第52話 旧ネレイス迷宮・記録のずれ
観測塔の内部では、旧ネレイス迷宮の低層区画を描いた巨大な観測図が浮かんでいた。
その前で、イリスは手元の記録板と、班番号のついた小さな光点を順番に見比べていた。光点は進入口ごとに色分けされ、どの班がどの経路にいるのかを見分けられるようになっている。
周囲では、教官たちが各班の位置と救難術式具の状態を確認し、補助に入った上級生たちが、確認地点への到着時刻や魔獣との接触記録を整理していた。
実習が始まってから、すでにしばらく経っている。
第2確認地点に着いた班もあれば、魔獣を避けるために予定より遠回りしている班もある。だが、今のところ、大きな異常は報告されていなかった。
イリスは記録板の数字を追いながら、観測図の光点を一つずつ確かめていく。
迷宮では、通路の形がわずかに変わることがある。その影響で、班の位置を示す光点が一時的に遅れることも珍しくない。
少し前にも、第11班の光点が分岐路の手前で止まっていたが、次に記録が届いた時には、進んだ分だけ正しい位置に移っていた。第23班にも似たずれがあったものの、そちらもすぐに直っている。
だから、最初は第6班も同じだと思っていた。しかし、次の記録が届いても、第6班の光点はほとんど動かなかった。
イリスの指が、記録板の上で止まる。
第6班は進んでいる。救難術式具には、そのことを示す記録が残っていた。それなのに、観測図の上では、同じ通路をわずかに進んだだけになっている。
イリスは一つ前の記録に戻り、さらにその前も確かめた。
見間違いではなかった。
第6班が進んだ距離と、光点が動いた距離は、記録が届くたびに離れていっている。
第6班。
朝、第4進入口から迷宮に入った、ルビア・フォルテアたちの班だった。
「ザクセンデ教官」
別の観測板を確認していたザクセンデが顔を上げた。
「第6班の記録を見てください。進んだ距離と、表示されている位置が合っていません」
ザクセンデはすぐにイリスの隣に移動し、差し出された記録板に目を走らせた。
「表示が遅れているだけではないのですか」
「私もそう考えました。ですが、3回続けて直っていません。第11班と第23班は、次の記録で正常に戻っています」
イリスは第6班の記録を指で示した。
「この班だけ、進んだ記録が増えているのに、光点がほとんど動いていません」
ザクセンデの表情がわずかに険しくなる。
彼は第6班の光点を選び、送られてきている情報を確かめた。
救難信号はなく、観測室との接続も続いている。周囲の魔力に大きな変化はなく、許可区画の外にいるという表示もなかった。
異常なのは、進んだ距離と光点の位置だけだった。
「過去の迷宮変動の記録を出してください」
ザクセンデの指示を受け、近くにいた上級生が保管記録を開いた。
以前にも、通路が一時的に伸び縮みし、実際に進んだ距離と表示がずれた例はある。だが、そのずれは次の記録で直っていた。
第6班のように、光点がほぼ動かないまま、進んだ記録だけが増え続けた例は見つからなかった。
ザクセンデは観測図を見たまま告げた。
「第6班を要観察対象にします」
周囲の上級生たちが顔を上げる。
「表示地点に最も近い待機教官に連絡してください。第6班が通ったはずの経路を確認させ、そのまま表示地点まで向かわせてください」
「他の班はどうしますか?」
上級生の1人が尋ねた。
ザクセンデは観測図全体を見渡した。
異常が出ているのは、今のところ第6班だけだった。その第6班も、救難信号を出しておらず、接続も周囲の魔力も正常なままだ。
第6班だけを理由に、すべての班を止めるには根拠が足りない。イリスにも、その判断は理解できた。
「実習は続けます。ただし、第6班の記録はすべてこちらに回してください。他の班にも同じずれが続いた場合は、すぐに報告してください」
「分かりました」
上級生たちは持ち場に戻り、待機教官への連絡を始めた。
対応は始まった。
それでも、イリスの胸に残った違和感は消えなかった。
次の記録が届く。
第6班は、また先に進んでいた。
だが、観測図の光点は――ほとんど同じ場所に留まっていた。
◇
曲がり角の先には、地図に記された細い通路ではなく、巨大な空洞が広がっていた。
オルバンが携帯灯を向ける。
光は緩やかに下る床を照らしただけで、正面や左右の壁にも、天井にも届かなかった。入口付近に残る淡青苔も、数歩先から急にまばらになっている。
「中には入らないで」
ルビアの声に、前に出かけていたオルバンが足を止めた。
「まず、戻る場所が分かるようにして」
「分かりました」
オルバンは曲がり角の内側にある壁に杖先を当てた。
岩肌の表面が浅く削れ、第6班を示す3本の線と、戻る通路を指す矢印が刻まれる。オルバンは携帯灯を離しても印が見えることを確かめ、その位置を記録板にも書き加えた。
「ネフィラ。入口から分かる範囲だけ調べて」
「はい」
ネフィラが弱い風を床に沿って送り出した。しばらくして戻ってきた風が、彼女の薄い灰緑色の髪を揺らす。
「床は奥に向かって下っています。中央に近づくほど低くなっているようです」
今度は少し高い位置に風を送ったが、その大半は戻ってこなかった。
「壁にも天井にも届いていません。今の風では、広さを測れません」
地図にあるのは、人が2人並べる程度の通路だった。多少広がっただけでは説明がつかない。
ルビアは救難術式具の覆いを開いた。
青い光は一定の間隔で明滅し、簡易図に浮かぶ第6班の光点も許可区画内にある。オルバンが測定具を使ったが、魔力濃度にも異常はなかった。
目の前の光景だけが、地図と一致していない。
救難信号を使うには根拠が足りない。だが、3人で安全に戻れる範囲を越えてまで進む理由もなかった。
「入口の目印が見えるところまで確認するわ。少しでも異常があれば、すぐに戻る」
2人が頷く。
第6班は今までと同じ順番で、空洞に足を踏み入れた。
床には細かな砂が積もっていたが、大きな亀裂や崩れかけた場所はない。数歩進むと、中央に向かう緩やかな傾斜が、足裏にもはっきりと伝わってきた。
オルバンが足を止め、携帯灯を高く掲げた。
光の先に、太い石柱のような影がいくつも浮かび上がる。見えているのは輪郭の一部だけで、天井を支えているのか、床から伸びた岩なのかも分からない。
「ほぼ同じ間隔で並んでいるように見えます」
「自然にできたものではないということ?」
「そこまでは分かりません。ただ、偶然にしては整いすぎています」
欠けたり傾いたりしているものもあるが、ばらばらに生えた岩には見えない。
空洞の入口に近い壁にも、周囲の凹凸から切り離されたような平面が残り、その端をまっすぐな線が走っていた。
古い建物の跡にも見える。岩が偶然その形に割れただけとも考えられる。
今は、どちらとも断定できなかった。
オルバンが空洞の広がりを確かめるように、杖の石突きを床に軽く当てる。
硬い音が空洞に広がり、少し遅れて右側から返った。さらに間を置いて、正面より左の遠くから別の反響が重なる。
「音が戻る方向も、時間も揃っていません」
ネフィラが暗闇を見回した。
「空間の形が複雑なのかしら」
「それだけにしては、差が大きいです」
進んだ距離は、10数歩にも満たない。それなのに、すぐ後ろに細い通路が続いているとは思えないほど、空洞は広く感じられた。
ルビアは救難術式具に目を落とす。
表示は変わらない。地図の上では、自分たちは細い通路をわずかに進んだことになっていた。
だが、周囲に壁も天井も見えない。
「これ以上は進まないわ」
2人がすぐに足を止めた。
「ここから見えるものだけ記録して、入口に戻る」
オルバンは床の傾きや柱のような影を書き留め、ネフィラも風と音の戻った方向を記録する。
ルビアは2人の作業を見守りながら、光の届かない先に目を向けた。
魔獣の声も、水の流れる音もない。
ただ、地図のどこにも存在しないはずの空間だけが、暗闇の奥に続いていた。
◇
同じ頃、第17班は、第2確認地点を離れ、さらに迷宮の奥に進んでいた。
ユアンは先頭を歩きながら、携帯灯で足元と前方を交互に照らしていた。
細い水路を流れる音が、湿った石壁に反響している。その音が、ふいに遠ざかったように感じられた。
水が止まったわけではない。ディムローとメルディの足音も、すぐ後ろから聞こえている。
それなのに、迷宮の奥深くに広がる何かが、すべての音を呑み込み始めたような感覚があった。
ユアンは足を止めた。
「どうした?」
背後からディムローの声が届く。
ユアンは答えず、携帯灯の光が届かない先を見つめた。
暗闇には、何も見えない。
水と湿った岩の匂いも、先ほどまでと変わらない。それでも、背筋を這い上がる感覚だけは、間違えようがなかった。
かつて何度も、手遅れになる寸前に感じたもの。
命が失われる場所にだけ残る、冷たい気配。
まだ遠い。
どこにあるのかも分からない。
けれど、確かに、この迷宮のどこかにある。
――死の匂いがする。




