第45話 お互い、気をつけて
アトラス根を飲んでから、そろそろ1週間になる。
早朝の個人演習場で、俺は学院から借りた短剣と長剣を構えていた。
左腕に、以前のような痛みはない。
深く捻っても、剣を振っても動きを妨げるものはなくなっていた。
メルディの治療と、その後の時間が十分に傷を癒やしてくれたのだろう。
俺は左足を半歩引き、短剣を抜く。
正面から来る斬撃を想定して、身体を軌道の外へずらす。
短剣で端へ触れ、右の長剣を斜めに重ねる。
止めるのではない。
外へ逃がす。
以前ほど、借り物の剣に振り回されることはなくなった。
本来の双剣と同じ動きを求めず、
この短剣と長剣で取れる形を探すようになったからだ。
短剣を戻し、角度を変えてもう一度動く。
前の世界で得た戦闘経験は、今も残っている。
相手の肩や視線を見れば、次に何が来るのか分かる。
どこへ踏み込み、どの方向へ力を逃がせばいいのかも、
理屈としては理解できていた。
だが、前世で完成していた動きを、そのまま再現することはできない。
足を置く位置も、腰の捻りも、2本の剣を重ねる角度も分かる。
それでも、前世の身体なら無意識に繋がっていたはずの動作が、
今の身体では途中で途切れた。
身長も、腕の長さも、筋力も違う。
思い出せないのか。
それとも、思い出したところで今の身体には合わないのか。
まだ、その区別はついていなかった。
どちらにせよ、今の身体へ落とし込むしかない。
俺は構え直し、同じ動作を繰り返した。
少し前なら、もう左足の踏み込みが浅くなっていた頃だ。
今日はまだ、姿勢も剣筋も崩れていない。
筋力や剣速が、急に増したわけではなかった。
鍛錬を終えた後には、以前より強く腹が減る。
それでも、強くなるための負荷を、以前より少し多く受け止められるようになった。
今は、それで十分だった。
最後に一度だけ動きを通し、長剣を鞘へ戻す。
刃は縁へ触れず、乾いた音を1つだけ残して静かに収まった。
今日は放課後に、第17班の準備会がある。
俺は剣から手を離し、演習場を後にした。
◇
放課後。
俺たち第17班は、講義棟の一角に設けられた実習準備室へ集まっていた。
中央の机には、旧ネレイス迷宮・第1低層区画の簡略図と、
携行品の一覧が広げられている。
俺の向かいにはディムロー。
右隣では、メルディが必要な薬や応急処置用具へ小さな印をつけていた。
「まず、歩く順番を決めよう」
俺が迷宮図の入口を指すと、ディムローも水路の分岐へ指を置く。
メルディは最寄りの救護地点へ指先を伸ばした。
3人で同じ図を見ているのに、注目している場所は違っていた。
「先頭はユアンさんがよいと思います」
メルディが言った。
「近くの危険へ、最も早く反応できますから」
「俺も異論はない。ユアンが前にいれば、装置を調べる間も周囲を警戒してもらえる」
「調べるのは構わないが、見つけた途端に近づくなよ」
「そんなことしない。まず外から構造を見る」
「そのまま興味に負けなければいいけどな」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「お二人とも」
穏やかな声に遮られ、俺とディムローは同時にメルディを見る。
「異常な装置を見つけた場合は、まず私にも知らせてください。その場で進むのか、触れずに戻るのか、3人で決めましょう」
「……分かった」
ディムローが先に引き、俺も頷いた。
「じゃあ、俺が先頭。ディムローが中央で地図と構造の確認。メルディが後方と治療でいいか?」
「はい。後ろからなら、お二人の状態と退路を確認できます」
机の端には、操作確認用の救難術式具が置かれていた。
メルディがそれを中央へ寄せる。
薄い金属板の中央に、青白い結晶が埋め込まれている。
「覆いを外し、中央の結晶を数秒押し続ければ、救難信号が送られます」
ディムローが覗き込んだ。
「中はどうなってるんだろう」
「分解するなよ」
「しない。今は」
今でなくても駄目だと思う。
メルディは操作を確認すると、術式具を机へ戻した。
「実習当日は、私が持ちます。ただ、誰かが動けなくなった場合に備えて、全員が使えるようにしておきましょう」
「それでいい」
次に決めるべきなのは、緊急時の判断だった。
ディムローが腕を組む。
「班長は決めるのか?」
「普段は3人で決める」
俺は答えた。
「すぐに動かなきゃいけない時は、最初に異常に気づいた奴の指示に従う。落ち着いたら、そこで一度確認し直す」
「最初に気づいた奴が間違っていたら?」
「危険から離れるための判断に限りましょう」
メルディが続ける。
「避ける、隠れる、退く場合は、最初に気づいた方に従う。危険へ近づく場合は、急いでいても可能な限り3人で確認する。それならどうでしょう」
「いいと思う」
ディムローも少し考えた後、頷いた。
魔獣が現れた場合も、避けられるなら戦わない。
追ってくるなら俺が前で止め、ディムローが相手や周囲の構造を確認する。
負傷者が出た場合は、メルディが戦闘を続けられる状態か判断する。
ディムローが紙へ役割を書き込んでいく。
先頭と近接警戒、ユアン。
地図と構造確認、ディムロー。
治療、救難、後方確認、メルディ。
意見が同じだったわけではない。
それでも、誰か1人の考えだけを押し通す必要はなかった。
それぞれが見ているものを出せば、1人で決めるより間違いは減る。
そんな班にはなれそうだった。
「ひとまず、今日はこれでいいか?」
俺が尋ねると、ディムローは紙へ最後の線を引いた。
「装備の実物を確認したら、また調整しよう」
「携行する薬も、学院から支給される物を見てから決めます」
メルディも一覧を閉じる。
準備会は、思っていたより早くまとまった。
◇
準備室を出ると、廊下の向こうから聞き覚えのある声がした。
「だから、私が全部やるんじゃなくて、3人でやろうよ」
ミリアスだった。
彼女も、班員と準備をしているところらしい。
隣には女子生徒と男子生徒が立ち、ミリアスは何枚もの資料を抱えていた。
男子生徒が、少し遠慮がちに笑う。
「でも、ミリアスさんが前を担当してくれるなら安心です」
ミリアスの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐに、いつもの明るい表情へ戻る。
「私も頑張るけど、3人でやろうよ。その方が、きっと楽しいし」
そう言いながら、抱えていた資料を半分ずつ2人へ差し出した。
女子生徒が少し驚いた後、それを受け取る。
「分かったわ。私もできることを考える」
「僕は周囲の確認を担当します」
「うん。じゃあ、それで決まり!」
ミリアスが楽しそうに両手を合わせた。
笑顔はいつもと同じだった。ただ、答えるまでに、ほんの一瞬だけ間があった。
俺には、その理由までは分からない。
「あ、ユアンくん!」
こちらへ気づいたミリアスが手を振る。
「準備会、終わったの?」
「ああ。そっちもか?」
「今終わったところ。そっちはどんな感じ?」
「俺が前。ディムローが地図と装置。メルディが治療と後方確認」
「すごく分かりやすいね」
「俺は装置だけじゃないぞ。魔法も使える」
ディムローが口を挟む。
「そうだった」
「忘れてたのか?」
「忘れてないよ。少し遅れて思い出しただけ」
「それを忘れてたって言うんだろ」
ミリアスが笑った。
「役割も決まってるなら、そっちは大丈夫そうだね」
「何か起きる前提なのか?」
「迷宮なんだから、少しくらいはあるかもよ?」
「楽しそうに言うな」
「大丈夫。無茶はしないよ。ユアンくんたちも気をつけてね!」
「ああ。ミリアスたちもな」
ミリアスたちは、まだ装備について確認があるらしい。
廊下の先へ歩き始めたミリアスが、途中で振り返る。
「迷宮で会ったら、一緒にお菓子食べようね!」
「持ち込むのか?」
「非常食だよ!」
隣の女子生徒が、呆れたようにミリアスの肩を押す。
3人の姿が曲がり角の向こうへ消えると、ディムローが小さく息を吐いた。
「本当に非常食として持っていくのかな?」
「ミリアスなら持っていきそうだな」
メルディは真剣な顔で考えている。
「保存性の高い物であれば、問題はないと思います」
そこを真面目に検討する必要はあるのだろうか。
◇
準備棟を出たところで、ディムローとメルディとは別れた。
ディムローは工房へ。メルディは、実習用の薬品について教官へ確認するらしい。
俺は寮へ戻るため、中央棟へ続く回廊を歩いていた。
夕方の光が、高い窓から斜めに差し込んでいる。
分岐へ差しかかった時、向こう側から銀髪の少女が歩いてきた。
ルビアだった。
隣には、青灰色の短髪をしたオルバン・セリスと、もう1人の女子生徒がいる。
3人は分岐の前で足を止めた。
どうやら、もともとここで行き先が分かれるところだったらしい。
オルバンが先にこちらへ気づき、ルビアもその視線を追うように俺を見た。
「私は、不足している装備を確認してきます」
オルバンが言う。
もう1人の女子生徒も、小さく頭を下げた。
「私も索敵用の補助具を見ておきたいので、一緒に行きます」
「ええ、分かったわ」
2人は準備棟の方へ戻っていく。
俺は、その背中を見送った。
「もう1人には何を任せたんだ?」
「索敵よ。風属性だから、周囲の確認に向いているわ」
「オルバンが防壁で、君が火力か」
「それ以外にある?」
「いや。分かりやすい班だと思って」
ルビアがわずかに目を細めた。
「あなたたちの役割は決まったの?」
「俺が前。ディムローが地図と装置。メルディが治療と後方確認」
「予想どおりね」
「よく分かったな」
「他にどう分けるのよ」
当然のように返される。
俺たちは、そのまま同じ方向へ歩き始めた。
正確には、相変わらず速いルビアの足取りへ、俺が歩調を合わせた。
「準備は問題なさそうか?」
「特には。オルバンは防壁を扱えるし、もう1人も索敵役として最低限の働きはできるでしょう」
「最低限か」
「実際に動く前から、それ以上の評価はできないわ」
その言い方は、いかにもルビアらしかった。
「君の長杖は?」
「調整は終わっているわ」
「炎を強くする素材を入れたんだったな」
ルビアの赤い瞳が、わずかにこちらへ動く。
「それが何?」
「別に。ただ、危険だと思ったら無理に押し切るなよ」
ルビアの足が、ほんの少しだけ緩んだ。
「誰に言っているのかしら?」
「君に言ってる」
ルビアは呆れたように目を細めた。
「あなたにだけは言われたくないわ」
「それは分かってる」
「分かっているなら、まず自分の班に迷惑をかけないことね」
「君もな」
「私はかけないわ」
「そう言い切るところが心配なんだよ」
ルビアが足を止めた。
俺も数歩進んだところで気づき、振り返る。
赤い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「私の何を知っているの?」
静かな声だった。
責めているというより、確かめているように聞こえた。
俺は、すぐには答えられなかった。
前の世界の彼女を根拠にすることはできない。
今のルビアについて、俺が知っていることは、まだ少ない。
「ほとんど知らない」
ルビアの眉が、わずかに動く。
「だから言ってる。君がどこまで平気で、どこからが無理なのか、俺にはまだ分からない」
「分からないのに口を出すの?」
「分からないからって何も言わないよりはいい」
ルビアはしばらく俺を見ていた。
窓から差し込む夕方の光が、銀髪の輪郭を薄く照らしている。
「自分のことは棚に上げて?」
「ああ」
「認めるのね」
「今は君の話をしてる」
「随分と勝手ね」
ルビアは小さく息を吐き、再び歩き始めた。
俺も隣へ戻る。
「あなたも」
ルビアが前を向いたまま言う。
「何だ?」
「勝手に危険に飛び込まないことね」
「分かった」
「ふん。どうかしらね」
ルビアの視線が、俺の腰へ落ちた。
「本来の剣も戻っていないのでしょう?」
「ああ。実習までには間に合わせてもらうつもりだ」
「なら、余計なことをする前に、自分の役割を果たしなさい」
「君もな」
「私は最初から、そのつもりよ」
回廊の先で、男子区画と女子区画へ向かう道が分かれていた。
俺たちは分岐の前で足を止める。
「……お互い、気をつけよう」
俺が言うと、ルビアはすぐには返さなかった。
赤い瞳がもう一度、借り物の剣へ向く。
やがて、視線が俺へ戻った。
「ええ」
ルビアは女子区画へ続く道へ足を向ける。
数歩進んでから、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
「あなたもね」
それだけ言って、今度こそ歩き去っていく。
その言葉は、銀髪の姿が見えなくなった後も、しばらく耳に残っていた。




