第43話 もう一つだけ
その日の夕方。
メルディ・トリステアは、学院都市の西側にある薬舗を訪れていた。
大通りから少し外れた場所にある、小さな店だった。
店内には乾燥させた薬草の束が天井から吊るされ、壁際の棚には、
色や形の異なる葉や種、根が小瓶へ分けて収められている。
甘さや苦み、鼻の奥を刺す刺激の強い薬草の香りが、複雑に混ざり合っていた。
メルディは棚の前に立ち、手元の紙と並んだ薬草を見比べる。
治癒魔法科の講義で紹介された薬草や、
治癒魔法を使った後の疲労を和らげる茶葉を、自分の目で確かめておきたかった。
「こちらの葉を、少しだけいただけますか?」
「はいよ。学院の生徒さんなら、扱い方は分かるね?」
「煮出しすぎると効果が強くなり、胃へ負担がかかるものですよね」
店主の女性が、感心したように頷いた。
「よく勉強してるね」
メルディは小さく微笑んだ。
聖邦では、治癒や薬について知っていることも、
間違えないことも、できて当然とされていた。
店主が薬草を紙へ包んでいる間、メルディは店内を見回す。
奥の棚には、疲労回復薬や傷薬が並んでいた。
淡い青色の小瓶。
その色を見た瞬間、メルディの指がわずかに止まった。
けれど、すぐに視線を外す。
必要な物ではない。
少なくとも、今日は。
会計を済ませ、薬草の包みを鞄へ入れる。
「ありがとうございました」
「またおいで」
メルディは一礼し、店を出た。
夕方の学院都市には、飲食店から流れる湯気や、
焼いた肉、煮込んだ野菜の匂いが満ちていた。
そして、砂糖と蜂蜜を焦がした甘い香り。
メルディの足が、止まった。
少し先に、小さな菓子店があった。
窓の向こうには、丸い焼き菓子や、果実を載せた小さな菓子が並んでいる。
白いクリームを挟んだもの。
蜂蜜で表面を艶やかにしたもの。
砕いた木の実を散らしたもの。
どれも、薬ではない。
身体を治すものでもない。
誰かを救うために必要なものでもなかった。
メルディは数秒だけ店を見つめ、それから前を向いた。
そのまま通り過ぎる。
3歩。
4歩。
5歩。
足が止まった。
振り返る。
菓子店の窓には、先ほどと変わらず甘い菓子が並んでいる。
メルディは少しだけ迷った後、来た道を戻った。
店へ入ると、焼きたての生地と蜂蜜の香りが一層強くなる。
「いらっしゃいませ」
店員の明るい声に迎えられ、メルディは並んだ菓子を見つめた。
近くで見ると、種類はさらに多かった。
どれか1つ。
最初は、そのつもりだった。
「こちらは、何が入っているのですか?」
「蜂蜜を染み込ませた生地に、牛乳で作った白いクリームを挟んでいます」
「こちらは?」
「果実の蜜を練り込んだ焼き菓子です。酸味があるので、甘すぎるものが苦手な方にも人気ですよ」
「では、その隣は……」
尋ねるたび、気になるものが増えていく。
店員は楽しそうに説明を続けた。
「3つから箱にできますよ。種類も別々に選べます」
メルディの視線が、菓子から小さな箱へ移る。
3つなら、明日まで残しても、誰かに分けてもいい。
そう考え、メルディは静かに頷いた。
「では、この蜂蜜のものと、果実のものを。それから……」
最後の1つを選ぶまでに、少し時間がかかった。
◇
菓子店を出た直後だった。
少し先の花売りの露店へ向かって、小さな女の子が走っている。
両手には、色鮮やかな花が何本か握られていた。
後ろを振り返りながら走っていたせいで、足元の段差に気づかなかったらしい。
小さな身体が前へ倒れ、花が石畳へ散らばった。
「……っ」
メルディは反射的に駆け寄っていた。
女の子は地面へ手をつき、
しばらく何が起きたのか分からないように瞬きをしている。
やがて、膝から滲んだ血を見た瞬間、顔が崩れた。
「いたい……」
メルディは女の子の前へしゃがむ。
「大丈夫ですよ。少し見せてもらえますか?」
女の子が涙を浮かべた目で、メルディを見る。
柔らかな金髪。
青い瞳。
穏やかな声。
何かにすがるように、小さな手がメルディの袖を掴んだ。
「お姉ちゃん……痛いよ」
「はい。痛いですね」
大丈夫だと、すぐには言わなかった。
痛いものは、痛い。
それを否定しても、傷が消えるわけではない。
膝の傷は浅かったが、細かな砂が付着していた。
このまま治癒魔法で傷を塞ぐわけにはいかない。
メルディは鞄から清潔な布と小さな水筒を取り出した。
「少しだけ、冷たいですよ」
水で濡らした布を使い、女の子の呼吸に合わせて、
傷の周りから少しずつ汚れを拭き取っていく。
女の子の指が、メルディの袖を強く握った。
「痛い……」
「もう少しです。ここまで、とてもよく我慢できていますよ」
泣くことを止めろとは言わない。
我慢できる子だから泣くなとも言わない。
汚れを落とし終えると、メルディは傷薬を薄く塗り、清潔な布を当てた。
最後に、指先からほんのわずかな光を流す。
傷を消すのではなく、身体が自分で治り始めるところまでを補助するために。
淡い光が、女の子の膝を包んだ。
「これで大丈夫です。すぐには走らず、今日はゆっくり歩いてくださいね」
女の子は鼻をすすりながら、自分の膝を見る。
まだ少し赤い。
傷も完全には消えていない。
けれど、先ほどより痛みは引いたらしい。
恐る恐る足を動かし、それからメルディを見上げた。
「もう、痛くない?」
「少しは痛むと思います。でも、だんだん治っていきますよ」
「魔法で、全部なくせないの?」
「すぐに傷を塞ぐことはできます」
女の子の目が大きくなる。
メルディは、柔らかく微笑んだ。
「でも、あなたの身体にも、自分で傷を治す力があります。今回は、その力で十分です」
女の子は完全には理解していないようだった。
それでも、メルディが大丈夫だと言ったことだけは信じたらしい。
小さく頷く。
「あ、お花……」
散らばった花へ気づき、女の子が慌てて拾おうとする。
メルディも一緒に手を伸ばした。
何本かは茎が折れていたが、ほとんどは無事だった。
花を集めて渡すと、女の子はその中から、淡い青色の小さな花を1本抜いた。
「お姉ちゃんにあげる」
「私に?」
「治してくれたから」
治した、というほどのことはしていない。
そう答えかけて、やめた。
女の子にとっては、痛みを減らしてくれたことがすべてなのだろう。
メルディは片腕で薬草の包みと菓子箱を抱え直し、空けた両手で小さな花を受け取った。
「ありがとうございます」
女の子はようやく笑い、今度は走らず、花を並べた露店の方へ戻っていく。
少し進んだところで振り返り、大きく手を振った。
メルディも小さく手を振り返す。
女の子の姿が露店の人影へ紛れた後、手元の青い花へ目を落とした。
聖邦では、人を治療するたび、
感謝の言葉や、彼女1人には大きすぎる贈り物を受け取った。
聖女に触れてもらえたことを、生涯忘れないと涙を流す者もいた。
けれど、今手の中にある小さな花は、それらのどれとも違って見えた。
メルディは花を傷めないよう、薬草の包みとは別の場所へそっとしまった。
◇
学院都市を見下ろせる小さな広場には、夕方の風が吹いていた。
石造りの手すりの向こうに、通りを歩く人々と、立ち並ぶ店の屋根が見える。
メルディは人通りから少し離れたベンチへ腰を下ろした。
隣に誰もいないことを確認する。
前方にも、こちらを見ている人はいない。
鞄から、小さな菓子箱を取り出した。
蓋を開ける。
中には、形の異なる3つの菓子が並んでいる。
最初に選んだのは、蜂蜜を染み込ませた生地に、白いクリームを挟んだものだった。
指先で持ち上げ、少しだけ迷ってから、小さく口を開く。
一口。
蜂蜜の甘さが、舌へ広がる。
その直後、柔らかなクリームがほどけるように重なった。
メルディの青い瞳が、大きく開く。
すぐに頬が緩み、抑えようとした笑みが、顔いっぱいに広がっていった。
普段、人を安心させるために浮かべる微笑みとは違う。
聖邦では、こんなふうに笑った記憶はほとんどなかった。
誰かを救えたからでもない。
感謝されたからでもない。
ただ、甘いものがおいしい。
それだけで生まれた、17歳の少女の眩しい笑顔だった。
「……おいしい」
小さな声が漏れる。
誰も見ていない。
だから、もう一口。
今度は先ほどより少し大きく齧る。
生地の端からクリームがわずかにこぼれ、メルディは慌てて指で受け止めた。
その指先まで口へ運び、また笑う。
1つ目は、あっという間になくなった。
メルディは名残惜しそうに空になった包みを見つめ、
それから箱の中に残った2つへ視線を向けた。
これは明日の分。
もう1つは、誰かに分けてもいい。
最初は、そう考えていた。
メルディは箱の蓋を閉じ、両手を膝の上へ置く。
数秒。
閉じた箱を見る。
視線を外す。
もう一度、箱を見る。
鞄の口から、小さな青い花が覗いていた。
メルディはそれへ一度だけ目を向け、それから、ゆっくりと箱の蓋を開いた。
「……もう一つだけ」
誰に言い訳するでもなく、小さく呟く。
今度は、果実の蜜が練り込まれた焼き菓子へ手を伸ばした。
◇
菓子箱を鞄へ戻し、メルディが学院へ帰る頃には、空が薄く暮れ始めていた。
1年生寮へ戻ると、女子区画側の掲示板前に、何人もの生徒が集まっている。
普段ならすぐに自室へ戻る時間だが、
今日は皆、貼り出されたばかりの紙を見上げていた。
メルディは、鞄の中で菓子箱が傾かないよう、片手でそっと支えながら近づく。
「何の通知ですか?」
近くにいた女子生徒へ尋ねる。
「1年生の学年集会です。明日の放課後、大講堂で実習の内容を発表するみたいですよ」
メルディは、人の間から掲示へ目を向けた。
大きな文字で、簡潔な内容が記されている。
――1年生学年集会。
――翌日放課後、大講堂にて実施。
――学年実習の詳細、および実習班の編成方法を発表する。
周囲では、女子生徒たちが早くも話し始めていた。
「班って、自分たちで決めるのかな」
「学院側が指定するんじゃない?」
「仲のいい人と組めたらいいけど……」
メルディは、最後の一文を静かに見つめた。
実習班。
誰かと組み、共に動く。
聖邦では、いつも自分を中心として人が配置されていた。
守る者、指示へ従う者、治癒を求める者。
同じ立場で並び、互いに補い合う経験は、ほとんどない。
誰と組むことになるのだろう。
ほんの少しだけ、不安があった。
それと同じくらい、小さな期待もあった。
メルディは掲示から視線を外し、自室へ向かう。
歩くたび、鞄の中で菓子箱が小さく揺れる。
その隣には、薬草の包みと、小さな青い花が収められていた。
そして菓子箱には、最後の1つだけが残っている。
明日まで残せるかどうかは、まだ分からなかった。




