を閉じた。
メルディは、ほんの少しだけ困った顔をしていた。
少し離れた場所では、ダルタスが何か面白いものを見るように黙っている。
ルビアの赤い瞳が、一度だけミリアスへ向いた。
責めるほど長くはない。
けれど、何も感じていないと言うには、少しだけ鋭かった。
やがて、彼女は何も言わず、赤い瞳を細める。
怒っている。
少なくとも、俺にはそう見えた。
いや。
さっきよりも、確実にそう見えた。
「……何でもないわ」
短い一言。
それだけを残し、ルビアは身を翻した。
銀髪が揺れる。
黒紺の長い上衣の裾が、静かに遅れて動く。
彼女は、元の席へ戻っていった。
俺は、それを見送ることしかできなかった。
今、何かを言いかけていた。
分かりそうで、分からない。
言いかけた言葉だけが、妙に引っかかって残る。
ただ1つだけ分かる。
また、機会を逃した。
俺がではない。
彼女が。
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
「え? あれ?」
ミリアスが不思議そうに瞬きをした。それから、俺とルビアの背中を交互に見る。
「もしかして、今、私かぶせちゃった?」
悪気のない顔だった。
本当に、今気づいたらしい。
だから余計に、誰も責められない。
「たぶん、少しだけ」
俺が答えると、ミリアスはぴたりと固まった。
「うわ。ほんとに? ごめん、全然見えてなかった」
「見えてなかったなら、仕方ない」
「いや、でも今のは、たぶん私が悪いやつだ。謝りに行くよ」
「たぶん、今はやめた方がいい」
「……だよね。なんか、今行ったら余計まずそうだよね」
ミリアスは、しゅんと眉を下げた。
ほんの少しだけ、周囲の空気が和らぐ。
少なくとも、わざとではない。
それは、誰の目にも分かった。
少し向こうで、ダルタスが小さく笑う。
「賑やかだな、Sクラスは」
周囲へ向けた独り言にも、こちらへ聞かせるための言葉にも聞こえた。
「入学初日から、退屈する暇はなさそうだ」
その言葉が終わるより早く、教室の扉が開いた。
空気が変わった。
入ってきたのは、背の高い女性だった。
暗い髪を短く束ね、鋭い目をしている。
黒紺の教師服の上からでも、その身体が鍛えられていることは分かった。
歩き方に迷いがない。
戦ってきた者の歩き方だった。
ただ入ってきただけで、教室のざわめきが一段下がる。
「あれ、ザルティ教官じゃないか」
誰かが、小さく呟いた。
その声に、何人かが反応する。
「前線帰りの?」
「元軍人だっていう……」
「なんでシルンに?」
名を知っている生徒がいる。
それだけで、彼女がただの教師ではないことが伝わった。
女性は教壇へ向かわなかった。
中央の白石床まで進み、そこで足を止める。
俺たち30人を、まとめて見渡した。
「全員、席につけ」
短い声。
それだけで、散っていた生徒たちが一斉に動いた。
ミリアスも「あ、はーい」と慌てて席へ戻る。
ディムローも小走りで離れた。
ダルタスは、涼しい顔で席につく。
メルディは、静かに頭を下げてから戻った。
ルビアは、最初から席についていた。
女性教師は、全員が座るのを待ってから口を開く。
「ザルティだ」
名前を告げる声は低く、よく通った。
「このSクラスの担任を務める。元軍人だ。属性は風と土。クラス7」
教室の何人かが、わずかに息を呑んだ。
クラス7。
学生どころか、現役の一流魔法使いでも、簡単には届かない領域。
しかも、元軍人。
目の前の女教師が、ただの担任ではないことは、それだけで十分に伝わった。
「お前たちは、今日からSクラスだ」
ザルティは言った。
「だが、勘違いするな。Sクラスは褒美でも、将来の成功を保証する札でもない」
教室を見渡す視線が、ゆっくりと動く。
「王族だろうが、大貴族だろうが、天才と呼ばれていようが関係ない。ここに集められた理由はそれぞれ違う。だが、学院がお前たちを放っておくつもりがないという点だけは同じだ」
貴族の生徒が何人か、わずかに眉を動かした。
だが、誰も口を挟まない。
ザルティは、ほんの少しだけ口角を上げた。
「要するに、お前たちは全員、放っておくと何をするか分からない面倒な連中だ」
教室が静まり返った。
否定できる者は、あまりいないらしい。
「才能は嫌いじゃない」
ザルティは続ける。
「才能に甘える馬鹿は嫌いだ」
その一言で、空気がさらに引き締まった。
「この学院の授業は、基本的に選択式だ。必修科目はあるが、それ以外は自分で選べ。決闘魔法、魔導工学、治癒、結界、軍用戦術。そのほかにも選択肢はいくらでもある。好きに学べ。好きに迷え」
そこで、ザルティの目がわずかに細くなる。
「ただし、Sクラス特別演習だけは逃げられない」
誰かが、ごく小さく息を呑んだ。
「お前たちは個別に強い。だからこそ事故を起こす。自分の力も、扱う道具も分かっていない奴ほど危険なものはない。明日から、順番に確認していく」
明日。
その言葉に、教室の空気がわずかに変わった。
「戦い方を見る前に、まずお前たちが何を通して魔力を扱うのかを確認する」
ザルティは俺たちを見渡す。
「最初は、触媒適性だ」
杖。
触媒。
魔力を形にするための道具。
「杖、短杖、長杖、指輪、護符、魔導書、武器型触媒。学院には一通り揃っている。普通は杖を使うが、杖でなければならない決まりはない。片手剣と片手杖を使う魔法戦士もいれば、複数の触媒を使い分ける者もいる」
ザルティの視線が、一瞬だけ俺へ止まった。
「特に、魔力を持たない者が触媒庫で何に反応するのかは、学院にも前例が少ない」
教室中の視線が、遅れてこちらへ集まる。
「ユアン。お前自身も、何も起こらないと決めつけるな」
俺は、何も答えなかった。
ただ、ザルティの視線を受け止める。
「明日、お前たちは触媒庫に入る」
ザルティは、わずかに口角を上げた。
笑ったというより、こちらを試すような顔だった。
「杖に選ばれるか。自分から杖を選ぶか。それとも、杖とは別のものへ手を伸ばすのか。自分の目で確かめろ」
静かなざわめきが広がった。
ミリアスが、興味深そうにこちらを見る。
ディムローは、なぜか少しだけ目を輝かせていた。
メルディは、わずかに心配そうな表情を浮かべている。
ダルタスは、楽しそうに笑っていた。
そして、ルビアは。
赤い瞳で、静かにこちらを見ていた。
俺は小さく息を吐く。
魔法学園へ入った以上、いつかは通る話だ。
俺に扱える杖など、ないだろう。
魔力がない以上、普通の触媒に選ばれるとも思えない。
それでも、武器を触媒にする方法があるというなら、
双剣へ応用できる可能性はある。
左腕の奥には、まだあの赤い光を受けた時の重さが残っている。
今のままでは、次も間に合うとは限らない。
何も起こらないと決めつけるには、この学院はあまりにも広すぎた。
使えるものがあるなら、手に入れる。
ただ、それだけだ。
ザルティは、最後にもう一度俺たちを見渡した。
「ようこそ、Sクラスへ。明日から、お前たちの化けの皮を剥がしていく」
こうして、Sクラス最初の顔合わせは終わった。
次は、触媒庫。
何も起こらないと思っているのは、たぶん俺だけだった。




