第47話 知らない声
低層迷宮踏査実習まで、あと2日。
早朝の個人演習場で、俺は新しくなった双剣を構えていた。
正面の試験標的から、淡い魔力弾が放たれる。
弱い。
押し金には触れず、身体を半歩ずらす。
短剣の腹で魔力弾の端だけを叩き、軌道を外に流した。
続く一発は、剣を使わずに避ける。
三発目は、先ほどより輪郭が濃かった。
俺は両方の押し金を握り込み、虚環銀を刀身に繋ぐ。
刃元を走る鈍い銀色の筋が、一瞬だけ光を返した。
短剣で端に触れると、魔力弾の輪郭が崩れる。
そこに長剣の背を斜めに重ねると、残った力は肩の横を抜け、結界に吸収された。
柄に警告は返ってこない。
俺はすぐに押し金から指を離した。
必要な時だけ繋ぐ。
必要がなくなれば、切る。
新しい機構は、ただ力を増やすためのものではない。
使わないことまで、自分で選ぶためのものだった。
少し離れた場所では、ディムローが試験記録を取っている。
「今のは?」
「何もない。振動も熱も」
「接続時間は?」
「短剣が一瞬。長剣は、それより少し長い」
ディムローは紙に書き込み、試験装置を止めた。
「今日はここまでだ」
「まだ余裕はある」
「剣にはな。お前はこの後も授業があるだろ」
実習当日までに機構に慣れる必要はある。
だからといって、毎朝限界まで試す必要はなかった。
俺は双剣を鞘に収める。
指先は意識せずとも、柄の内側にある押し金の位置をなぞっていた。
「操作は、だいぶ自然になったな」
ディムローが記録用紙を畳みながら言う。
「そうだな」
「だからって、何でも吸わせるなよ」
「分かってる」
「返事が軽いんだよ」
ディムローの声を背中で聞きながら、俺は演習場の出口に向かった。
◇
同日の放課後。
第17班の3人は、実習装備の支給所に集まっていた。
机の上には、携帯灯、防湿布、簡易地図、水、非常食、固定用の縄、
応急処置用品が3人分並べられている。
中央には、先日の準備会で操作を確かめた見本と同型の救難術式具が置かれていた。
メルディは教官からそれを受け取り、覆いと中央の結晶を確かめる。
「実習中は私が持ちます。私が使えない場合は、お二人のどちらかが作動させてください」
「信号を送るだけで、会話はできないんだったな」
ディムローが確認すると、メルディは頷いた。
「はい。作動後は、その場で教官を待つのが原則です」
俺は机の上の地図を見る。
指定経路から外れないこと。
異常が起きた場合は救難信号を使い、生徒だけで救助や追跡を行わないこと。
何度も聞かされた規則が、地図の下にも太い文字で記されていた。
「ユアンさん」
呼ばれて顔を上げると、メルディの視線が俺の腰に向いている。
「双剣が戻ったのですね」
「ああ。まだ第一段階らしいけどな」
「警告は、まず振動。その後に熱と音の変化でしたね」
メルディが確認すると、ディムローが頷いた。
「最初の振動を感じた時点で、すぐに教えてください」
「ディムローと同じことを言うんだな」
「必要なことだからです」
迷いのない返答だった。隣でディムローも何度も頷いている。
「ほら。俺だけが心配しすぎてるわけじゃない」
「分かった。振動が来たら伝えるよ」
メルディは満足したように頷き、応急処置用品の確認に戻った。
その間に、俺は水や縄、防湿布を自分の鞄に収め、
机の端に積まれた携帯食をいくつか取る。
ディムローがこちらを見た。
「それ、全部持っていくのか?」
「途中で腹が減るかもしれない」
「迷宮に何をしに行くんだよ」
「倒れるよりはいいだろ」
「量の問題だ」
そう言うディムローの鞄にも、記録用の紙束や細い金属棒が詰め込まれている。
俺は一本を摘まみ上げた。
「これは?」
「壁の内側に空洞がないか調べる」
「置いていけ」
「必要だ」
「迷宮の壁を調査する実習じゃないだろ」
「何があるか分からないだろ」
「お二人とも」
また同じ声が割って入った。
メルディは俺の携帯食を一つ減らし、代わりにディムローの金属棒を机に戻した。
「必要な量だけにしましょう」
俺とディムローは、それぞれ減らされた荷物を見る。
反論しても、戻してもらえそうになかった。
準備を終えたところで、支給担当の教官が予定表を示す。
「実習当日は、朝鐘の2度目までに旧ネレイス迷宮前に集合してください。制限時間は5時間。時間内に指定経路を踏査し、帰還地点に戻ることが評価条件です。超過した班は未帰還として捜索対象になります」
教官は、予定表の下に記された警告を指した。
「指定経路から故意に外れた場合は失格。救助目的であっても、生徒だけで追跡してはいけません」
例外はない。
「必要な物は、明日中にすべて揃えてください。当日の変更は原則として認めません」
説明が終わり、俺たちは装備を鞄に収めた。
実習まで、残り2日。
◇
翌日は、双剣と支給装備の最終確認だけで過ぎた。
ディムローは記録板を、メルディは薬と包帯の配置を何度も確かめる。
俺も接続機構の操作と指定経路を頭に入れた。
準備できることを終え、実習前夜を迎えた。
◇
ルビア・フォルテアは、暗い天井を見つめていた。
室内に灯りはない。
厚いカーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に細長い線を作っている。
長杖の確認も、オルバンたちとの準備会も、携行品の点検も終えている。
朝から授業を受け、その後も予定どおり鍛錬を行った。
頭も身体も、休息を求めているはずだった。
それでも、眠りだけが訪れない。
ルビアは目を閉じ、呼吸を整えた。
いつもなら、とうに起き上がっている。
眠れないなら、その時間を使えばいい。
課題を進め、術式を見直し、鍛錬の記録を整理する。
眠りを待ち続けるより、その方が有意義だった。
机の上には、まだ読める資料がある。
探せば、今この時間にできることなどいくらでもあった。
ルビアは一度だけ机に視線を向けたが、起き上がらなかった。
明日は迷宮に入る。
たとえ眠れなくても、横になっているだけで身体は休まる。
少なくとも、机に向かい続けるよりはましなはずだった。
再び目を閉じる。
静かな部屋には、自分の呼吸だけが残っていた。
息を吸うたび、腹部にかかった薄い掛布がわずかに持ち上がる。
吐けば、ゆっくりと元の位置に沈んでいく。
その小さな上下を、ルビアは目を閉じたまま何度も繰り返した。
それでも、意識は沈まない。
身体の疲労と、頭の冴えが噛み合わず、
横になっていることさえ次第に無駄な時間に思えてくる。
それでも、ルビアはベッドを出なかった。
5時間の制限、指定経路、班員の役割。
オルバンが防壁を張り、もう1人が周囲を探り、自分が火力を担う。
長杖の調整も終わっている。
問題はない。
低層区画で起きる程度の事態なら、対応できる。
そう結論づけた時、不意に別の言葉が浮かんだ。
――お互い、気をつけよう。
回廊で聞いた、ユアンの声。
誰に向かって言っているのかと思った。
自分より、彼の方がよほど危うい。
魔力もなく、剣も改修を終えたばかりのようだ。
それでも何かが起きれば、また入学試験の時のように前に出るのではないか。
ただ一度見ただけの行動なのに、なぜかそんな予感がした。
何も知らないくせに、こちらにまで同じことを言ってくる。
ルビアは眉を寄せたまま、薄く息を吐いた。
今、考える必要のないことだった。
ユアンは別の班で、担当する経路も違う。
実習中に顔を合わせることすらないかもしれない。
それでも、最後に言われた言葉が耳の奥に残っていた。
――あなたもね。
自分で返した言葉まで思い出し、ルビアは掛布をわずかに引き上げる。
目を閉じ、呼吸を数えた。
1つ。
2つ。
3つ。
どこまで数えたのか。
その後のことを、ルビアは覚えていなかった。
◇
白い海が、空に向かってそびえていた。
波ではない。
海そのものが押し上げられ、巨大な津波の形のまま凍りついている。
見上げるほど高い氷壁が、視界の端から端まで続いていた。
風がその表面を削り、白い雪を空中に巻き上げている。
その氷壁を背に、巨大な生物が身を起こしていた。
全体の姿は白い風に隠れ、輪郭すら定まらない。
それでも、人とは比べものにならないほど巨大であることだけは分かった。
ルビアは、炎の翼を広げて空中にいた。
背中の炎は風に煽られ、激しく揺れている。
それでも、彼女を一歩も前に運ばなかった。
身体も翼も、空中に縫い止められたように動かない。
前へ進むことも、後ろに退くこともできなかった。
巨大生物との間には、凍った波から突き出した崩れかけの氷片がある。
その不安定な足場に、一振りの剣を持つ人影が立っていた。
顔は見えない。
髪の色も分からない。
吹き荒れる雪と逆光が、その輪郭を隠していた。
それでも。
その背中を、知っている気がした。
理由は分からない。
名前も知らない。
どこで会ったのかも思い出せない。
けれど、その人が振り返らずとも、自分を見ているような気がした。
巨大な生物が動く。
凍りついた海が軋み、空を塞ぐ氷壁の一部が崩れ落ちた。
逃げなければならない。
そう分かっているのに、身体は動かない。
声を出そうとしても、喉が凍りついたように息しか漏れなかった。
人影が剣を持ち上げる。
あれを一人では止められない。
なぜか、そう分かった。
自分も動かなければならない。
それなのに、身体も翼も応えてくれない。
できない。
間に合わない。
胸の奥に、冷たいものが広がりかけた。
その時。
吹き荒れていた風が、遠のいた。
「――を信じる――を信じろ」
声が届いた。
肝心な言葉だけが、白い風に削られている。
何を信じろと言ったのか。
聞き取れなかった。
それでも、その声に迷いはなかった。
彼女が失敗することなど、初めから考えてもいない。
できるかと問いもしない。
できると知っている者の声だった。
胸の奥に広がりかけていた冷たさが止まる。
なぜか、その信頼に応えたいと思った。
その期待を、裏切りたくなかった。
応えなければならない、ではない。
応えたい。
凍りついていた指先が、わずかに動く。
彼女は人影に向かって手を伸ばした。
遠いはずなのに、届く気がした。
その人が信じた自分なら。
できる。
指先に熱が集まる。
白い氷の上に、淡い赤色が映った。
炎が灯る。
その瞬間、人影がわずかに振り返った。
光の向こうにある顔を見ようとして――
夢は、そこで途切れた。
◇
ルビアは目を開いた。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井。
見慣れたカーテン。
机の上に整えられた、今日の装備。
自室だった。
窓の外が、薄く明るい。
朝。
すでに夜は終わっていた。
いつもなら、夜中に何度か意識が浮かぶ。
眠れていたとしても浅く、少しの音や身体の重さですぐに目を覚ます。
だが昨夜は、いつ眠りに落ちたのかすら覚えていない。
途中で起きた記憶もなかった。
ルビアはゆっくり上体を起こし、確かめるように深く息を吸う。
空気が、いつもより素直に胸の奥まで入ってきた。
頭に、いつもの鈍い重さがない。目の奥に残る熱も、今朝は薄かった。
身体そのものが完全に軽いわけではない。昨日までの疲労が消えたわけでもない。
それでも、いつもより深く眠れたことだけは分かった。
何か、夢を見た。
そんな気がした。
白い場所。
誰かがいたような。
声を聞いたような気もする。
けれど、思い出そうとするほど、夢の輪郭は遠ざかっていった。
誰がいたのか。
何を言われたのか。
自分が何をしていたのか。
何一つ、形にはならない。
ただ、誰かに、できると信じてもらえていたような温かな感覚だけが、
胸の奥に残っていた。
声の主を思い出そうとする。
顔も、姿も、名前も分からない。
それなのに、なぜかユアンの顔が浮かんだ。
ルビアは眉を寄せる。
何の関係があるというのだろう。
昨夜、眠る前に彼の言葉を思い出したからだろうか。
そう考えたものの、夢の内容すら残っていない以上、確かめようはなかった。
窓の外で、朝を告げる鐘が鳴り始める。
ルビアはベッドを下り、机に向かった。
長杖。
手袋。
簡易地図。
必要な物は、昨夜のうちにすべて揃えてある。
その端には、大公家から送られてきた疲労回復薬の小瓶が置かれていた。
いつもの癖で手を伸ばす。
けれど、指は小瓶に触れる前に止まった。
今朝は、必要なかった。
ルビアは小瓶を残し、代わりに長杖を手に取る。
二度目の朝鐘まで、まだ時間はある。
鏡の前で銀髪を整え、肌と目元をいつもどおり丁寧に仕上げる。
迷宮へ入る日だからといって、身なりを疎かにする理由にはならない。
唇へ色を乗せ、黒紺の戦闘服に袖を通した。
夢の声は、もうほとんど思い出せなかった。
それでも、胸の奥には微かな温かさが残っている。
ルビアはその正体を考えることなく、部屋の扉を開いた。
低層迷宮踏査実習の朝が来た。




