第49話 旧ネレイス迷宮・地図にない道
石門を越えた瞬間、空気が変わった。
地上よりも冷たく、湿っている。
ユアンが息を吸うと、濡れた岩と土の匂いが鼻の奥に残った。
冷気は制服越しにも肌にまとわりついた。
3人が中に入ると、背後で低い音が響いた。
振り返ったユアンの視界で石門が左右からせり出し、
狭まる隙間とともに朝の光も細くなっていく。
最後の隙間が閉じると、地上の風と生徒たちの声まで途切れた。
地上の光が消える。
残ったのは、3人が持つ携帯灯の白い明かりと、
壁面に生えた淡青苔の青白い光だけだった。
淡青苔は通路全体を覆っているわけではない。
石壁の亀裂や、天井から水が滴る場所に沿って細い筋のように広がり、
その淡い光が濡れた床に映り込んでいる。
ユアンは携帯灯を掲げ、前方を照らした。
通路は、3人が横に並べるほど広くない。
左側には人ひとりが歩ける程度の足場があり、右側には浅い水路が続いていた。
黒い水が、ほとんど音も立てずに岩山の奥へ流れている。
遠くからは、別の水音も聞こえた。落ちる音なのか、流れる音なのかは分からない。壁や天井に何度も反響し、実際よりも近く感じられた。
「思ったより暗いな」
後ろから、ディムローの声がした。
普段と変わらない口調だったが、その声にはわずかな硬さが残っていた。
「苔があるから、携帯灯がなくても歩けると思ってたのか?」
ユアンが聞くと、ディムローはすぐに否定した。
「そこまでは思ってない。ただ、立体図ではもう少し明るく見えた」
最後尾のメルディは、彼の横顔を静かに見ていた。
学院の管理下にあるとはいえ、初めて足を踏み入れた迷宮で緊張するのは当然だと、メルディには思えた。
「立体図は、内部を確認しやすいように明るく表示されていたのではないでしょうか」
メルディは、普段より少しだけ柔らかな声で答えた。
「……そうかもしれないな」
ディムローの声から、わずかに力が抜ける。
ユアンは2人のやり取りを聞きながら、携帯灯を足元に向けた。
床はおおむね平らだったが、ところどころに水が溜まり、
濡れた石の上には薄い泥も残っている。
暗さより先に、こちらを警戒した方がよさそうだった。
「滑りやすい。足元に気をつけろ」
「はい」
「分かった」
2人の返事を確認し、ユアンは再び前を向いた。
石造りの地下道に見える。
だが、よく見ると妙だった。
一定の大きさに切り揃えられていた石が、途中から1枚の壁のように繋がっている。継ぎ目が細くなったのではない。
最初から存在しなかったように、途中で消えていた。
天井と壁が交わる角も、奥に進むほど少しずつ傾いている。
人が造った建物なら、こんな形にはしない。
「壁の継ぎ目が消えてる」
ディムローも気づいたらしい。
携帯灯を上に向け、壁と天井の境目を目で追っている。
「見るだけにしておけよ」
「まだ何もしてない」
「まだ、か」
「記録はする」
ディムローは壁には触れず、鞄から記録板を取り出した。
灯りを向けながら、壁の形と通路の幅を書き込んでいく。
出発前の約束は、今のところ守っているらしい。
「救難術式具も問題ありません」
メルディの声に、ユアンは振り返った。
胸元の鞄から、一定の間隔で青い光が透けている。
一度。
間を置いて、もう一度。
観測室との接続は続いていた。
ユアンは頷き、携帯灯を前に戻した。
少し先の壁には、学院が付けた白い確認印が見える。
第17班に割り当てられた西側水路経路で間違いない。
「行こう」
ユアンは先頭に立って歩き始めた。
ディムローとメルディの足音が、その後ろから続く。
3人分の足音は湿った石壁にぶつかり、彼らより先に迷宮の奥へ響いていった。
最初の確認地点までは、地図どおりの道が続いていた。
水路に沿って2度曲がり、緩やかな下り坂を進むと、
やがて水路の幅が少し広がった。
壁際に立てられた白い標識には、第1確認地点を示す文字が刻まれている。
その下では、石壁から染み出した水が細い筋となり、足元の水路に流れ込んでいた。
「周囲を確認する。2人はここで待っててくれ」
ユアンは携帯灯を低く構え、確認地点の先まで進んだ。
水路の奥にも天井にも動くものはなく、足場に不自然な亀裂もない。
通路の先を覗き、耳を澄ませても、聞こえるのは水の流れだけだった。
「大丈夫だ」
戻ってきたユアンの言葉に、メルディが採取用の小瓶を取り出した。
水路の手前に膝をつき、透明な水だけをすくい取る。
「見た目には濁りはありません。異臭もないですね」
瓶の口を閉じると、今度は支給された測定具を水際に近づけた。
掌に収まる大きさの器具の中央で結晶に淡い光が灯り、
細い目盛りがゆっくりと動き始める。
その隣では、ディムローが水路の幅と深さを測り、
壁面に広がる淡青苔の範囲を記録していた。
「淡青苔の生育範囲は、標識の右側から約4歩分。上端は俺の頭より少し高い位置だな」
「発光状態も安定しています。周囲の魔力濃度も、資料に記載されていた範囲内です」
メルディが測定具の数値を読み上げると、ディムローが記録板に書き加える。
ユアンは2人の作業を見守りながら、
水際の泥に細い線が残っていることに気づいた。
携帯灯を近づける。
爪痕だった。
大きくはない。細い指を持つ何かが水路から上がり、再び水の中に戻ったらしい。
爪痕の縁はわずかに崩れ、表面には薄く泥が被っていた。今ついたものではない。
近くの淡青苔も、一部だけ不自然に欠けている。
「何かいましたか?」
メルディが小瓶を鞄に収めながら尋ねた。
「小型の魔獣の痕跡だ。新しくはない」
ディムローも近づこうとしたが、ユアンは手で制した。
「作業を続けてくれ。今、近くにいる様子はない」
「分かった」
ディムローは爪痕の位置だけを記録し、壁際に戻った。
遠くで、水を掻くような音が一度だけ響いた。
ユアンは反射的に双剣の柄に手をかける。メルディとディムローも動きを止めた。
だが、同じ音が続くことはなかった。
救難術式具の青い光も、変わらない間隔で明滅している。
ユアンはしばらく通路の奥を見つめた後、双剣から手を離した。
「採取が終わったら進もう」
数分後、第1確認地点での作業はすべて完了した。
ディムローが地図を広げ、次の経路を指でなぞる。
「このまま水路沿いに進んで、次の分岐を右だ。そこから第2確認地点までは、ほぼ一本道になってる」
ユアンは地図に示された経路を確認し、再び先頭に立った。
水路に沿って進む間、通路は地図どおりに続いていた。
遠くから響く水音だけが、歩みを進めるほど少しずつ大きくなっていく。
やがて、右に曲がるはずの地点に着いた。
「次を右だ」
地図を見ながら、ディムローが言った。
しかし、その地点に近づいたユアンは足を止めた。
右側に、道はなかった。
携帯灯に照らされたのは、床から天井まで続く灰色の石壁だった。
崩落した岩が通路を塞いでいるわけではない。
壁面には亀裂もなく、
最初からそこに道など存在しなかったように滑らかに繋がっている。
「ディムロー」
「ああ。地図では、ここを右だ」
ディムローも歩みを止め、手元の地図と正面の壁を見比べた。
現在地を示す白い確認印は、曲がり角の手前に残っている。
道を間違えたわけではない。
ディムローは縮尺の異なる区画図まで確かめ、現在地を照合した。
確認するほど、読み違いの可能性は消えていく。
「ここで合ってる。地図が古いわけでもない。昨日渡された最新版だ」
声に不安はなかった。
先ほどまで暗さを気にしていたことなど忘れたように、
ディムローの目は壁の形を追っている。
異常な構造を前にして、いつの間にか不安よりも興味が勝っていた。
ユアンは壁の前まで進み、携帯灯を上下に動かした。
石の継ぎ目はどこにも見当たらず、床との境目にも崩れた欠片はない。
「崩れたんじゃなさそうだな」
「通路そのものが消えたのかもしれない」
「そんなことがあるのか?」
「迷宮なら、小規模な変動は珍しくないって説明されただろ」
そう言いながらも、ディムローは壁に触れなかった。
出発前の約束を思い出しているらしい。
ユアンは左に携帯灯を向けた。
本来なら壁が続いているはずの場所に、
人ひとりが通れるほどの細い道が開いている。
水路から枝分かれするように、緩やかな下り坂が暗闇の奥へと伸びていた。
地図には記されていない道だった。
新しい通路にも淡青苔は生えていたが、元の水路に比べると、
その光はまばらだった。
「こちらが、変動で新しくできた通路でしょうか」
メルディが2人のそばまで来た。
胸元では、救難術式具が変わらず青く明滅している。
「位置はどうなってる?」
「確認します」
メルディは胸元から救難術式具を取り出し、覆いを開いた。
中央の結晶に触れると、表面に許可区画の簡易図と、
第17班の現在地を示す光点が浮かび上がった。
「現在地にずれはありません。左の通路も、少なくとも入口付近は許可区画内です」
続いて測定具を取り出して周囲の魔力濃度を確かめる。
目盛りは先ほどの確認地点よりわずかに高かったが、
異常を示す範囲には届いていない。
「魔力濃度も規定範囲内です。観測室との接続にも異常はありません」
ユアンは左の通路を見た。
携帯灯の光は、十数歩先で緩やかに曲がる壁に遮られている。
その先までは見通せなかった。
「俺が少し先を見てくる。ここで待っててくれ」
「姿が見えるところまでにしてください」
メルディがすぐに念を押した。
「ああ」
ユアンは携帯灯を掲げ、左の通路に足を踏み入れた。
大きな亀裂や崩落の兆候はなく、魔獣の足跡や臭いもない。
数歩先で耳を澄ませると、前方から元の水路と同じ方向に流れる水音が聞こえた。
それ以上は進まず、2人のもとに戻る。
「すぐ先に危険はない。水の流れも続いてる」
報告を聞いたディムローは、地図の向きを実際の通路に合わせた。
現在地から本来の経路に指を滑らせ、今度は左の通路が伸びる方向と見比べる。
「水路の向きが変わってないなら、この通路も北側に伸びてる。次の確認地点の手前で、元の経路に合流する可能性が高い」
「可能性、ですか」
「実際に先を見ないと断定はできない。ただ、反対方向に進んでるわけじゃない」
3人は、消えた右の通路と左に現れた道、現在地と第2確認地点を見比べた。
「引き返したり、救難信号を出したりするほどの異常ではないと思う」
ディムローの意見に、メルディも頷く。
「許可区画内で、数値にも異常はありません。慎重に進み、異常があれば戻るのであれば、問題ないと思います」
ユアンにも異論はなかった。
「進もう。ただし、曲がり角の先を見るまでは間隔を詰める。何かあればすぐ戻るぞ」
「分かった」
「はい」
ディムローが、地図にない通路をその場で書き加えた。
メルディは救難術式具を胸元の鞄に戻す。
布越しの青い光は、変わらない間隔で明滅していた。
一度。
間を置いて、もう一度。
地図にはない。
ユアンは携帯灯を掲げ、その道に足を踏み入れた。
ディムローとメルディが後に続いた。




