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第40話 昨日より少し先へ

早朝。


学院の外周路には薄い霧が残り、

木々の隙間から差し込む朝日が、濡れた白石の道を淡く照らしていた。


俺は速度を抑え、一定の歩幅で走っている。


目的は、速さではない。


呼吸の乱れ方。地面を踏んだ時の脚への負担。

走り終えた後、疲労がどれほど身体へ残るのか。


アトラス根を飲む前と比べ、何が変わったのかを確かめるための鍛錬だった。


外周路を1周した後、そのまま近くの個人演習場へ入る。


息は乱れ、胸も脚も熱を持っていた。

走る速度も、地面を蹴る力も、以前と大きくは変わらない。


双剣は、まだディムローの工房に預けたままだ。

学院から借りた短剣と長剣を抜き、借り物に合わせて組み直した動きを繰り返す。


短剣を出し、半歩ずれる。

必要な時だけ長剣を抜き、無理に受け止めず、身体ごと攻撃の軌道から外れる。


速さも精度も、昨日から急に上がったわけではない。


違ったのは、一度休んだ後だった。


剣を下ろして呼吸を整えると、腕の張りが予想より早く薄れていく。

構え直した剣も、思っていたほど重くなかった。


気のせいかもしれない。


前日の運動量や睡眠時間でも、身体の調子は変わる。

これだけでアトラス根の影響だと断定することはできない。


それでも、もし感じた変化が霊薬によるものなら、

変わり始めているのは負荷を受けた後だ。


疲労から戻るまでの時間が短くなれば、その分だけ鍛錬を積み重ねられる。

その先でようやく、アトラス根によって広がった限界へ近づける。


俺は持ってきた紙へ、走った距離と鍛錬内容、疲労の残り方を簡単に書き留めた。


その時、腹の奥が大きく鳴った。

静かな演習場に、思った以上の音が響く。


「……さっき食べたばかりなんだけどな」


寮を出る前に、硬い保存用パンを1つ食べている。

普段なら、朝食までそれで十分だった。


今は、何も食べていない時よりも空腹だった。

身体の内側に大きな空洞があり、

入れたものが片端から消えていくような感覚がある。


紙の最後へ、新しい項目を書き加えた。


異常な空腹。



中央食堂は、朝から多くの生徒で賑わっていた。


長机にはクラスも学年も異なる生徒たちが集まり、

食事をしながら課題や授業について話している。


俺は配膳口で、パンと卵、肉と野菜のスープを受け取った。


学院へ来てから何度か利用しているが、普段は基本食だけで足りている。

腹が満ちるまで食べる習慣が、そもそもなかった。


次に食べられる保証がないなら、保存できるものは残しておく。

空腹かどうかではなく、動けるだけの量を食べる。


物心がついた頃から染みついた癖だった。


だが今日は、食べ終えても腹の底が満たされない。


通常のおかわりまでは学院側の負担に含まれている。

パンとスープを追加し、それも食べ終えたが、まだ足りなかった。


再び席を立とうとしたところで、声をかけられる。


「ユアンくん、今日すごく食べるね」


盆を抱えたミリアスが立っていた。

その隣には、紙束へ視線を落としたディムローもいる。


「そうか?」


「前に食堂で見た時は、基本の分だけで終わってなかった?」


「よく見てるな」


「同じ食堂にいれば、なんとなく目に入るよ」


ミリアスは当然のように向かいへ座り、ディムローもその隣へ腰を下ろした。

彼が持っている紙には、細かな線と文字が端まで書き込まれている。


「それは?」


「剣の内部構造。まだ仮だけど」


ディムローは紙をこちらへ向けかけ、途中で手を止めた。


「いや、まだ見せられる段階じゃない」


「まとまったら見せてくれ」


「気にならないの?」


「気にはなる。でも、途中で俺が余計なことを言うより、まずは君の案を見たい」


ディムローは紙を見下ろし、わずかに口元を緩めた。


「まとまるか、まだ分からないけど」


「まとまらなかったら一緒に考える。使い方についてなら、俺も意見を出せる」


「……それで十分か」


ディムローは紙束を裏返し、ようやく食事へ手を伸ばした。

ミリアスが、俺の前に重なった空の皿を見る。


「それで、急にどうしたの?」


「アトラス根の影響かもしれない」


「食欲まで増える霊薬だっけ?」


「本来は違うらしい。俺の体質へ使った記録が少ないから、どんな反応が出るかは分からないって言われた」


「魔力がないから?」


「ああ」


俺は再び配膳口へ視線を向けた。


「通常のおかわりって、何回までなんだ?」


「普通は、そこを気にする前にお腹いっぱいになると思うよ」


ミリアスの言葉に、配膳口の職員が遠くから頷いた。

どうやら正解らしい。


「追加料金を払えば、まだ食べられるよな」


「ユアンくん、お金は大丈夫なの?」


「最低限はある」


王家の推薦枠によって学費や寮費、基礎教材の費用は賄われている。

少額の生活支援金もあるため、追加分を払えないわけではない。


ただ、支援金には限りがあり、

双剣の加工にどれほどの費用が必要になるかも分からない。

毎朝の食事だけで使い切るわけにはいかなかった。


考えていると、俺の隣へ別の盆が置かれる。


「必要な食事を減らすべきではありません」


メルディだった。

席へ着くなり、俺の前に並んだ皿へ視線を向ける。


「今朝、鍛錬をしましたか?」


「軽く走って、剣の動きを確認した」


「それで、普段より空腹になったのですね」


「たぶん」


メルディは少し考えてから言った。


「もし身体の修復が普段より早まっているなら、その分だけ多くの栄養を消費している可能性があります」


「食べれば問題ないか?」


「食べれば無理をしてよい、という意味ではありません」


答えが早かった。


ミリアスが小さく笑う。


「先に言われたね」


「まだ何も言ってない」


「言おうとしていた顔でした」


メルディにまで言われ、反論を諦めた。


「この食欲も、薬学・医療研究棟へ報告した方がいいか?」


「はい。次の検査では必ず伝えてください。それまでは空腹を我慢せず、水分も取ること。それから、鍛錬を急に増やさないでください」


「分かってる」


「守ってくださいね」


「善処するよ」


「それは守らない方の返事だと前にお伝えしました」


ミリアスが声を上げて笑い、ディムローも紙束の陰でわずかに肩を揺らした。


周囲では、Aクラスの生徒たちが課題について話し、

少し離れた席ではBクラスの生徒が教官への不満を漏らしている。

上級生らしい少女がそれを聞きつけ、朝から説教を始めていた。


そんな当たり前のざわめきの中へ、自分も少しずつ混ざり始めている。


「そういえば」


ミリアスがスープを飲みながら言った。


「今月末の学年実習、何をするんだろうね」


「昨日のホームルームで言っていたやつか」


「そう。集合日と準備する装備だけで、内容は後から発表するって」


「大演習迷宮とは別なのか?」


「同じなら、そう言うと思うけど」


ディムローが紙束から顔を上げた。


「点検表に、携帯灯や防湿布、狭い場所で使う通信具が入っていた」


「地下?」


「地下とは限らない。でも、普通の野外実習には使わない物が多い」


ミリアスの目が輝く。


「地下遺跡とか?」


「決まったわけじゃない」


「でも、ありそうじゃない?」


メルディはわずかに首を傾げた。


「1年生を地下へ入れるなら、教官もかなり多く同行するはずです」


「シルンならやりそうだけどね」


ミリアスは楽しそうだった。


場所も内容も伏せられた、1年生全体実習。


地下を連想させる装備。

詳細を直前まで明かさない教官たち。


俺には、ろくでもない予感しかしなかった。



魔法災害対処論の教室は、一般的な講義室とは造りが違っていた。


机は数人ずつ向かい合うように並べられ、

壁には地形図や避難経路図が掲示されている。


席と班は、教官側であらかじめ指定されていた。

俺の隣にはミリアス。向かいには、アルトス・サランが座っている。


やがて、教壇へ40代ほどの女性教官が立った。

短い黒髪に、装飾の少ない教官服。右の頬から首元へ、薄い傷痕が伸びている。


教官が術式板へ地下施設の地図を映し出した。


細い通路と複数の部屋。

中央では赤い印が点滅し、離れた場所には崩落地点と、

負傷者を示す4つの印がある。


最も奥の1つだけが赤く点滅し、残る3つは黄色で表示されていた。


「今日扱うのは、閉鎖環境で発生した魔力災害です」


教官が説明を始める。


「地下研究施設で触媒が破損し、外部マナを吸収し続けています。周囲の術式へ干渉が広がり、通路の一部が崩落。内部には負傷者が4人。魔力源に近い1人は重傷で、残る3人は現時点では自力で移動できます」


使用可能な出口は2つ。魔力濃度が高く、通過が危険な区画もある。


「各班で救出手順を組み立てなさい。制限時間は15分。全員を助ける案だけが、正解とは限りません」


教室がざわつき、ミリアスから笑みが消えた。


「全員を助けなくてもいいんですか?」


「救助者まで全滅すれば、救える人数は0になります」


教官は淡々と答える。


「何を優先し、どこまで危険を受け入れるのか。それも災害対処です。始めなさい」


アルトスが地図を見下ろす。


「時間が短い。先に役割を分けよう」


彼は負傷者と魔力源の位置を確認し、続けた。


「俺は魔力源の停止手順を整理する。ミリアスは、通路の補強と救助に使える属性を考えてくれ。ユアンは別経路の有無と、移動上の危険を洗い出してほしい。異論は?」


「今はない」


「私も大丈夫」


役割が決まると、アルトスはすぐに地図へ線を引いた。


「基本方針は、魔力源の停止を優先する。漏出が続く中で救助を始めれば、被害が拡大する」


「でも、この人は重傷なんだよね」


ミリアスが、赤く点滅する印を指す。


「魔力源を止めてから向かったら、間に合わないかもしれない」


「救助を優先して暴走が進めば、残る3人まで失う」


「水と土で通路を補強して、風で空気を流せば、短時間なら入れると思う」


アルトスは地図上の危険区画を見る。


「周囲の術式に干渉が出ている。そこで3属性を同時に維持できる保証はない」


「短時間ならできると思う」


「できるかどうかだけの問題じゃない。途中で1つでも崩れれば、通路内の全員が巻き込まれる」


2人とも間違ってはいない。


アルトスは災害の拡大を止めようとしている。

ミリアスは、今すぐ失われる命を見ていた。


俺は負傷者と魔力源、崩落地点の位置を見比べる。


「この危険区画を通らなければ、魔力源には行けないのか?」


「地図上ではな」


「隣の部屋から壁を抜ければ、別の経路を作れるかもしれない」


アルトスが眉を寄せる。


「その壁が崩落を支えている可能性もある。破壊すれば、通路ごと落ちるぞ」


「だから、先に調べる」


俺は壁の両側を指した。


「俺が音と空気の流れを確認する。ミリアスは土と風で、壁の厚さや、その先に空間があるか探れないか?」


ミリアスが地図を覗き込む。


「詳しい構造までは無理でも、厚さと空洞の有無くらいなら分かると思う」


「魔力の配管が通っていたら?」


アルトスが尋ねる。


「その時は壊さない。無理なら、君の案へ戻る」


「確認にも時間がかかる」


「でも、別経路が作れれば、救助と魔力源の停止を同時に進められるよ」


ミリアスの言葉を聞き、アルトスは地図へ視線を戻した。


数秒後、資料の端へ新しい線を書き込む。


「確認は30秒以内だ。安全を判断できなければ、予定どおり魔力源の停止を優先する」


「分かった」


俺たちは制限時間いっぱいまで、手順を組み直した。


提出した案は、完璧ではない。


壁の内部を調べられる範囲には限界があり、負傷者を運ぶ人員も不足している。

魔力源を停止するまでに、どれほど時間がかかるかも不明だった。


教官は各班の案を確認した後、俺たちの地図を指す。


「壁を抜く案は、救助時間を縮める可能性があります。ただし、構造や内部の術式を十分に確認できなければ、崩落と魔力漏出を広げるだけです」


続いて、教室全体へ視線を向けた。


「現場では、必要な情報がすべて揃っていることの方が珍しい。最初の案を正しいと決めつけず、状況に応じて捨てられるようにしてください」


術式板から地下研究施設の地図が消える。


代わりに映し出されたのは、湿った石造りの通路だった。


自然の洞窟とも、人の手で造られた建物とも違う。

通路は途中からあり得ない角度へ折れ曲がり、

進んだはずの者を同じ場所へ戻している。


青白く発光する植物。

見たことのない魔獣の影。

わずかに歪んだ空間。


「閉鎖環境で発生する災害には、地下研究施設や遺跡、鉱山などがあります」


教官が映像を見上げる。


「その中でも、最も予測が難しいものがダンジョンです」


教室の空気が変わった。


言葉自体は、俺もこれまでに何度か耳にしたことがある。


だが、何がダンジョンと呼ばれ、

どのような危険があるのかを正式に聞くのは初めてだった。


内部構造が外の地形と一致せず、時間とともに変化する。

内部では魔獣や特殊な素材が確認されているが、発生原因は分かっていない。


教官は概要だけを説明し、映像を閉じた。


「詳しい構造と災害事例は、次回以降に扱います」


講義終了の鐘が鳴り、生徒たちが立ち上がり始める。


教室のあちこちで、

今しがた聞いたばかりのダンジョンについて会話が始まっていた。


俺も席を立ちながら、消えた映像を思い返す。


ダンジョン。


まだ名前と概要を聞いただけだ。


それでも、

あり得ない方向へ折れ曲がっていたあの通路だけが、妙に頭から離れなかった。


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