第56話 旧ネレイス迷宮・銀髪に灯る火
ルビアの前で、巨獣がゆっくりと身を沈めた。
割れた防壁の破片が、床の上に散らばっている。その向こうで、オルバンは杖を支えに膝をつき、ネフィラは片膝をついたまま浅く息をしていた。
2人とも、まだ杖を手放してはいない。だが、もう戦線に戻れる状態ではなかった。
「ルビア様……」
ネフィラの声が掠れる。
「まだ、風を――」
「動かさないで」
ルビアは振り返らずに言った。短く、強い声だった。
ネフィラが息を呑む。オルバンも何か言おうとしたが、咳き込み、そのまま言葉を失った。
ルビアは長杖を握り直す。
杖を握る指先が熱い。腕の内側には、焼けるような痛みが走っていた。身体の奥へ残った熱も、もう無視できる量ではない。
銀髪の先端が、炎を宿したようにかすかに揺れている。髪そのものが燃えているわけではない。薔薇色の火が毛先へ溶け込み、細い銀の1本1本を淡く染め始めていた。
それは、ルビア自身の身体にも熱が残り始めている証だった。
それでも、杖先は下げない。
かつてのルビアなら、ここまで踏み込まなかったかもしれない。
自分には立場がある。背負うものがある。生き残らなければならない理由もある。そう考えることは、きっと間違いではなかった。
けれど、背後にいる2人は、ルビアの命令で動いた。風を読み、防壁を張り、限界まで戦線を支えた。ルビアが前に出ろと言ったわけではない。命を賭けろと命じたわけでもない。それでも、2人は逃げずに残った。
その結果、今はもう動けない。
それを見て、何も感じずにいられるほど、ルビアは冷たくなれなかった。
友情と呼ぶには早い。信頼と呼ぶにも、まだ足りない。けれど、その場に置き去りにできるほど軽いものでもなかった。
見捨てられない。
それは甘さではなく、ルビアの奥底に残っていた責任だった。
倒すしかない。
救援が来る保証はない。観測室に異常が届いているのかも分からない。ここで耐え続ければ、いつか誰かが来る。そんな希望に、2人の命を預けることはできなかった。
倒し切れないなら、せめてここで止める。自分ごとでも。
「……来なさい」
ルビアは息を吐いた。
「ここで焼き切る」
巨獣が床を蹴った。
――ドンッ!
空洞全体が鳴る。
ルビアは正面から炎を撃った。
赤い火が長杖の先で膨れ上がる。その縁に、淡い薔薇色が混じった。
――ボンッ!
炎が硬い殻にぶつかり、爆ぜた。
巨獣の上半身がわずかに揺れる。だが、止まらない。焼けた殻の下で、新しい暗い層が盛り上がり、炎を押し返してくる。
「っ……!」
ルビアは横へ跳んだ。
直後、巨獣の前脚が彼女のいた場所を叩き潰す。床が割れ、石片が跳ねた。
ルビアは着地と同時に長杖を振った。炎が床を舐めるように走り、巨獣の前脚の内側に絡みつく。
――バンッ!
炎が狭い一点で弾けた。
硬い殻の隙間が赤く染まり、巨獣の脚がわずかに沈む。
効いている。
だが、足りない。
ルビアは奥歯を噛み締め、さらに炎を重ねた。前脚、肩、首元。黒く変わっていない場所を探し、撃つ。
――ボンッ!
――バンッ!
――ゴウッ!
炎が空洞の闇を何度も裂いた。熱が返り、指先が痛む。杖を握る手の感覚が、少しずつ鈍くなっていく。
「まだ……!」
ルビアは杖を引き寄せた。
次の炎を灯す。
だが、ほんのわずかに遅れた。
魔力はある。火力も落ちていない。むしろ、炎そのものは先ほどより強くなっている。それでも、術式が形になるまでの1拍だけが、少しずつ重くなっていた。
遅れた分を、さらに強い炎で押し潰す。
それがルビアの戦い方だった。
巨獣が吼えた。
低い咆哮が胸を打ち、背後でネフィラが小さく息を呑む。その声を聞いた瞬間、ルビアの中で何かがさらに細く絞られた。
下がれない。
振り返れない。
ここを抜かれたら、終わる。
「行かせない!」
炎が広がる。
今度は巨獣の足元ではなく、正面を塞ぐように燃え上がった。壁ではない。檻でもない。ただ、巨獣が前へ出るための1歩を焼き潰す炎だった。
巨獣はその炎を踏み抜いた。
硬い殻が赤く焼け、肉の奥で湿った音が弾ける。それでも、前へ来る。
ルビアは長杖を両手で握り、さらに魔力を流し込んだ。指先の熱が、手首を越えて腕に走る。銀髪の先端に溶け込んだ薔薇色が、さらに濃くなっていく。
杖先に炎が灯るまでの間も、先ほどより長い。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が、今は致命的だった。
その時だった。
巨獣が前半身を大きく持ち上げた。
胸元の硬い殻が、わずかに開く。
肉と殻の奥で、水晶のようなにぶい光が揺れた。
ルビアの目が、そこに吸い寄せられる。
あの光。
前にも、一瞬だけ見えていた。
ただの模様ではない。ただ埋もれているだけでもない。
巨獣が前脚を振り下ろす。
考える時間はなかった。ルビアは横へ跳び、床を転がるようにして避けた。衝撃が背中を押し、砕けた石が腕を掠める。
「ルビア様!」
「黙っていなさい!」
叫び返した声は、自分でも驚くほど荒かったが、気を遣う余裕はなかった。
ルビアは膝をつきかけた身体を無理やり起こし、長杖を構え直す。
巨獣は攻撃の瞬間、前半身を上げる。その時だけ、胸元の奥にある光が見える。もし、あそこを撃ち抜ければ。
ルビアの指先が震えた。
恐怖ではない。熱でもない。ようやく、倒すための場所を見つけたかもしれないという、切れそうなほど細い希望だった。
巨獣が再び身を沈める。
ルビアは杖先を胸元へ向けた。
「もう一度、開きなさい」
息が震える。
それでも、目は逸らさなかった。
「次は、そこを焼く」
巨獣は、すぐには動かなかった。
低く身を沈めたまま、赤黒い目でルビアを見ている。胸元の硬い殻は閉じ、先ほど見えた水晶のような光も、もう歪な肉と殻の奥に隠れていた。
ルビアは先に動いた。
長杖を振り、巨獣の足元へ炎を走らせる。赤い火の縁に、淡い薔薇色が混じった。
――ゴウッ!
炎が床を這い、巨獣の前脚を包み込む。硬い殻が赤く染まり、黒く変わっていない隙間で小さく火が弾けた。
巨獣は前脚を引かない。むしろ、炎の中へさらに踏み込んだ。
「っ……!」
ルビアは長杖を引き寄せ、次の術式を組む。
だが、遅い。
魔力はある。火力も落ちていない。むしろ、炎そのものは先ほどより強くなっている。それでも、術式が形になるまでの1拍だけが、少しずつ重くなっていた。
遅れた分を、さらに強い炎で押し潰す。
それが今のルビアの戦い方だった。
杖先に薔薇色を帯びた炎が集まる。
巨獣が動いた。前半身が持ち上がり、胸元の硬い殻がわずかに開く。
「そこ」
ルビアは炎を放つ。
――ボンッ!
薔薇色の火が空洞を裂き、巨獣の胸元へ走った。だが、わずかに遅い。巨獣の前脚が振り下ろされ、胸元の殻が閉じ、炎はその表面を叩いた。
硬い殻が赤く焼けるが、奥までは届かない。
次の瞬間、振り下ろされた前脚が床を砕いた。衝撃がルビアの足元を跳ね上げる。
「くっ……!」
ルビアは横へ跳ぶ。
着地した足が滑り、膝がわずかに落ちた。すぐに立て直す。だが、指先の熱は強くなっていた。腕の内側に、焼けるような痛みが走る。身体の奥に残った熱も、もう無視できる量ではない。
それでも、ルビアは杖を構えた。
胸元が開くのは、攻撃の瞬間。
狙えるのは、その一瞬だけ。
だが、避けながら撃てば遅れる。撃つために溜めれば、避ける時間が消える。
巨獣が再び身を沈めた。
ルビアは息を吐く。今度は足元ではなく、巨獣の肩へ炎を撃った。
――バンッ!
殻の隙間で火が弾ける。巨獣の身体がわずかに傾く。
さらに前脚。
――ボンッ!
首元。
――ゴウッ!
黒く変わっていない場所を選び、削る。
巨獣が低く吼えた。ルビアの炎は通っている。傷も作っている。だが、深く削った場所からは、すぐに暗い殻が育ち始める。
時間をかければかけるほど、撃てる場所が減っていく。
ルビアは歯を食いしばった。
「なら、今度は――」
長杖の先に炎を集める。
赤。
薔薇色。
その奥に、白く滲むほどの熱。
周囲の空気が歪み、床に散らばった岩片の縁が赤くなる。
巨獣が反応した。
大きく前半身を持ち上げると同時に、胸元が開く。
にぶい光が、今度ははっきりと見えた。
「ハッ!」
ルビアは最大まで圧縮した炎を撃ち込んだ。
――ドンッ!
炎が胸元へ直進する。
だが、巨獣は前脚を振り下ろさなかった。
開いた胸元をわずかに捻り、肩を前に出す。分厚い殻が炎の前へ割り込んだ。
薔薇色の炎が殻にぶつかり、空洞を白く照らすほど爆ぜた。巨獣の肩が大きく焼け落ちる。それでも、奥の光には届かない。
焼けた肩口から、湿った音がした。赤黒い肉が盛り上がり、新しい暗い殻がその下で形を作り始める。
ルビアの呼吸が乱れた。
今の1撃で駄目なら、ただ撃つだけでは届かない。胸元が開く瞬間を狙うだけでは足りない。
敵が攻撃に入った、その瞬間。
胸元が開き、殻で庇うより先に、そこへ炎を通すしかない。
だが、その瞬間は、巨獣の前脚がルビアに届く瞬間でもあった。
「……そう」
ルビアは短く息を吐いた。
指先が震えている。熱のせいか、痛みのせいか。それとも、今から選ぼうとしていることを、身体だけが先に理解したからか。
巨獣が身を沈める。
床に爪が食い込み、石が割れた。
ルビアは避ける準備をしなかった。
長杖を両手で構え、胸元の光だけを見据える。
「次は、避けない」
巨獣が床を蹴った。
――ドンッ!
空洞が鳴る。
胸元の殻が開く。
ルビアは、そこへ杖先を向けた。
胸元の奥にある水晶のような光が、今度ははっきりと見えていた。
長杖の先に炎が集まる。赤い熱の縁に薔薇色が混じり、その中心だけが白く滲んでいく。
術式が形になるまでの1拍は、やはり重かった。先ほどよりも、さらに遅い。その遅れを、ルビアはもう誤魔化さなかった。今の炎なら届く。あの光を焼ける。だが、撃ち抜くより先に避けることはできない。
撃てば、巨獣の前脚が自分に届く。避ければ、胸元は閉じる。
どちらも選ぶ余裕などなかった。
「……来なさい」
ルビアは杖を握る手に力を込めた。
指先の感覚はほとんどない。腕の内側には焼けるような痛みが走り、身体の奥に残った熱が呼吸を浅くしている。
それでも、杖先は下げなかった。
ここで退けば、次に潰されるのは自分ではない。オルバンがいる。ネフィラがいる。2人はもう、避けられない。
だから、ルビアも避けなかった。
巨獣が床を蹴る。
――ドンッ!
空洞が鳴った。
巨体が迫る。胸元の殻は開いたまま、前脚だけがルビアの頭上へ振り下ろされてくる。
ルビアはその影を見なかった。見れば、身体が勝手に逃げようとする。だから、胸元の光だけを見た。
倒せる。
ただし、間に合ったとしても、自分は無事では済まない。
その事実だけが、やけにはっきりしていた。
それでも、炎は完成する。
潰されるより、ほんのわずかに早く。
「焼け――」
その瞬間、横から何かが飛び込んだ。
――ガキンッ!
硬い音が、ルビアの耳元で弾ける。
振り下ろされた前脚が、頭上でわずかに逸れた。止まったわけではない。受け止められたわけでもない。ただ、落ちる向きだけが変わった。
それだけで、ルビアを砕くはずだった一撃は、彼女のすぐ横へ落ちる。
――ドゴッ!
床が砕け、衝撃がルビアの身体を横へ弾いた。
放たれかけていた薔薇色の炎が、巨獣の胸元を掠める。硬い殻の端が焼け飛び、奥の光はすぐに閉じた殻の向こうへ隠れた。
「っ……!」
ルビアは崩れかけた体勢のまま、前を見た。
黒髪。
傷だらけの制服。
片手には長剣。もう片方には短剣。
息を切らしながら、それでも巨獣とルビアの間に立っている少年の背中がそこにあった。




