第53話 旧ネレイス迷宮・消えた帰路
オルバンとネフィラが記録を終えるまで、ルビアは入口と空洞の奥を交互に見ていた。
暗闇から、魔獣の声や足音は聞こえない。だが、地図にない空間で必要以上に留まる理由はなかった。
「戻るわよ」
2人が記録板を収めたのを確かめ、ルビアは来た道に向き直った。
第6班は周囲を警戒しながら、空洞の入口まで引き返した。進んだのは10数歩ほどにすぎず、やがて壁に刻んだ印が携帯灯の光に浮かび上がった。
第6班を示す3本の線。その下には、戻る通路を指す矢印も残っている。
しかし、矢印の先に通路はなかった。携帯灯の光を鈍く返す岩壁が、床から天井まで隙間なく続いている。
ルビアは足を止めた。
「……ここで合っています」
オルバンが記録板と壁の印を見比べた。声には、先ほどまでなかった硬さが混じっていた。
「私が刻んだ印です。場所を間違えたわけではありません」
ルビアにも分かっていた。矢印の向きも、周囲の岩の形も、空洞に入る前と変わらない。
変わったのは、通路だけだった。
「崩れたのか調べて」
「分かりました」
オルバンは岩壁の前に膝をつき、携帯灯を床近くまで下げた。崩れた岩や砂は落ちておらず、壁と床の境目にも、何かが積み重なった跡はない。
杖の石突きで数か所を軽く叩いたが、返ってきたのは、どこも同じ硬い音だった。
「崩落ではありません。少なくとも、岩が積み重なって塞がったわけではないです」
「ネフィラ」
「はい」
ネフィラが岩壁に沿って細い風を流した。
風は壁の表面を撫でて左右に分かれ、亀裂や隙間に吸い込まれることもなく、そのまま空洞側に戻ってきた。
「……通り抜けられる隙間はありません」
通路が塞がれたのではない。最初から存在しなかったように、岩壁に置き換わっていた。
ルビアは素早く胸元から救難術式具を取り出した。
「救難信号を送るわ」
中央の結晶に指を置き、術式を作動させる。
青く明滅していた光が強まり、結晶の周囲に刻まれた術式が赤く灯った。信号は作動していたが、観測室が受け取ったことを示す返答は戻ってこなかった。
ルビアはしばらく待ち、もう一度術式具を操作した。
結果は変わらない。送信を示す赤い光だけが、一定の間隔で明滅を繰り返していた。
「届いていないのでしょうか」
ネフィラが不安そうに術式具を見つめた。
「分からない。少なくとも、受け取ったという返事は来ていないわ」
ルビアは覆いを開き、簡易図も確認した。
第6班の光点は、変わらず許可区画の内側にあった。観測室との接続を示す青い光も消えていない。
正常だと示す情報と、目の前の光景が何一つ噛み合っていない。それでも、ここで立ち尽くしているわけにはいかなかった。
「オルバンは、壁の厚さと周囲に別の亀裂がないか調べて。ネフィラは空気の流れを確認しなさい。ただし、2人とも通路があった場所から離れないで」
「分かりました」
「はい」
ルビアは救難術式具を胸元の鞄に戻した。布越しにも、送信を示す赤い光は明滅を続けている。
オルバンは岩壁に杖先を当て、土属性の魔力を静かに流し込んだ。
杖を通して伝わった振動が、岩の内部に広がっていく。しばらく目を閉じていたオルバンは、やがて小さく首を横に振った。
「少なくとも、すぐ向こうに空洞はありません。私が調べられる範囲より奥まで、岩が続いています」
「壊せそう?」
「時間をかければ削れるかもしれません。ただ、厚さが分からない以上、今すぐ通路を開けられるとは言えません」
無理に崩せば、天井や足元まで巻き込む可能性がある。出口を開くつもりが、自分たちの立つ場所まで崩してしまえば意味がなかった。
「周囲は?」
「調べます」
オルバンは、通路があった場所から左右に移動し、杖先で岩の継ぎ目を確かめていった。ルビアとネフィラの姿が見える範囲からは離れていない。
ネフィラも空洞に向けて風を送り、壁際や床の近くに流れを分けていった。風は広い空間に散り、一部だけが弱く戻ってきた。
「外に通じている流れは見つかりません。空気は動いていますが、この空洞の中を巡っているだけだと思います」
「奥から入ってきている可能性は?」
「分かりません。広すぎて、そこまでは届きません」
胸元では赤い光が明滅を続けていたが、受信確認は返らない。
救援を待って動かないわけにもいかない。だが、出口があるかも分からない空洞の奥に進めば、救援と行き違う可能性がある。
「今いる場所を基準にして、見える範囲だけ調べるわ。別の道が見つからなければ、壁を開ける方法を考える」
「はい」
「分かりました」
オルバンは岩壁の直線や亀裂を記録し、ネフィラは風が戻ってきた方向を書き加えていった。
ルビアも空洞の奥に携帯灯を向けた。
遠くに並んでいた石柱のような影は、先ほどと変わらない。明かりを動かしても、見えるのは欠けた輪郭の一部だけだった。その向こうには、さらに深い暗闇が広がっている。
通路が消えた原因も、この空洞がいつから存在していたのかも分からない。考えても、判断するための情報が足りなかった。
ルビアは焦りを押し込み、もう一度、入口周辺の岩壁を見渡した。
その時だった。
足元から、かすかな振動が伝わった。ルビアの手にある携帯灯も震え、その光が岩壁の上で小さく揺れる。
「……何?」
ネフィラが風を止めた。
オルバンも壁から杖を離し、空洞の奥を振り返った。
低く軋むような音が、暗闇の向こうから響いてきた。
ネフィラは杖を胸元に引き寄せ、オルバンも岩壁から一歩離れた。ルビアは長杖を握り直したが、掌にはいつの間にか汗が滲んでいた。
誰も、音の正体を口にしなかった。音が途切れた後に訪れた沈黙の方が、かえって不気味だった。
迷宮が変動している音とも、岩が自然に崩れる音とも違う。
岩壁の向こうで、何かが身じろぎしている。ルビアには、そうとしか思えなかった。
次の瞬間、轟音が空洞を揺らした。
奥にある岩壁の一部が弾け飛び、砕けた岩と土煙が一気に噴き上がる。
床を走った衝撃に、ネフィラが杖を抱えたままよろめいた。どうにか踏みとどまったものの、薄い灰緑色の瞳は土煙の奥に釘づけになっている。
オルバンも動かなかった。杖を握る指に力を込めたまま、岩壁が砕けた場所を見つめている。
ルビアは長杖を引き寄せ、2人の前に一歩出た。
広がった土煙が、携帯灯の光を灰色に濁らせる。
その奥に、巨大なシルエットが浮かんでいた。全身は見えない。正体も、どれほどの力を持つのかも分からない。
それでも影を目にした瞬間、ルビアの肌が粟立った。
理屈よりも先に、身体が理解していた。あれは、この実習で相手にするはずのものではない。
影が、土煙の中でゆっくりと身を起こす。
ルビアの頬を、冷たい汗が伝った。




