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第46話 必要な時だけ

低層迷宮踏査実習まで、あと3日。


イリス・ディアクラウンは、実習の観測資料に視線を落としていた。


学院中央棟の上層に設けられた観測準備室には、

班ごとの担当経路や教官の配置、救助手順を記した資料が並んでいる。


壁際に浮かぶ旧ネレイス迷宮の立体図では、

実習に使われる第1低層区画だけが青白く照らされ、

その外側の封鎖領域は暗く沈んでいた。


少なくとも、資料上に明らかな問題はない。


各班には、位置記録と救難信号を兼ねた術式具が配布される。

信号や記録の途絶があれば、最後に確認された地点と予定経路を基に、

最寄りの教官と救護員が捜索に入る手筈だった。


「第6班と第17班の経路を、もう一度」


イリスが告げると、観測担当の教官が術式板を操作した。


迷宮図の上に、2本の光が伸びる。


ルビア・フォルテアたち第6班は、東側の水路区画。

ユアン、ディムロー、メルディ・トリステアの第17班は、

西側の旧搬送路を担当する。


開始地点も帰還路も離れており、

小規模な迷宮変動が起きたとしても、通常なら経路は交わらない。


イリスの金色の瞳が、2本の光を追った。


入学試験で異常が発生した際、ユアンは迷わずルビアのもとへ飛び込んだ。

魔力を持たず、自分が傷つく可能性も理解していたはずなのに。


その理由を、イリスはまだ知らない。


だが今回は別の班で、担当経路も離れている。


少なくとも、ユアンが彼女を庇うために予定経路を外れるような事態は、

起こりにくい。


イリスは次の資料に視線を移した。


「救難信号が発せられてから、教官が到着するまでの最長時間は?」


「第1低層区画内なら、4分以内です」


「位置記録が途切れた場合は?」


「最終地点の前後を封鎖し、迷宮管理部が捜索に入ります」


「封鎖領域側に移動した場合は?」


教官が一瞬だけ間を置いた。


「上級教官に即時連絡します。生徒による追跡と救助は禁止です」


当然の答えだった。


イリスは救助手順の横に並ぶ確認欄を、指先で1つずつなぞった。


救難信号を使う。

指定経路を守る。

異常時には教官の到着を待つ。


誰もが規則に従う限り、事故は防げるはずだった。

けれど、契約を交わしていない約束が、簡単に破られることも知っている。


だからこそ、規則だけでは足りない。

破られた後に、誰がどう動くのかまで決めておく必要があった。


「次の班を」


立体図から2本の光が消える。

イリスは表情を変えず、残る資料の確認を続けた。



放課後。


俺は魔導工房の扉を開いた。


熱を帯びた金属と油、削られた木材の匂いが鼻に届く。

奥では炉が赤く光り、作業台の上には工具や小さな部品が並んでいた。


その中央に、ディムローがいる。

赤い髪はいつも以上に乱れ、目の下には薄く疲労が残っていた。


「遅い」


「授業が終わって、すぐ来た」


「俺はもっと前から待ってた」


作業しながら待つことを、待っていたと言うのかは分からなかったが、

余計なことは言わないほうがいいだろう。


ディムローの前にある作業台を見る。


黒い布の上に、2本の剣が置かれていた。

左の短剣。

右の、背が厚い片刃の長剣。


形だけを見れば、預ける前と大きくは変わっていない。


短剣の背から柄にかけて、鈍い銀色の細い筋が走っている。

長剣にも同じ金属が組み込まれ、厚い背の内部を通った銀色の筋が、

柄の手前で途切れていた。


以前の改修でも見た、虚環銀の痕跡だ。


だが今回は、その通り道の周辺に、細かな金属部品が加えられている。

握りの形にも、ごくわずかな変化があった。


作業台に近づくと、ディムローが双剣の前に片手を出した。


「まだ触るな」


「完成したんじゃないのか?」


「第一段階はな。説明が先だ」


ディムローは短剣を持ち上げ、柄をこちらに向けた。


握りの内側。親指が自然に触れる位置に、小さな押し金が埋め込まれている。

知らずに見れば、滑り止めの一部だと思うほど目立たない。


「虚環銀は、普段は刀身から切り離してある」


ディムローは押し金を示した。


「ここを親指で押し込むと、柄の中の接続片が噛み合う。その間だけ、虚環銀が刀身の経路に繋がる。指を離せば接続も切れる」


長剣にも、同じ位置に同じ形の押し金が組み込まれていた。


「左右で操作を変えたら、戦闘中に迷うだろ」


「つまり、普段は魔力を吸わないのか」


「ああ。弱い攻撃なら、お前の技術だけで逸らせばいい」


以前の双剣は、弱い魔力弾や術式の残滓まで選ばず取り込み、

本当に必要な一撃を受ける前に負荷を溜めかねなかった。


「必要な時だけ、繋ぐ」


俺が言うと、ディムローは頷いた。


「短剣は、触れた魔力の密度を一瞬だけ乱す。全部を吸うんじゃない。攻撃の形を崩して、刃への食いつきを弱くする」


続いて、長剣の厚い背を指でなぞる。


「長剣は、短剣で崩した力を広く受けて、背側に分散させる。取り込んだ分は、熱と細かなマナに崩して外に逃がすようにしてある」


「攻撃に使うことは?」


「できない」


返答は早かった。


「剣の中に溜めて、別の魔法に変える構造にはしていない」


「その方がいい」


俺が必要としているのは、奪った魔力を撃ち返す力ではない。

届いた魔法を弱め、逸らすための一瞬だ。


「接続を切れば、魔力に干渉しない状態に戻る。弱い攻撃まで無駄に吸わせるなよ」


「ああ」


「それと、負荷も手で分かるようにした」


ディムローは短剣の柄を軽く叩く。


「細かな振動が返ったら注意域。使い続けて柄が熱を持ったら、接続を切れ。さらに振動が乱れて、剣の音まで濁ったら限界だ」


3つの段階を、指を折りながら示す。


「そこから先は?」


「剣が壊れる。最悪、逃がしきれなかった負荷がお前の腕に返る」


「今日はどこまで試す?」


「振動までだ。熱が出るほど使うな」


「限界まで試した方が――」


「実習前に剣も腕も壊したいなら、勝手にしろ」


本気で言っている顔だった。

俺は作業台の双剣を見る。


「もう触っていいか?」


ディムローが短剣を持ち上げ、こちらに差し出す。

だが、柄を握った指はすぐには離れなかった。


「壊すなよ」


「できる限りは」


「返せ」


「まだ受け取ってない」


ディムローは不満そうに眉を寄せたものの、俺が柄を握ると、ようやく指を離した。


続いて長剣も受け取る。


短剣の長さも、長剣の背の厚みも、指を置く位置も手に馴染む。

身体の中心から剣先まで、1本の線で繋がるような感覚があった。


馴染む。


ただし、接続機構が加わった分、握りの内側にわずかな重さがある。

長剣も、振った後の戻り方が以前とは少し違った。


「試してみろ」


ディムローが工房奥の試験区画を指した。


床と壁には耐魔処理が施され、正面には魔力弾を放つ試験装置が固定されている。


俺は区画に入り、双剣を構えた。


短剣を抜き、半歩横にずれる。

長剣を途中まで抜き、再び戻す。


角度と重心を変えながら、何度か動きを繰り返した。


借り物を使っていた時のように、剣の長さを意識する必要はない。

だが、以前の型にそのまま戻すこともしなかった。


足で避けられるものは避ける。

短剣だけで済むなら、長剣は抜かない。


2本を使う場合も、攻撃に深く噛ませず、必要な部分だけに触れる。

借り物の剣を使った1週間で覚えた動きを、今の双剣に移していく。


ディムローはしばらく黙って見ていた。


「前より、剣を使わなくなったな」


「振ってるだろ」


「そうじゃない。前は、来た攻撃を全部2本で処理しようとしてた」


俺は一度、足元を見た。


「借り物を使って分かった。避けられるものまで、剣で受ける必要はない」


「それ、設計する前に言えよ」


「俺も今朝分かった」


「遅いんだよ」


文句を言いながらも、ディムローの視線は双剣から離れなかった。


「試験を始める。最初は接続を切ったままだ」


俺は構え直した。


試験装置の先端に、淡い光が集まる。


最初の3発は、虚環銀を使わずに処理した。


短剣で端を叩き、長剣の背で流す。

正面から受ける必要のない弾は、身体をずらして避けた。


「次。接続しろ」


両方の押し金を握り込む。


柄の内部で、小さく金属が噛み合った。

刃元を走る鈍い銀色の筋が、一瞬だけ光を返す。


続く魔力弾に短剣を触れさせると、淡い球の輪郭が揺らいだ。

表面が崩れ、刃に返る重さが明らかに軽くなる。


長剣の背を重ねれば、残った力は形を失いながら斜めに流れた。

弱い魔力弾を数発続けても、柄に警告は返ってこない。


接続している間だけ、虚環銀が魔力に干渉する。

接続を切れば、魔力に干渉しない状態に戻る。


使う必要のない攻撃には、使わなくていい。


「少し上げるぞ」


次の魔力弾は、先ほどより輪郭が濃かった。


短剣で崩し、長剣で流す。

手首に衝撃は残ったが、借り物の剣で受けた時より小さい。


同じ出力をもう一度処理しても、警告はなかった。


「最後。クラス2相当」


ディムローの声が低くなる。


試験装置の先で、白い魔力が圧縮された。


俺は右足を引き、身体を半身にする。

魔力弾が放たれる直前、両方の押し金を握り込んだ。


白い球が迫る。


短剣で端に触れた瞬間、輪郭が大きく揺らぐ。


完全には崩れない。


すぐに長剣の背を斜めに重ね、残った力を外に逃がす。


鈍い衝撃が両腕に走った。

魔力弾は肩の横を抜け、壁の結界に吸収される。


その直後。


左手の柄に、細かな震えが返った。


痛みではない。


握りの内側で、金属が小刻みに鳴っているような感覚だった。

右の長剣にも、少し遅れて弱い振動が残る。


「これか」


ディムローがすぐに近づいてきた。


「振動だけか? 熱は?」


「熱はない。短剣の方が強い。長剣は弱いけど、少し長く残ってる」


ディムローは紙に書き込んだ。


「短剣は最初に密度を崩したから、瞬間的な負荷が大きい。長剣は残りを広く受けた分、抜けるまで時間がかかってるのかもしれない」


まだ断定せず、剣の柄と刀身を何度も見比べている。

やがて、両方の振動が収まった。


「10発で注意域か」


「違う。弱い弾を何発受けたかより、最後の1発でどれだけ負荷が入ったかだ。毎回10発持つと思うな」


「分かった」


「本当か?」


「……たぶん」


「やっぱり返せ」


俺は双剣を離さなかった。

振動も熱も、もう残っていない。警告の感覚も、接続の切り替えも確認できた。


以前より扱いやすい。

だが、壊れなくなったわけではない。使い方を誤れば、剣も腕も傷つく。


「実習中、俺は外から見える反応を記録する」


ディムローが言った。


「柄から伝わる振動と熱は、お前にしか分からない。感じたら言え。その場で無理なら、戦闘が終わってからでいい。どっちの剣で、何に触れた時だったかは忘れるな」


「分かった」


「俺は外から見える変化を記録する。お前は手に返った感覚を覚える。それで次を直す」


次。


その言葉が、不思議と自然に聞こえた。今回の剣で終わりではない。

ディムローは、作った後まで見ようとしている。


「それと、壊れる前に言えよ」


「壊れる前かどうか、分かるように作ったんだろ?」


「警告を無視する奴には意味がない」


言い返せなかった。

俺は双剣を鞘に収める。


以前とは違う。


けれど、借り物でもない。

今の俺が、これから使うための双剣だった。


鞘に収めた後も、親指は無意識に押し金の位置を確かめていた。


「実習は3日後だ」


ディムローが工具を片づけながら言う。


「明日と明後日で、操作と重さに慣れろ。接続した状態で無茶な試験はするな」


「3日あれば十分だ」


「十分じゃない。最低限だ」


工房の外から、夕刻を告げる鐘の音が届いた。


実習まで、あと3日。


俺は腰に戻った双剣の柄に、静かに手を置いた。


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