第54話 旧ネレイス迷宮・燃え残るもの
土煙の奥で、巨大な影が動いた。床を踏みしめる重い音が響き、空洞全体がかすかに震える。砕けた岩の欠片が影の周囲から転がり落ち、乾いた音を立てた。
ネフィラは杖を胸元に抱えたまま、動けずにいた。
風を通して周囲を探ってきた彼女には、土煙の向こうにあるものが、目で見るよりも先に伝わっていた。あまりにも大きい。吐き出される息だけで空気の流れが乱れ、弱く送った風が触れる前に押し返されている。
オルバンも、杖を握ったまま固まっていた。
空洞奥の岩壁は、彼女が時間をかけても簡単には崩せない厚さだった。その岩を、目の前の何かは内側から一度に砕いて現れた。
自分の防壁で止められるのか。
その疑問が浮かんだ瞬間、足が動かなくなった。
ルビアにも、恐怖がなかったわけではない。長杖を握る手には汗が滲み、心臓は胸の内側を強く叩いている。影が次に一歩踏み出せば、3人との距離は一気に縮まるだろう。
それでも、ルビアは動いた。
考えるより先に長杖を持ち上げ、土煙の中央に杖先を向ける。杖先に灯った火は細く圧縮され、1本の鋭い光となって暗闇を貫いた。
炎が土煙を切り裂き、巨大な影の肩口に直撃する。
爆ぜた火が灰色の煙を赤く染め、衝撃に押された巨体がわずかに傾いた。低い唸り声が空洞を震わせる。
その一撃で、止まっていた時間が動き出した。
「いつまで固まっているの」
ルビアは敵から目を離さないまま言った。
「オルバン、防壁。ネフィラは風で土煙を払って。次が来るわ」
励ます言葉ではなかった。恐怖を忘れろとも、大丈夫だとも言わなかった。ただ、今やるべきことだけを命じた。
だからこそ、2人の身体は再び動いた。
「……分かりました!」
オルバンが杖を床に突き立てると、3人の前で岩がせり上がった。最初の土壁はわずかに斜めへ流れ、オルバンは息を呑むように杖を握り直す。
次の瞬間、崩れかけた端に新たな土が重なり、厚い防壁が形を整えた。
ネフィラも息を吸い直し、震えていた指を杖に沿わせる。
「風を、送ります!」
声は少し上ずっていた。それでも、風は3人の左右から吹き抜け、空洞の奥に流れ込んだ。
立ちこめていた土煙が引き裂かれ、巨大な影の輪郭が少しずつ露わになっていく。
4本の脚で床を捉えた、獣に近い姿。前脚だけが異様に太く、岩を砕いた黒い鉤爪が並んでいる。背中から肩にかけては硬い殻のようなものが不規則に盛り上がり、左右で身体の形すら揃っていなかった。
巨体が前半身を持ち上げる。
胸元では、肉と硬い殻が幾重にも絡み合っていた。その奥で、水晶のようなにぶい光が一瞬だけ揺れる。
だが、巨獣が身体を沈めると、その光はすぐに歪な殻の奥へ隠れてしまった。
生き物の形をしている。だが、自然に生まれたものとは思えないほど、その身体は歪んでいた。
ルビアの炎を受けた肩口から煙が上がっている。それでも巨獣は倒れず、赤黒い目を3人に向けた。
その視線を受けても、今度は誰も動きを止めなかった。
第6班は、ようやく戦うための形を取り戻していた。
巨獣が前脚を床に叩きつけた。
重い衝撃が空洞を走り、岩の破片が跳ね上がる。続けて巨体が沈み込み、3人に向かって一気に踏み出した。
「来ます!」
ネフィラの声が響く。
風を通して動きの兆しを読んでいた彼女だけが、巨獣が動き出すよりわずかに早く反応できた。声にはまだ震えが残っていたが、伝えるべき方向だけは間違えていない。
「オルバン、正面を塞いで!」
ルビアの指示と同時に、オルバンが杖を振り上げる。
巨獣の進路に沿って床が盛り上がり、分厚い岩壁に変わった。左右には狭い隙間だけを残し、巨体が正面から突き抜けられない形に整えられている。
巨獣は速度を落とさなかった。頭部を低くしたまま岩壁に激突し、空洞を震わせる轟音とともに、その中央を大きく陥没させる。
オルバンの両腕に衝撃が返った。杖を支える足が床を滑り、身体がわずかに後ろに押される。
だが、岩壁は崩れなかった。
「持たせます!」
オルバンが奥歯を噛み締め、亀裂が走った箇所に新たな土を重ねる。杖を握る指は白くなっていた。それでも、崩れかけた壁は形を失わなかった。
正面を塞がれた巨獣は、身体を捻って右側の隙間に向かおうとした。
「右に抜けます!」
ネフィラが杖を振る。
横から吹きつけた風が土煙を払い、巨獣の頭部と前脚を露わにした。敵を押し戻すためではない。動こうとする方向を、ルビアに伝えるための風だった。
ルビアはすでに長杖を向けている。
巨獣が右に踏み出した瞬間、圧縮した炎が前脚の付け根を撃ち抜いた。
焼けた殻が弾け、巨体が大きく傾く。
その隙を逃さず、オルバンが岩壁の右端をさらにせり上げた。進路を塞がれた巨獣は足を取られ、肩から床に倒れ込む。
空洞全体が揺れた。
「ネフィラ、視界を開いて!」
「はい!」
風が倒れた巨獣の周囲に渦巻き、土煙と砕けた石を外側に押し流す。
敵の姿が、今度ははっきりと見えた。
背中を覆う硬い殻は部分ごとに厚さが違い、左肩だけが不自然に膨れ上がっている。首から胸にかけては肉と殻が絡み合い、胸元の奥には、先ほど一瞬だけ見えたにぶい光がほとんど埋もれていた。
左右で形の違う身体。
無理に1つに繋ぎ合わされたような輪郭。
ルビアは、その姿を理解しようとはしなかった。
今は、倒すことだけを考えればいい。
「どきなさい」
オルバンとネフィラが、ルビアの射線から外れる。
長杖の先に炎が集まった。最初の一撃よりも大きく、熱は狭い範囲に押し込められていく。赤い光が杖先で脈打ち、周囲の空気が歪んだ。
巨獣が頭を持ち上げる。
だが、立ち上がるより先に、ルビアの炎が放たれた。
火柱が巨獣の肩から胸元を呑み込み、硬い殻を赤く染める。低い咆哮が空洞を満たし、巨体が床の上で激しく身を捩った。
ネフィラの風が炎を逃がさず、オルバンの岩壁が退路を塞ぐ。
3人の魔法は互いを邪魔することなく、1つの攻撃として巨獣に叩き込まれていた。
やがて咆哮が途切れ、巨獣の身体から力が抜ける。
炎が収まった後、黒く焼けた巨体は動かなかった。
倒したのかもしれない。
その考えが、3人の間に一瞬だけ落ちた。誰も口にはしなかった。口にした途端、その小さな希望まで砕けてしまいそうだった。
誰も、すぐには動かなかった。
焼け焦げた巨体からは黒い煙が立ち昇り、熱を帯びた殻が小さな音を立てて割れている。先ほどまで空洞を震わせていた呼吸も、咆哮も聞こえなかった。
ネフィラが慎重に風を送った。
炎の名残を避けながら巨獣の周囲を巡った風は、身体の動きも、息遣いも拾わずに戻ってくる。
「……動いていません」
その声を聞いても、ルビアは長杖を下ろさなかった。
「まだ近づかないで」
オルバンも頷き、傷ついた岩壁を維持したまま巨獣を見つめていた。正面から突進を受け止めた両腕は痺れ、杖を握る指にも痛みが残っている。それでも、防壁を解くほど気を緩めるつもりはなかった。
3人とも、できることはした。
敵の動きを読み、進路を塞ぎ、倒れた場所に炎を集中させた。学院の実習で遭遇する魔獣なら、それどころか、より危険な相手であっても決着していたはずだった。
だが、焼けた巨体の奥で、湿った音がした。
ルビアの目が細くなる。
「ネフィラ」
「はい。今、何か――」
黒く炭化した前脚が、わずかに痙攣した。
割れた殻の隙間から赤黒い肉が盛り上がり、抉れていた傷口を内側から押し戻していく。焼け落ちたはずの組織が絡み合い、歪な形を作りながら塞がっていった。
「再生、している……?」
オルバンの声が掠れた。
答える者はいなかった。
巨獣の前脚が床を掻く。
一度。
続けて、もう一度。
巨体がゆっくりと持ち上がり、焼け崩れていた殻が床に落ちた。その下から現れた新しい表面は、先ほどまでのものより暗く、厚い。
巨獣が顔を上げる。
赤黒い目は、真っすぐルビアを捉えていた。
「下がって!」
ルビアは杖先を向け、間を置かずに炎を放った。
先ほど前脚を撃ち抜いたものと同じ、細く圧縮した炎だった。
炎は狙いどおり肩口に直撃する。
だが、今度は殻を貫かなかった。
表面を赤く焼き、わずかな亀裂を作っただけで、炎は左右に弾けて消える。
巨獣は一歩も退かなかった。
ネフィラが息を呑み、オルバンの顔から血の気が引いた。
同じ場所に、同じ炎を当てた。
それなのに、結果が違っている。
焼けた場所の下で、新しい硬い殻が育っていた。先ほど傷つけたはずの部分だけが、前よりも厚く、暗く変わっている。
巨獣は低く身を沈め、再び4本の脚に力を込める。
床に深い爪痕が刻まれた。
3人の連携は間違っていなかった。
攻撃も、確かに通っていた。
それでも、目の前の怪物は、その正しさごと踏みにじるように立ち上がった。




