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第50話 旧ネレイス迷宮・戦わない選択

地図にない道は、緩やかな下り坂になっていた。


ユアンは携帯灯で足元と曲がり角の先を確かめながら、一定の速さで進んでいく。

後ろにはディムロー、そのさらに後ろをメルディが歩いていた。


携帯灯の光が届かない場所には暗闇が残り、

3人の足音と水の流れる音だけが、細い通路に反響していた。


道幅は狭いものの、崩れかけた場所はない。

救難術式具の青い光も、変わらない間隔で明滅していた。


「水の流れる方向は変わってない」


後ろから、ディムローの声がした。


片手に地図を持ち、途中で曲がった回数と進んだ距離を書き込んでいる。


「このままなら、やっぱり元の経路に戻るはずだ」


「地図に書き加えるのは、戻ってからでもいいんじゃないか?」


「今やらないと、細かい角度を忘れる」


視線は記録板に向いていたが、歩く速度もユアンとの間隔も崩れていない。


ユアンが携帯灯を足元に向けると、床が一段分だけ沈んでいた。

その先では薄く流れていた水が集まり、小さな水たまりができている。


「段差だ。気をつけろ」


後ろの2人が足を止め、順番に段差を越えた。


少し進むと、通路の先で淡青苔の光が増えていく。

同時に、遠くから響いていた水音も大きくなった。


ユアンは歩みを緩め、曲がり角の手前で止まる。


「ここで待っててくれ」


壁際から先を覗き込んだ。


曲がり角の向こうには、元のものと同じ幅の水路が横切っていた。

向かい側の壁には、学院が付けた白い確認印も見える。


地図に記された経路だ。


ユアンは手招きし、2人を呼び寄せた。


ディムローは白い印と地図を見比べると、

現在地から新しく書き加えた線を、本来の経路に繋げた。


「戻った。第2確認地点の少し手前だ」


声に安堵が混じる。


地図にない道へ入る判断は、間違っていなかった。


メルディも救難術式具の覆いを開き、現在地を確かめる。

簡易図に浮かぶ光点は、予定経路の上に戻っていた。


「位置にもずれはありません。このまま進めます」


ユアンは頷き、水路の先に携帯灯を向けた。


第2確認地点までは、それほど遠くない。

そう思い、歩き出そうとした時だった。


水を掻いていた音が、突然途切れた。


ユアンは足を止める。


「どうしました?」


「何かいた」


姿は見えていない。

だが、少し前まで水を掻くような音が、一定の間隔で続いていた。


ユアンが声を落とすと、ディムローも記録板から顔を上げた。


3人は動かず、耳を澄ませる。

聞こえるのは水路の流れと、天井から落ちる雫だけだった。


メルディがわずかに鼻を動かし、

流れてくる空気を確かめるように、ゆっくりと息を吸う。


「……はい。水と苔の匂いに、獣の匂いが混じっています」


ユアンには、水と湿った岩の匂いしか分からない。

メルディにこれほど鋭い嗅覚があるとは知らなかった。


ユアンは双剣の柄に手をかけ、携帯灯の向きを少し下げた。

光が直接奥に届かないよう、足元だけを照らす。


ディムローが壁際に屈み、淡青苔に視線を向けた。


「ここの苔も食われてる」


淡青苔の先端が、不規則に欠けていた。

第1確認地点で見つけたものより新しく、

食いちぎられた断面には水滴が残っている。


その下の泥には、細い爪痕がいくつも重なっていた。


「1体じゃないな」


ディムローは携帯灯を水路に向けず、泥に残った痕だけを目で追った。


「大きさの違う跡がある。奥にもいる」


その時、水面の下で何かが動いた。

青灰色の影が、携帯灯の届く寸前を横切る。


続いて、もう1つ。


メルディが息を潜めた。


ユアンは壁際まで進み、曲がり角の先をもう一度覗く。


水路の浅瀬に、3体の魔獣が身を伏せていた。


人間の腰ほどまである胴体を、濡れた青灰色の鱗が覆っている。

太い尾は半分水に沈み、岩にかけられた前脚には、黒い鉤爪が並んでいた。


水辺に棲む低危険度の小型魔獣、ミズトカゲ。


その奥では、成体よりふた回りほど小さな影が2つ、淡青苔の陰に身を寄せている。

子を守っているのだろう。


成体の1体が、何かを警戒するように頭を上げた。


まだ、こちらには気づいていない。


ユアンは音を立てず、2人のもとまで下がった。


「ミズトカゲが3体。奥に小さいのが2体いる」


「通らないと、第2確認地点には行けないのか?」


ディムローが地図を広げる。


ユアンも経路を確認した。


予定どおりなら、群れのいる水路沿いを進む必要がある。倒せない相手ではない。

だが、濡れた狭い通路で、水中を自由に動ける相手と戦う理由もなかった。


奥の幼体を守っているなら、なおさらこちらから近づく必要はない。


「別の通り方を探そう」


ユアンがそう告げると、ディムローとメルディはすぐに頷いた。


ディムローは地図を閉じると、ミズトカゲのいる水路とは反対側の壁を見渡した。

携帯灯を低く向け、岩肌の凹凸を目で追っていく。


「こっちを通れるかもしれない」


声を抑えたまま、壁際へ近づいた。


そこには、人ひとりが身体を寄せられるほどの窪みが、水路に沿って続いている。

途中で岩が張り出し、その先までは見通せないが、

脇には人ひとりが通れそうな隙間が残っていた。


ユアンもミズトカゲの群れを警戒しながら、ディムローの隣まで移動した。


足場は狭いが、水路からは数歩離れている。

身体を壁に寄せれば、群れのすぐそばを通らずに済みそうだった。


「どこまで続いてる?」


ディムローは窪みの奥に携帯灯を向け、

張り出した岩と、その脇に残る隙間を見比べた。


「向こうまでは見えない。でも、岩の形からすると、水路沿いに続いてるはずだ」


壁には触れず、見える範囲だけで判断している。

メルディも2人のそばまで来ると、窪みの幅と足元を確かめ、小さく頷いた。


「3人が並ぶのは無理ですが、1人ずつなら通れそうです」


ユアンはもう一度、水路の浅瀬にいるミズトカゲを見た。


成体はまだこちらに気づいていない。

幼体も淡青苔の陰から動かず、互いに身を寄せている。


「ここを通る。ディムローが先に行って、足場が続いているか確かめてくれ。メルディはその後ろだ」


「ユアンさんは?」


「俺が後ろを見る。2人は止まらず進め」


ディムローは一瞬だけミズトカゲの方を見た。


濡れた鱗の形や、水中でも岩を掴める鉤爪。

近くで見れば、記録できることはいくつもあるだろう。


だが、今は調査よりも3人で通り抜ける方が先だった。


「分かった」


地図と記録板を鞄に収め、岩の窪みに身体を滑り込ませる。

足場を一歩ずつ確かめながら進み、張り出した岩の向こうから小さく手を上げた。


道は続いている。


メルディも携帯灯の光を絞り、ディムローの後に続いた。


ユアンは2人が岩陰に入ったのを確認してから、最後尾につく。

携帯灯は足元だけに向け、右手を長剣の柄に添えた。


靴底が濡れた石に触れるたび、小さな水音が鳴る。


一歩。


また一歩。


ミズトカゲとの距離が近づいていく。


成体の1体が頭を上げた。


ユアンは足を止める。


青灰色の鼻先がわずかに動いたものの、赤黒い目はこちらを捉えていない。

ミズトカゲはしばらく空気を嗅いだ後、再び浅瀬に顎を下ろした。


前を行くメルディも足を止め、肩越しにユアンを振り返っていた。


ユアンが指先で進むよう合図すると、彼女は小さく頷き、

前方のディムローとともに再び歩き始めた。


張り出した岩まで、あとわずかだった。


その時、天井から大粒の雫が落ちた。

携帯灯の光を受け、ユアンの足元で白く弾ける。


浅瀬にいた1体が、勢いよく顔を上げた。

赤黒い目が、今度はまっすぐユアンを捉える。


低い鳴き声が喉の奥から漏れ、濡れた背中が大きく膨らんだ。


「気づかれた。止まるな」


ユアンが声を抑えて告げる。


ディムローとメルディは速度を上げ、岩の張り出しを越えようとした。

だが、まだ射線からは外れきっていない。


ミズトカゲが水を蹴る。


前脚の鉤爪が浅瀬の岩に食い込み、口元に青い魔力が集まり始めた。


ユアンは長剣を抜く。

虚環銀には繋がない。


圧縮された水の魔力弾が、狭い足場の正面からユアンに迫った。


ユアンは半歩だけ前に出た。

避ければ、前の2人に届く。


ユアンは長剣の腹を射線に斜めに差し入れ、水の魔力弾の端を叩いた。


わずかな衝撃が手首に伝わる。


剣身に触れた水の魔力弾は、圧縮された形を保ったまま軌道だけを変え、

ユアンの横を抜けて水路に着弾した。


そこで初めて水の塊が弾け、飛沫が浅瀬を白く染める。


岩の向こうで、メルディが小さく息を呑んだ。


ミズトカゲは怯まず、岩を蹴って距離を詰めてきた。


黒い鉤爪が持ち上がる。


ユアンは後ろに退きながら長剣を返し、

振り下ろされた前脚の内側に剣の腹を当てた。

力の向きを横に流すと、鉤爪はユアンの肩を外れ、壁面に白い傷を刻んだ。


倒す必要はない。


ユアンは追撃せず、その隙に張り出した岩の向こうに身体を滑り込ませた。


「走れ」


3人は狭い窪みを抜け、水路沿いの道を駆ける。

背後から低い鳴き声と水を蹴る音が追ってきたが、やがて遠ざかっていった。


それでもユアンたちは足を止めず、

水路に沿って曲がり角を2つ越えたところで、ようやく速度を落とした。

ユアンが後方に携帯灯を向けたが、青灰色の影が追ってくる様子はない。


「ここまで来れば大丈夫そうだな」


ディムローが息を整えながら、来た道を振り返った。


「縄張りから離れたのでしょう。幼体を残して、遠くまで追うつもりはなかったのだと思います」


メルディはそう答えると、すぐにユアンの右手に目を向けた。


「腕は大丈夫ですか?」


「ああ。少し衝撃が返ってきただけだ」


メルディはユアンの手首から指先までを確かめた。

赤みも腫れも見つからなかったのか、ようやく小さく頷く。


「今回は問題なさそうですね」


「今回は、か」


ユアンが苦笑すると、メルディは真面目な顔のまま答えた。


「次も同じように済むとは限りませんから」


ユアンは反論せず、魔獣の血が一滴もついていない長剣を鞘に収めた。


隣では、ディムローが記録板を広げている。


「後ろで攻撃されたんだよな。何を撃たれた?」


「水属性の魔力弾を1発。長剣で水路側に逸らした」


「虚環銀には繋いだか?」


「繋いでない」


ディムローは頷き、ミズトカゲを見つけた位置や個体数、

壁際の窪みを使って迂回した経緯とともに書き加えた。


「それも記録するのか?」


「当然だろ。どう避けたかも、踏査の一部だ」


ディムローは顔も上げずに答えた。


そのまま少し進むと、壁際に立つ白い標識が携帯灯の光の中に浮かび上がった。


第2確認地点。


標識のそばには平らな岩棚があり、その中央に学院の確認用術式が刻まれている。

メルディが救難術式具を近づけると、青い光が術式線に沿って広がった。


第17班の班番号と到着時刻が記録され、同じ情報が観測室にも送られる。


「接続も正常です。制限時間にも余裕があります」


ユアンは周囲を見渡した。


3人とも負傷はなく、支給品も失っていない。

地図にない道を通ったものの、許可区画からも出ていなかった。


ディムローは記録板の最後に到着時刻を書き込み、討伐数の欄で筆を止めた。

そこには何も記さず、次の項目に移る。


討伐数の欄は、空白のままだった。


それでも、第17班は誰一人傷を負わず、第2確認地点に辿り着いていた。


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