表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/58

第39話 広がったもの

工房を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。

高い窓から伸びた橙色の光が、白石の床を長く染めている。


双剣は、しばらく戻らない。腰にあるのは、学院から借りた短剣と長剣だけだ。

それでも、工房へ来る前ほど頼りなくは感じなかった。


元へ戻すのではなく、次の形へ進める。


身体も、剣も。


あとは、自分が追いつけばいい。


俺は寮へ戻るため、中央棟へ続く回廊へ向かった。


希少素材庫のある区画と、魔導工房のある区画が合流する分岐へ差しかかった時、

前方に銀色の髪が見えた。


ルビア・フォルテア。


彼女も、こちらへ向かって歩いていた。

ただ、急いで寮へ戻る者にしては、その歩みは妙にゆっくりだった。


その手に長杖はない。


腰まで流れる銀髪と、黒紺の制服。普段と変わらない姿なのに、

手元に杖がないだけで、どこか違って見えた。

おそらく、選んだ素材を組み込むために預けたのだろう。


俺たちは互いに気づいた。


ルビアの足が、ほんのわずかに緩む。

俺も歩みを止めるほどではない速さで近づき、回廊の中央で自然と向かい合った。


「報酬は受け取ったの?」


ルビアが先に尋ねた。


「ああ。アトラス根も飲んだ」


赤い瞳が、わずかに俺の全身をなぞる。


「見たところ、何も変わっていないわね」


「すぐに強くなる薬じゃないからな」


「知っているわ。身体が成長できる限界を広げる霊薬でしょう。飲んだだけで満足しているなら、何の意味もないものよ」


「分かってる。明日、検査で問題がなければ鍛錬を始める」


「検査を受ける前に始めたりはしないでしょうね」


「ああ」


「今、少し間があったわ」


「気のせいだ」


「そういうことにしておいてあげる」


呆れたような声だった。

けれど、以前のような刺す冷たさはなかった。


俺は、彼女の空いた手元へ視線を向ける。


「君の杖は?」


ルビアも、自分の右手へ一度だけ目を落とした。


「素材を組み込むために預けたわ」


「何のための素材だ?」


短い沈黙があった。

答えづらい質問だったのか。

それとも、どこまで話すかを選んでいるのか。


ルビアは前を向いたまま答えた。


「炎を強くするためよ」


それだけだった。


素材の名も、どのように作用するのかも、何を代償にするのかも口にしない。


俺にも、追及する理由はなかった。

まだ、何でも聞ける関係ではない。


「君も、強くなるためのものを選んだのか」


「当然でしょう」


迷いのない返答だった。

似た言葉を、前にも聞いた気がした。


もっと強くなる。まだ足りない。誰にも負けない力が必要だと。


前の世界で、彼女も何度か似た言葉を口にしていた。

そのたび、俺は止めるべきか、隣で支えるべきかを迷った。


けれど、目の前にいる彼女へ、その記憶を重ねてはいけない。


今のルビアが何を選び、何を考えたのか。

それを知りもしないうちに、前の彼女と同じだと決めつけることはできなかった。


同じ魂であっても、今ここにいる彼女には、俺の知らない時間がある。


「そうか」


俺はそれだけ答えた。


ルビアが、横目でこちらを見る。


「それだけ?」


「他に何か言ってほしかったのか?」


「別に。あなたなら、もっと余計なことを聞くと思っただけよ」


「聞いたところで、全部話す気はないんだろ」


「よく分かっているじゃない」


「少しはな」


ルビアの眉がわずかに動いたが、それ以上は何も言わなかった。


そのまま彼女は歩き出す。


こういう時は、自然と歩調を合わせるものだと思っていた。


けれど、ルビアの足取りは思ったより速い。

隣を歩く相手へ合わせることに、慣れていないようだった。


俺は少しだけ歩幅を広げ、その横へ並ぶ。


寮へ戻る方向は同じだ。

なら、隣を歩いていても不自然ではない。


そういうことにしておいた。


回廊には、寮や別の講義棟へ戻る生徒たちの姿もあった。


すれ違う者の多くが、一度はルビアへ視線を向ける。


正面から見つめ続ける者はいない。

目が合う前に慌てて逸らすか、通り過ぎてから、もう一度だけ振り返る。


少し先を歩いていた女子生徒たちの声が聞こえた。


「今の人、ルビア・フォルテアさんだよね」


「すごく綺麗……」


「髪、本当に銀色なんだ」


声を潜めているつもりなのだろうが、静かな回廊ではこちらまで届いていた。


ルビアは聞こえていないように歩き続ける。

おそらく、こうした視線には慣れているのだろう。


ふと、ルビアの視線が俺の腰へ落ちる。


学院備品の短剣と長剣。

工房へ行く前から下げていたものだが、彼女はそれが借り物だと知っている。


「あなたの剣は、まだ返っていないのね」


「再設計することになった」


ルビアがこちらを見る。


「再設計?」


「今のまま直しても、また同じ壊れ方をするらしい」


「壊れる前提で使うつもりなの?」


「壊さないように作り直す」


「なら、性能を落とすの?」


「そのつもりもない」


赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなった。


「随分と都合のいい注文ね」


「ディムローにも似たようなことを言われた」


「当然でしょう」


「壊れないだけの剣が欲しいわけじゃない。必要なものへ触れられなければ、持つ意味がない」


そこで一度、言葉を切る。


「でも、一度届いただけで壊れる剣でも足りない。必要な時まで、何度でも使えるものにしたい」


ルビアは何も言わなかった。

その右手が、何も握っていないまま、ほんのわずかに閉じられる。


普段なら、そこには灰白色の長杖がある。

今は加工のために預けられ、手元にはない。


「欲張りね」


やがて、ルビアが言った。


「ああ」


「否定しないの?」


「どちらかを諦めて、次に間に合わない方が困る」


ルビアは前を向く。


「次、ね」


小さな声だった。


彼女の歩調が、ほんのわずかに落ちた。


俺が何を想定し、なぜ次が来ると決めているのか。

問いかける言葉を探したようにも見えた。

だが、ルビアはそれ以上何も聞かなかった。


しばらくして、回廊の先に、男子区画と女子区画へ向かう道の分岐が見えてきた。


ルビアが足を止める。


「では、次に見る時は、今より少しはましな剣になっているのね」


「そのつもりだ」


「そう」


ルビアは女子区画へ続く道へ足を向ける。

数歩進んだところで、振り返らないまま言った。


「なら、私も今より強くなっているわ」


「知ってる」


ルビアの足が止まった。

ほんの一瞬だけ。


「……知ったように言わないで」


振り返らない声が、夕方の回廊へ落ちる。


胸の奥を、細い刃でなぞられたような気がした。


俺は知っている。


あの子が、どれだけ負けず嫌いだったのか。

どれだけ傷ついても、最後には立ち上がったことも。


けれど、今の彼女を知っているわけではない。


「……悪い」


ルビアはそれ以上何も言わず、再び歩き出した。

銀髪が夕方の光を受けて揺れる。


その背中が角を曲がり、見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。


同じ日に、俺たちはそれぞれ強くなるためのものを選んだ。

その選択が何を与え、何を削るのか。


この時の俺は、まだ何も知らなかった。



寮の自室へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。


借り物の剣を外し、机の横へ立てかける。

制服を緩めたところで、腹の奥から低い音が鳴った。


空腹だった。


だが、胃の中が空いているというより、

身体の内側から何かを要求されているような感覚に近い。


机に残っていた保存食を口へ運ぶ。


1つでは足りず、2つ目にも手を伸ばした。

結局、残っていた分をすべて食べ、水を飲んで、ようやく異様な空腹が弱まった。


「……アトラス根のせいか?」


記録の少ない体質だとは聞いていた。

魔力回路を持たない人間が服用した場合、

どのような反応が起きるかは分からない、と。


ただ、今のところ腹が減っただけだ。


明日の検査で話せばいい。


そう考えて上着を脱いだ時、脇腹の傷が妙にむず痒んだ。

包帯の下へ熱がこもっている。


痛みが増したわけではない。

ただ、皮膚の奥で何かが絶えず動いているような、落ち着かない感覚があった。


右の掌に残る爪痕にも、同じ熱がある。

傷を確かめても、夜の薄い魔導灯では、はっきりした変化までは分からなかった。


発熱や吐き気があるわけでもない。

明日の検査で聞けばいい。


俺は包帯を巻き直し、魔導灯を消して寝台へ横になった。


大演習迷宮の疲労。


アトラス根。


双剣の再設計。


ルビアとの会話。


目を閉じると、夕方の回廊で聞いた声が蘇った。


「知ったように言わないで」。


その通りだった。


彼女があの子だと疑っていない。


けれど、俺の知っている彼女だけを見ていれば、今のルビアを見失う。

胸の奥に残った痛みを抱えたまま、俺の意識はいつの間にか眠りへ沈んでいた。



翌朝。


目を覚ました瞬間、最初に感じたのは空腹だった。

腹の奥が、何日もまともに食べていないように空っぽになっている。


それ以上に違和感があったのは、身体の軽さだ。


昨日まで全身へ薄く残っていた疲労が、予想以上に引いていた。


肩を回し、背中を伸ばす。

脚へ力を入れても、筋肉の張りは残っているものの、

痛みの多くはかなり弱まっていた。


俺は寝台から降り、脇腹の包帯を外した。


傷は消えていない。


だが、昨日まで赤く開いていた部分は、

すでに細い線へ変わり始めていた。周囲の腫れも引いている。


指先で、その線の横をなぞる。

昨日なら、それだけで傷が引きつった。


今は、薄い痛みが奥へ残るだけだった。

右掌の爪痕も、わずかな赤みを残すだけになっている。


治癒魔法は受けていない。

回復薬も飲んでいない。


眠っただけだ。


「……早すぎる」


傷の治り方について詳しくなくても、それくらいは分かる。

少なくとも、昨日までの俺の身体なら、1日でここまで回復することはなかった。


頭に浮かぶ原因は、アトラス根しかない。


俺は制服へ着替え、普段より多めに朝食を取ってから、

薬学・医療研究棟へ向かった。



昨日と同じ個室で、細い眼鏡をかけた薬師が資料へ目を落としていた。

俺の姿を見ると、手元の記録板を持ち上げる。


「時間どおりだな。体調は?」


「傷の治りが、妙に早い気がします」


薬師の指が止まった。


「妙に、とは?」


俺は、昨夜の空腹と傷のむず痒さ、身体の内側に感じた熱について話した。

薬師は最後まで黙って聞き、椅子から立ち上がる。


「見せろ」


上着を捲り、包帯を外す。


薬師は脇腹と右掌を確認した後、薄い検査板をかざした。

青白い光が身体をなぞり、空中に、昨日と今朝の人体図が並ぶ。


昨日は脇腹や肩、脚へ散っていた赤い印が、

今朝の図では目に見えて薄くなっていた。


薬師の表情から、見間違いではないことだけは分かった。


「治癒魔法は?」


「受けていません」


「回復薬も使っていないな?」


「はい」


薬師は2つの記録をしばらく見比べた。


「痛みが薄れただけではない。組織の修復そのものが進んでいる」


「アトラス根の効果ですか?」


「現時点では、そう考えるのが自然だ」


薬師は検査板へ目を落とした。


「アトラス根は、身体が成長し、損傷を修復する際の上限と効率へ作用する霊薬だ。通常の服用例でも、組織の修復がわずかに活発になることはある」


「今回は、それが強く出た?」


「可能性はある」


薬師は俺を見る。


「君には魔力回路がない。通常の服用者とは、霊薬が身体へ定着する過程そのものが違ったのかもしれん。ただし、まだ仮説だ」


「傷が治りやすくなった可能性はあるんですね」


「昨日の記録と比べれば、回復が明らかに速い。どの程度の変化かは、数週間追わなければ判断できん」


薬師は新しい記録用紙を取り出した。


「空腹も、おそらく同じ反応だろう。傷を治すには材料がいる。無から肉を作っているわけではない」


「食べれば問題ないと?」


「軽傷のうちはな。食事と休息が足りなければ、修復も止まる」


薬師の声が少し低くなる。


「それと、表面が塞がったからといって、内部まで正しく治っているとは限らん。重い傷は必ず治療師へ見せろ」


「分かりました」


「治りが速くなったから、以前より無茶ができるなどと考えていないだろうな」


「今は考えていません」


「今は、をつけるな」


鋭く返された。


薬師は深く息を吐き、検査記録へ何かを書き込む。


「大きな損傷では、身体が強制的に休息を取ろうとして、強い眠気が出る可能性もある。まだ仮説だが、食事と睡眠は削るな」


「眠らない方が、長く鍛えられます」


「その結果、身体が成長しなければ意味がない」


正論だった。


「アトラス根で広げた成長域を、睡眠不足で自分から潰すつもりか?」


返す言葉がなかった。


「今日は軽い運動までだ。痛みや疲労が出た時点で止めろ」


「剣を振る程度なら構いませんか」


「軽くならな」


「では――」


「何回までかは聞くな」


先に遮られた。


「回数を決めれば、痛みがあってもそこまでは振るつもりだろう」


否定できなかった。


薬師は最後にもう一度、昨日と今朝の記録へ目を落とす。


「当面は定期的に検査する。珍しい反応ではあるが、幸運と呼べるかどうかは、君の使い方次第だ」


俺は小さく頷いた。


傷は消えていない。

痛みも残っている

無傷になったわけではない。


ただ、昨日までより少しだけ早く、元の状態へ戻ろうとしている。


それでも。


広がったのは、強くなれる限界だけではなかった。

壊れた後、もう一度立ち上がるまでの力まで、俺の身体には加わり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ