第7話 最初の教室・前半
入学式が終わる頃には、講堂上空の名簿も、左袖に浮かんだ所属文字も消えていた。
それでも、誰がSクラスへ入ったのかという事実まで消えるわけではない。
「Sクラス所属者は、第1講義棟へ移動してください」
職員の声が響く。
王族級の家名。
各国の代表。
異常な才能。
そして、その中に混じる魔力0のユアン。
Sクラスに選ばれた30人が動き始めると、周囲から向けられる視線も一斉に動いた。そこには羨望や嫉妬、好奇心、警戒が入り交じり、
その中には明らかに納得していない目もあった。
当然だ。
俺だって、納得していない。
魔力なし。
属性なし。
検査陣には何も映らない。
そんな人間が、よりによってSクラス。
学院が何を考えているのか、俺にも正確には分からなかった。
いや。
分からない、というのは少し違う。
おそらく、純粋な成績だけで選ばれたわけではない。
試験場での動きを評価されたのか。
観察しやすい場所へ置かれたのか。
あるいは、その両方か。
王家の意向がどこまで関わっているのかも分からない。
学院が独自に判断した可能性もある。
どちらにせよ、面倒なことに変わりはなかった。
俺は周囲の視線を受け流しながら、第1講義棟へ向かおうとした。
その時、ふと壇上の方角から視線を感じる。
「……っ」
思わず、息が止まった。
威圧されたわけではない。
殺気を向けられたわけでもない。
それなのに、身体の奥が勝手に警鐘を鳴らしている。
そこにいるものの密度が違う。
同じ人間の形をしているはずなのに、
こちらと同じ高さに立っているようには思えなかった。
学長が、俺を見ていた。
肩にかかる紫の髪。
若すぎる顔。
穏やかな笑み。
だが、その目だけは、俺の奥まで測るように静かだった。
ほんの一瞬。
俺と学長の視線が重なる。
あれは確認か。
許可か。
それとも、その両方か。
分からない。
ただ、分かったことが1つだけある。
あの男は、危険だ。
敵意があるからではない。
強すぎるからだ。
クラス9。
人類の限界に限りなく近い領域へ立つ者。
数字として知っていたはずの存在が、たった1度の視線で現実へ変わった。
次の瞬間、学長は何事もなかったように、近くの教師へ顔を向けていた。
俺は小さく息を吐く。
学長自身が、俺をここへ置く判断に関わっている。
確証はない。だが、そう考えた方が自然だった。
第1講義棟へ続く白石の廊下は、外から眺めていた以上に入り組んでいた。
頭上では空中回廊が幾重にも交差し、
窓の向こうを別学年の生徒や小型の魔導艇が行き交っている。
黒紺の制服に銀白の縁取り。
同じ制服を着ていても、上級生たちは歩調からして新入生とは違った。
周囲を見回すこともなく、複雑に分かれた通路を当然のように進んでいく。
入学式では、巨大な学院だと思った。
内側へ入ってみれば、学院というより、1つの都市に近い。
この制服を着ているだけで、学院の外では羨望を向けられるのだろう。
けれど、この場所では、それが当たり前になる。
そういう場所らしい。
第1講義棟の奥。
職員に案内された先にあったのは、通常の教室というより、
小さな演習場に近い部屋だった。
扉が開く。
最初に目へ入ったのは、中央に広がる白石の床だった。
一般的な机が整然と並んでいるわけではない。
半円形に段差のついた座席が中央の空間を囲み、
壁には防護術式らしき線が何重にも刻まれている。
天井付近には投影用と思われる魔導具があり、
床の四隅にも用途の分からない小さな紋様が刻まれていた。
正確な役割までは分からない。
だが、壁を覆う防護術式を見れば、
座学だけに使う部屋ではないことくらいは理解できた。
「……なるほど」
思わず声が漏れる。
Sクラス。
名前だけではない。
最初から、普通の教室とは扱いが違う。
俺が席を探している間にも、Sクラスの新入生たちは、
それぞれ好きな場所へ座り始めていた。
30人。
数だけを見れば少ない。
だが、空気は濃かった。
誰もが、魔力量や属性、血統魔法、実績、将来性のいずれかを持っている。
あるいは、もっと面倒な何か。
普通なら1人いるだけで場の中心になるような人間が、
同じ部屋へ30人も集められている。
それだけで、教室の空気がわずかに重く感じられた。
ルビア・フォルテアは、中央から少し外れた席にいた。
最も目立つ場所ではない。
けれど、決して人の中へ沈む場所でもない。
白石の教室の中で、そこだけ空気が澄んでいるように見えた。
隣には誰もいない。
空席があるのに、誰も彼女の横へ座ろうとはしなかった。
周囲から切り離されているのではない。
誰も、彼女の隣へ踏み込めずにいる。
その空白さえ、彼女を1輪の花のように際立たせていた。
孤立ではない。
孤高。
そんな言葉が、ひどく似合う姿だった。
長い銀髪が深紺の制服の上へ流れ、
伏し目がちな赤い瞳は、まだ誰にも感情を渡していない。
入学式では、その制服を着た彼女の美しさに目を奪われた。
今は、それ以上に、教室の中で誰にも寄りかからず座る姿が目に残る。
近づきがたい。
触れれば切れそうなほど、美しい。
それでも、ただ冷たいだけではない。
誰にも近づかせないほど気高く見えるのに、
俺には、その隣の空白がどこか寂しくも見えた。
俺がそう思いたいだけなのかもしれない。
ルビアの視線が、一瞬だけこちらへ向いた。
赤い瞳。
俺は、息を止めかける。
ルビアの唇が、ほんのわずかに動いた。
何かを言うのかと思った。
だが次の瞬間、赤い瞳がわずかに細くなる。
睨まれた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
理由は分からない。
試験場で余計なことをしたからか。
意味の分からない言葉を口にしたからか。
それとも、魔力もない俺がSクラスへ入ったこと自体が気に入らないのか。
どれも心当たりがありすぎて、逆に分からなかった。
ルビアは、何も言わないまま視線を外した。
当然だ。
ここで俺へ話しかける理由などない。
今の彼女にとって、俺はまだ、
試験場で突然割り込んできた意味不明な受験生でしかない。
それでいい。
今は、それでいい。
少なくとも、そう思うしかなかった。
一方で、教室の空気をまるで気にしていない少女もいた。
「へえ、すごいね。ここ、教室っていうより演習場じゃん」
明るい声。
ミリアス・セレネだった。
顎の下で軽く揺れるピンク色の髪。
同じ色の瞳。
小柄な身体に、黒紺の制服が少しだけ大人びて見える。
彼女の周囲には、すでに何人かの生徒が集まっていた。
4属性に恵まれた、祝福の天才少女。
水、風、雷、土。
少なくとも、ここにいる者の多くが、彼女の名と才能を知っているらしい。
それでも、ミリアス自身の雰囲気は重くなかった。
人懐っこく笑いながら、周囲から投げかけられる質問に、次々と答えている。
「4属性って、同時に使えるの?」
「うん、切り替えるのはできるよ。水の次は風が合いそう、とか、土で止めた後は雷が通りそう、とか。考える前に分かる感じかな」
「それを普通に言うのがすごいんだけど」
「あはは、そうかな。やってみたら意外とできるかも」
明るく、軽やかで、本当に魔法を楽しんでいるように見えた。
彼女が笑うだけで、周囲の空気も少し柔らかくなる。
少なくとも、ルビアとは正反対だ。
炎を抱えて静かに立つ少女と、複数の属性を楽しそうに転がす少女。
世界は、どちらも天才と呼ぶのだろう。
その違いを、どれほど見ているかは別として。
教室の別の一角には、自然と人を集めている男がいた。
ダルタス・エルヴェイグ。
茶色の髪。
黒い瞳。
背は高く、制服の直線的な形がよく似合っている。
帝国代表。
その肩書きだけでも、警戒する理由としては十分だった。
ディアクラウン王国とエルヴェイグ帝国は、表向きこそ大きな戦争を避けている。
だが国境も、交易も、魔導資源も、互いに一歩も譲る気はない。
冷戦状態に近い両国の一方から、代表として送り込まれた男。
目立たないはずがなかった。
それでも、ダルタスの周囲には妙な柔らかさがある。
「そんなに畏まらなくていい。ここでは同じ新入生だろ」
ダルタスは爽やかに笑っていた。
声の置き方が上手い。
相手を立てる言葉も、距離の詰め方も、自然すぎるほど自然だった。
「君はグランディ魔導士官学校の系統を学んでいたのか?」
「はい。地元の教官が、あちらの卒業生で」
「それなら軍用魔法にも詳しいんだな。君と同じクラスで助かったよ」
「いえ、私なんて、まだ……」
「その謙遜でSクラスか。僕も気を引き締めないといけないな」
相手が笑う。
周囲の空気が緩む。
ダルタスはその中心にいるのに、中心を奪っているようには見せない。
あれは、人に好かれる方法を知っている。
誰へどんな言葉を置けば、相手が自分から距離を縮めてくるのか。
少なくとも、目の前の男はそれを感覚だけではなく、
意識して選んでいるように見えた。
誰かと会話を続けながら、黒い瞳だけが一度、こちらへ向く。
偶然の視線にしては、少し長かった。
俺も目を逸らさない。
数秒にも満たない時間。
ダルタスは何事もなかったように、再び隣の生徒へ笑いかけた。
まだ敵ではない。
味方でもない。
だが、帝国代表という肩書きを抜きにしても、油断はしない方がいい。
そう思わせる男だった。
さらに少し離れた席には、柔らかな空気を纏う少女がいた。
メルディ・トリステア。
金髪。
青い瞳。
腰の上まで届く長い髪は、陽の光を含んだように淡く輝いている。
同じ金髪でも、イリス王女の冷たい金とは違う。
メルディの金は、もっと柔らかい。
人を拒む輝きではなく、近づく者を安心させる色だった。
トリステア聖邦から送り出された聖女。
その肩書きもあってか、彼女の周囲にも人が集まっている。
だが、ダルタスの周りとは空気が違った。
ダルタスの周囲へは、人が引き寄せられている。
メルディの周囲へは、人が休みに来ている。
そんな感じだった。
「緊張していますか?」
メルディが、近くの女子生徒へ柔らかく声をかける。
「え、あ……少し」
「大丈夫です。ここにいる時点で、あなたは十分に選ばれています。無理に強く見せようとしなくてもいいと思います」
「ありがとうございます……」
おっとりとした声。
けれど、言葉の芯はぶれていない。
ただ優しいだけではなく、
人の痛みに何度も触れてきた者の声のように聞こえた。
その視線が、ふとこちらへ向く。
一瞬だけ、俺の左腕の辺りで止まったように見えた。
制服の下に隠した包帯が見えるはずはない。
偶然かもしれない。
それでも、メルディはほんの少しだけ眉を下げた。
俺は無意識に、左腕を身体の陰へ隠す。
聖女という肩書きは、伊達ではないのかもしれない。
そして最後に。
落ち着きなく、こちらを見たり逸らしたりしている赤髪の少年がいた。
ディムロー。
短い赤髪。
茶色の瞳。
小柄だが、視線だけはやけに忙しい。
俺の顔や左腕、腰に吊るした双剣を見たかと思えば、
次には教室の壁に刻まれた術式や、天井の投影魔導具、
床の紋様へ視線を移している。
見るものが多すぎて、本人の処理が追いついていないようだった。
「……やっぱり、普通の長剣にしては背の面が広すぎる。短剣も斬るためだけの形じゃないし、あの角度で……いや、でも聞くのは変か。いや、聞かない方が変じゃないか?」
ぶつぶつと呟いている。
完全に聞こえている。
隣に座っていた生徒が、わずかに距離を取った。
ディムローは気づいていない。
技術の話になると、周囲が見えなくなる。
本当に分かりやすい。
俺は、そっと目を逸らした。
今、目を合わせたら終わる気がした。
絶対に剣の話をされる。
悪い奴ではない。
たぶん。
だが、面倒な予感しかしない。
俺は、なるべく目立たない席を探した。
人の流れから外れた場所。
ルビアから遠すぎず、近すぎない場所。
そう考えた時点で、自分でも少し嫌になる。
結局、俺は空いていた後方寄りの席へ向かった。
だが、腰を下ろすより早く、明るい声が飛んでくる。
「あっ!」
ミリアス・セレネが、こちらを見ていた。
ピンク色の瞳が、ぱっと輝く。
「ユアンくんだよね? 試験場の人!」
教室中の視線が、またこちらへ集まった。
俺は、内心でため息をつく。
今日も、どうやら静かには始まらないらしい。




