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第55話 旧ネレイス迷宮・崩れる戦線

 巨獣が低く唸った。


 焼けた肩口の下に育った暗い殻が、携帯灯の光を鈍く返している。先ほど炎が通った場所は、もう同じ傷口ではなかった。


 ルビアは長杖を構えたまま、息を細く吐く。


 同じ場所を焼いても、深くは通らない。


 その事実を理解するより早く、身体は次の狙いを探していた。厚くなった場所を避け、まだ変わっていない部分を削るしかない。


「同じ場所は狙わないわ」


 ルビアは短く告げた。


「オルバン、正面から受け止めないで。動きをずらすのよ。ネフィラは、動き出す前の風だけ見て」


「分かりました」


「はい」


 返事はあった。けれど、2人の声には先ほどよりも硬さが混じっていた。


 当然だった。


 3人で倒したはずのものが、立ち上がっている。通ったはずの炎が、通らなくなっている。怖くないはずがなかった。


 それでも、2人は杖を構え直した。


 巨獣の前脚が床を掻く。


 今度は、すぐには突っ込んでこなかった。赤黒い目が、ルビアからオルバンへ、オルバンからネフィラへと動く。


 見ている。


 ただ暴れているのではない。


 そのことに気づいた瞬間、ネフィラの背筋が冷えた。


「……来ます」


 ネフィラが杖を握り直す。巨獣の周囲で空気が沈み、踏み出す直前のわずかな流れが彼女の手元に返ってきた。


「少し横にずれます!」


「オルバン!」


 ルビアの声と同時に、オルバンが杖を振った。


 巨獣の足元に低い壁がせり上がる。受け止めるためではない。踏み込む場所を奪い、巨体の向きを乱すための壁だった。


 巨獣が動く。


 踏み出した前脚が壁にぶつかり、巨体の重心がわずかに崩れた。


 その一瞬を、ルビアは逃さなかった。


 圧縮した炎が、まだ黒く変わっていない脚の関節に突き刺さる。硬い殻の隙間で火が爆ぜ、巨獣の身体が低く沈んだ。


 効いた。


 だが、倒れない。


 巨獣は崩れた姿勢のまま、無理やり前脚を振り抜いた。足元の壁が砕け、飛び散った石がネフィラの足元を叩く。


「ネフィラ、下がって!」


 ルビアが叫ぶより早く、ネフィラは後ろへ跳んでいた。


 だが、風を読むために意識を前に伸ばしていた分、動きが遅れた。小さな石片が頬を掠め、細い血が1筋流れる。


 それでもネフィラは杖を下ろさなかった。


「次、また来ます!」


 声は震えていた。


 けれど、報告は途切れなかった。


 オルバンが次の壁を作る。ルビアはその壁に足を取られた巨獣の脚を炎で撃った。


 3人はまだ戦えている。


 動きを読み、進路をずらし、厚くなっていない場所を炎で削る。先ほどまでと同じ形ではない。巨獣が変わったなら、こちらも変えるしかなかった。


 だが、怪物はそれすら見ていた。


 低く身を沈めた巨獣の目が、再びネフィラを捉える。


 風を読む少女。


 動き出す前に、こちらの攻撃を告げる声。


 それが邪魔だと、理解したかのように。


 巨獣の後脚が床を削った。


「ネフィラ!」


 ルビアが長杖を向ける。


 だが、巨獣が踏み出した先は、ルビアでもオルバンでもなかった。


 一直線に、ネフィラへ向かっていた。


「ネフィラ、下がって!」


 言い終えるより早く、巨獣が身を沈めた。


 ルビアは長杖を振る。狙ったのは、踏み出そうとする前脚ではなく、巨獣の肩口だった。身体ごと横に押し、進路をネフィラから逸らすための一撃。


 炎は当たった。


 硬い殻の表面が焼け、巨獣の肩がわずかに跳ねる。


 だが、巨体は止まらなかった。


 焼かれた肩をそのまま前に押し出し、ルビアとオルバンの間合いをまとめて踏み潰そうとする。


「オルバン!」


「分かっています!」


 オルバンが杖を床に叩きつけた。


 ネフィラの前で、岩の壁がせり上がる。だが、作り切るより早く、巨獣の前脚が壁に叩き込まれた。


 厚い岩壁が、音を立ててひび割れる。


 オルバンの身体が大きく揺れた。


 防壁を作るだけなら、まだ耐えられた。だが今は、壊されかけた壁をその場で押し戻し、崩れた部分に新しい土を重ね続けなければならない。


 受け止めるのではなく、進路をずらす。


 そう言われていた。


 それでも、ネフィラの前に壁を置かなければ、間に合わなかった。


 自分の壁が薄いことは、オルバン自身が誰よりもよく分かっている。


 それでも、そこに壁がなければ、次に砕かれるのは岩ではない。


 巨獣が壁を叩いた衝撃で、床に積もっていた砂と砕けた石が一気に跳ね上がる。


 風が乱れた。


 いつもなら読めるはずの流れが、ばらばらに裂ける。巨獣の息も、土煙も、砕けた岩の破片も、全部が一度に押し寄せてきた。


「見え、ません……!」


 ネフィラの声が詰まる。


 その一瞬で、巨獣の前脚が壁の上から振り下ろされた。


 オルバンは防壁を高くする。


 間に合った。


 だが、完全には受け切れなかった。


 前脚が岩壁の上端を砕き、飛び散った破片がオルバンの肩と腕を打つ。彼女は息を呑み、杖を握る手にさらに力を込めた。


「まだ、崩しません……!」


 防壁が再び持ち上がる。


 ルビアはその横から長杖を向けた。


 ネフィラを狙うなら、こちらを見ない。防壁を砕こうとするなら、脚は止まる。


 その隙だけを撃つ。


 圧縮した炎が、巨獣の前脚の内側を焼いた。黒く変わっていない部分を選んだ一撃だった。


 巨獣の身体がわずかに引く。


 オルバンがその瞬間を逃さず、壁を斜めに押し出した。正面から支えるのではなく、巨体を横に流す。


 ようやく、巨獣の進路がネフィラから外れた。


 ネフィラは咳き込みながらも、杖を持ち直す。


「……風を、戻します」


「無理しないで」


 ルビアは敵を見たまま言った。


「まだ、やります」


 ネフィラは袖で頬の血を拭った。灰色の土埃が髪に絡み、声は掠れている。


「それに、私が見ないと、次が分かりません」


 それは強がりではなかった。


 怖くないわけでもない。


 それでも、ネフィラが風を止めれば、巨獣が次に誰を狙うのか分からなくなる。分からなければ、オルバンは防壁を置く場所を選べない。ルビアも、撃つべき隙を見つけられない。


 だから、彼女はもう一度風を広げた。


 オルバンも壁の後ろで膝をつきかけ、すぐに踏みとどまる。


 肩に当たった石片の痛みは残っていた。両腕の痺れも強くなっている。だが、防壁を消せば、巨獣はまたネフィラを狙う。


 だから、消せなかった。


 巨獣は壁の向こうで低く唸った。


 ネフィラを仕留め損ねたことに怒っているのか、それとも次の手を探しているのかは分からない。


 ただ、その赤黒い目は、もう偶然に3人を見ているわけではなかった。


 誰が動きを読んでいるのか。


 誰が進路を塞いでいるのか。


 誰の炎が傷を作っているのか。


 まるで、1つずつ覚えているかのように。


 ルビアは長杖を握り直した。


 同じ戦い方を続ければ、次はもっと深く削られる。


 最初に崩れたのは、防壁ではなかった。


 巨獣が、壁ではなく足元を叩いた。


 重い衝撃が床を走り、砂と砕けた石が一気に跳ね上がる。オルバンの防壁は正面からの攻撃には耐えていた。だが、支えている床そのものを揺らされれば、壁だけを保てばいいわけではなくなる。


 防壁を支える。


 足場を固める。


 崩れかけた床をつなぎ止める。


 本来なら1つずつ処理するべきものを、オルバンは同時に押さえ込んだ。


「まだ、持ちます……!」


 声は苦しかった。


 それでも、彼女は杖を離さなかった。


 ルビアは防壁の横から炎を撃つ。狙いは外れていない。黒く覆われていない場所を選び、確かに傷を作っている。


 だが、巨獣は止まらなかった。


 痛みを無視するように壁を叩き、床を揺らし、土煙を巻き上げる。ネフィラの風は、そのたびに乱された。


「全部見ようとしないで!」


「分かって、います……!」


 ネフィラは唇を噛んだ。


 分かっていても、見なければ次が読めない。けれど、見ようとするほど、乱れた風が頭の中に押し寄せてくる。


 巨獣の息。


 砕けた石。


 揺れる床。


 叩きつけられる前脚。


 あまりにも多すぎる情報の中から、ネフィラは次の一撃だけを拾おうとしていた。


「上です!」


 ネフィラが叫ぶ。


 オルバンが防壁を持ち上げ、ルビアが炎を撃った。


 炎は硬い殻の隙間で爆ぜ、巨獣の前脚をわずかに横へ弾いたが、勢いまでは殺しきれなかった。


 巨獣の前脚が防壁の上端を削り取り、砕けた岩が雨のように降り注ぐ。オルバンは杖を掲げたまま破片を受け、肩が大きく跳ねた。


 ネフィラの風が、降ってくる破片を横へ払う。


 そのおかげで、ルビアには当たらなかった。


 だが、ネフィラ自身の反応が遅れた。


 避け切れなかった石片が額を掠め、続けて肩を打つ。ネフィラの身体が後ろに倒れ、床に片膝をついた。


「ネフィラ!」


 ルビアは駆け寄ろうとした。


 だが、巨獣がそれを許さない。


 割れた防壁の向こうから、赤黒い目が覗いている。次に潰すべき相手を、もう決めている目だった。


 オルバンが最後の力で杖を突き出す。


 崩れかけた壁の根元から、新しい岩がせり上がった。薄く、歪で、いつもの彼女の防壁にはほど遠い。


 それでも、巨獣の前脚を一瞬だけ止めた。


「今、です……!」


 声は掠れていた。


 ルビアは迷わなかった。


 圧縮した炎を、巨獣の顔の横へ撃ち込む。倒すためではない。視線を逸らし、次の一歩を止めるための炎だった。


 撃った直後、杖を握る指先に、抜けきらない熱が残った。


 それでも、ルビアは走った。


 巨獣の頭が揺れる。


 ほんの一瞬だけ、ネフィラから視線が外れた。


 ルビアはその隙にネフィラの前へ走った。


 背後で、オルバンの防壁が崩れる音がした。


 オルバンは杖を支えにして膝をつき、荒く息を吐いている。立ち上がろうとしても、腕に力が入っていなかった。


 ネフィラも床に片膝をついたまま、震える手で杖を握っていた。風はまだ動いている。けれど、先ほどまでのように広くは伸びない。


「まだ……見ます」


「もういい」


 ルビアは振り返らなかった。


「2人とも、下がって」


 短い命令だった。


 だが、今度ばかりは、2人ともすぐには返事ができなかった。


 巨獣が、割れた壁の向こうから身を乗り出す。


 焼けた場所には新しい殻が育ち、砕かれた防壁の破片が床に転がっていた。3人で作った戦線は、もう形を保っていない。


 ルビアは長杖を両手で握り、オルバンとネフィラの前に立った。


 杖を握る指先が熱い。


 その熱が、手首までじりじりと広がっていた。


 それでも、退く場所はなかった。


「ここから先には、行かせない」


 巨獣が低く唸る。


 その前に立っているのは、銀髪の毛先を薔薇色へ染め始めた、ルビア1人だけだった。


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