第39話 広がったもの
工房を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。
高い窓から伸びた橙色の光が、白石の床を長く染めている。
双剣は、しばらく戻らない。腰にあるのは、学院から借りた短剣と長剣だけだ。
それでも、工房へ来る前ほど頼りなくは感じなかった。
元へ戻すのではなく、次の形へ進める。
身体も、剣も。
あとは、自分が追いつけばいい。
俺は寮へ戻るため、中央棟へ続く回廊へ向かった。
希少素材庫のある区画と、魔導工房のある区画が合流する分岐へ差しかかった時、
前方に銀色の髪が見えた。
ルビア・フォルテア。
彼女も、こちらへ向かって歩いていた。
ただ、急いで寮へ戻る者にしては、その歩みは妙にゆっくりだった。
その手に長杖はない。
腰まで流れる銀髪と、黒紺の制服。普段と変わらない姿なのに、
手元に杖がないだけで、どこか違って見えた。
おそらく、選んだ素材を組み込むために預けたのだろう。
俺たちは互いに気づいた。
ルビアの足が、ほんのわずかに緩む。
俺も歩みを止めるほどではない速さで近づき、回廊の中央で自然と向かい合った。
「報酬は受け取ったの?」
ルビアが先に尋ねた。
「ああ。アトラス根も飲んだ」
赤い瞳が、わずかに俺の全身をなぞる。
「見たところ、何も変わっていないわね」
「すぐに強くなる薬じゃないからな」
「知っているわ。身体が成長できる限界を広げる霊薬でしょう。飲んだだけで満足しているなら、何の意味もないものよ」
「分かってる。明日、検査で問題がなければ鍛錬を始める」
「検査を受ける前に始めたりはしないでしょうね」
「ああ」
「今、少し間があったわ」
「気のせいだ」
「そういうことにしておいてあげる」
呆れたような声だった。
けれど、以前のような刺す冷たさはなかった。
俺は、彼女の空いた手元へ視線を向ける。
「君の杖は?」
ルビアも、自分の右手へ一度だけ目を落とした。
「素材を組み込むために預けたわ」
「何のための素材だ?」
短い沈黙があった。
答えづらい質問だったのか。
それとも、どこまで話すかを選んでいるのか。
ルビアは前を向いたまま答えた。
「炎を強くするためよ」
それだけだった。
素材の名も、どのように作用するのかも、何を代償にするのかも口にしない。
俺にも、追及する理由はなかった。
まだ、何でも聞ける関係ではない。
「君も、強くなるためのものを選んだのか」
「当然でしょう」
迷いのない返答だった。
似た言葉を、前にも聞いた気がした。
もっと強くなる。まだ足りない。誰にも負けない力が必要だと。
前の世界で、彼女も何度か似た言葉を口にしていた。
そのたび、俺は止めるべきか、隣で支えるべきかを迷った。
けれど、目の前にいる彼女へ、その記憶を重ねてはいけない。
今のルビアが何を選び、何を考えたのか。
それを知りもしないうちに、前の彼女と同じだと決めつけることはできなかった。
同じ魂であっても、今ここにいる彼女には、俺の知らない時間がある。
「そうか」
俺はそれだけ答えた。
ルビアが、横目でこちらを見る。
「それだけ?」
「他に何か言ってほしかったのか?」
「別に。あなたなら、もっと余計なことを聞くと思っただけよ」
「聞いたところで、全部話す気はないんだろ」
「よく分かっているじゃない」
「少しはな」
ルビアの眉がわずかに動いたが、それ以上は何も言わなかった。
そのまま彼女は歩き出す。
こういう時は、自然と歩調を合わせるものだと思っていた。
けれど、ルビアの足取りは思ったより速い。
隣を歩く相手へ合わせることに、慣れていないようだった。
俺は少しだけ歩幅を広げ、その横へ並ぶ。
寮へ戻る方向は同じだ。
なら、隣を歩いていても不自然ではない。
そういうことにしておいた。
回廊には、寮や別の講義棟へ戻る生徒たちの姿もあった。
すれ違う者の多くが、一度はルビアへ視線を向ける。
正面から見つめ続ける者はいない。
目が合う前に慌てて逸らすか、通り過ぎてから、もう一度だけ振り返る。
少し先を歩いていた女子生徒たちの声が聞こえた。
「今の人、ルビア・フォルテアさんだよね」
「すごく綺麗……」
「髪、本当に銀色なんだ」
声を潜めているつもりなのだろうが、静かな回廊ではこちらまで届いていた。
ルビアは聞こえていないように歩き続ける。
おそらく、こうした視線には慣れているのだろう。
ふと、ルビアの視線が俺の腰へ落ちる。
学院備品の短剣と長剣。
工房へ行く前から下げていたものだが、彼女はそれが借り物だと知っている。
「あなたの剣は、まだ返っていないのね」
「再設計することになった」
ルビアがこちらを見る。
「再設計?」
「今のまま直しても、また同じ壊れ方をするらしい」
「壊れる前提で使うつもりなの?」
「壊さないように作り直す」
「なら、性能を落とすの?」
「そのつもりもない」
赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
「随分と都合のいい注文ね」
「ディムローにも似たようなことを言われた」
「当然でしょう」
「壊れないだけの剣が欲しいわけじゃない。必要なものへ触れられなければ、持つ意味がない」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、一度届いただけで壊れる剣でも足りない。必要な時まで、何度でも使えるものにしたい」
ルビアは何も言わなかった。
その右手が、何も握っていないまま、ほんのわずかに閉じられる。
普段なら、そこには灰白色の長杖がある。
今は加工のために預けられ、手元にはない。
「欲張りね」
やがて、ルビアが言った。
「ああ」
「否定しないの?」
「どちらかを諦めて、次に間に合わない方が困る」
ルビアは前を向く。
「次、ね」
小さな声だった。
彼女の歩調が、ほんのわずかに落ちた。
俺が何を想定し、なぜ次が来ると決めているのか。
問いかける言葉を探したようにも見えた。
だが、ルビアはそれ以上何も聞かなかった。
しばらくして、回廊の先に、男子区画と女子区画へ向かう道の分岐が見えてきた。
ルビアが足を止める。
「では、次に見る時は、今より少しはましな剣になっているのね」
「そのつもりだ」
「そう」
ルビアは女子区画へ続く道へ足を向ける。
数歩進んだところで、振り返らないまま言った。
「なら、私も今より強くなっているわ」
「知ってる」
ルビアの足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……知ったように言わないで」
振り返らない声が、夕方の回廊へ落ちる。
胸の奥を、細い刃でなぞられたような気がした。
俺は知っている。
あの子が、どれだけ負けず嫌いだったのか。
どれだけ傷ついても、最後には立ち上がったことも。
けれど、今の彼女を知っているわけではない。
「……悪い」
ルビアはそれ以上何も言わず、再び歩き出した。
銀髪が夕方の光を受けて揺れる。
その背中が角を曲がり、見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
同じ日に、俺たちはそれぞれ強くなるためのものを選んだ。
その選択が何を与え、何を削るのか。
この時の俺は、まだ何も知らなかった。
◇
寮の自室へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
借り物の剣を外し、机の横へ立てかける。
制服を緩めたところで、腹の奥から低い音が鳴った。
空腹だった。
だが、胃の中が空いているというより、
身体の内側から何かを要求されているような感覚に近い。
机に残っていた保存食を口へ運ぶ。
1つでは足りず、2つ目にも手を伸ばした。
結局、残っていた分をすべて食べ、水を飲んで、ようやく異様な空腹が弱まった。
「……アトラス根のせいか?」
記録の少ない体質だとは聞いていた。
魔力回路を持たない人間が服用した場合、
どのような反応が起きるかは分からない、と。
ただ、今のところ腹が減っただけだ。
明日の検査で話せばいい。
そう考えて上着を脱いだ時、脇腹の傷が妙にむず痒んだ。
包帯の下へ熱がこもっている。
痛みが増したわけではない。
ただ、皮膚の奥で何かが絶えず動いているような、落ち着かない感覚があった。
右の掌に残る爪痕にも、同じ熱がある。
傷を確かめても、夜の薄い魔導灯では、はっきりした変化までは分からなかった。
発熱や吐き気があるわけでもない。
明日の検査で聞けばいい。
俺は包帯を巻き直し、魔導灯を消して寝台へ横になった。
大演習迷宮の疲労。
アトラス根。
双剣の再設計。
ルビアとの会話。
目を閉じると、夕方の回廊で聞いた声が蘇った。
「知ったように言わないで」。
その通りだった。
彼女があの子だと疑っていない。
けれど、俺の知っている彼女だけを見ていれば、今のルビアを見失う。
胸の奥に残った痛みを抱えたまま、俺の意識はいつの間にか眠りへ沈んでいた。
◇
翌朝。
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは空腹だった。
腹の奥が、何日もまともに食べていないように空っぽになっている。
それ以上に違和感があったのは、身体の軽さだ。
昨日まで全身へ薄く残っていた疲労が、予想以上に引いていた。
肩を回し、背中を伸ばす。
脚へ力を入れても、筋肉の張りは残っているものの、
痛みの多くはかなり弱まっていた。
俺は寝台から降り、脇腹の包帯を外した。
傷は消えていない。
だが、昨日まで赤く開いていた部分は、
すでに細い線へ変わり始めていた。周囲の腫れも引いている。
指先で、その線の横をなぞる。
昨日なら、それだけで傷が引きつった。
今は、薄い痛みが奥へ残るだけだった。
右掌の爪痕も、わずかな赤みを残すだけになっている。
治癒魔法は受けていない。
回復薬も飲んでいない。
眠っただけだ。
「……早すぎる」
傷の治り方について詳しくなくても、それくらいは分かる。
少なくとも、昨日までの俺の身体なら、1日でここまで回復することはなかった。
頭に浮かぶ原因は、アトラス根しかない。
俺は制服へ着替え、普段より多めに朝食を取ってから、
薬学・医療研究棟へ向かった。
◇
昨日と同じ個室で、細い眼鏡をかけた薬師が資料へ目を落としていた。
俺の姿を見ると、手元の記録板を持ち上げる。
「時間どおりだな。体調は?」
「傷の治りが、妙に早い気がします」
薬師の指が止まった。
「妙に、とは?」
俺は、昨夜の空腹と傷のむず痒さ、身体の内側に感じた熱について話した。
薬師は最後まで黙って聞き、椅子から立ち上がる。
「見せろ」
上着を捲り、包帯を外す。
薬師は脇腹と右掌を確認した後、薄い検査板をかざした。
青白い光が身体をなぞり、空中に、昨日と今朝の人体図が並ぶ。
昨日は脇腹や肩、脚へ散っていた赤い印が、
今朝の図では目に見えて薄くなっていた。
薬師の表情から、見間違いではないことだけは分かった。
「治癒魔法は?」
「受けていません」
「回復薬も使っていないな?」
「はい」
薬師は2つの記録をしばらく見比べた。
「痛みが薄れただけではない。組織の修復そのものが進んでいる」
「アトラス根の効果ですか?」
「現時点では、そう考えるのが自然だ」
薬師は検査板へ目を落とした。
「アトラス根は、身体が成長し、損傷を修復する際の上限と効率へ作用する霊薬だ。通常の服用例でも、組織の修復がわずかに活発になることはある」
「今回は、それが強く出た?」
「可能性はある」
薬師は俺を見る。
「君には魔力回路がない。通常の服用者とは、霊薬が身体へ定着する過程そのものが違ったのかもしれん。ただし、まだ仮説だ」
「傷が治りやすくなった可能性はあるんですね」
「昨日の記録と比べれば、回復が明らかに速い。どの程度の変化かは、数週間追わなければ判断できん」
薬師は新しい記録用紙を取り出した。
「空腹も、おそらく同じ反応だろう。傷を治すには材料がいる。無から肉を作っているわけではない」
「食べれば問題ないと?」
「軽傷のうちはな。食事と休息が足りなければ、修復も止まる」
薬師の声が少し低くなる。
「それと、表面が塞がったからといって、内部まで正しく治っているとは限らん。重い傷は必ず治療師へ見せろ」
「分かりました」
「治りが速くなったから、以前より無茶ができるなどと考えていないだろうな」
「今は考えていません」
「今は、をつけるな」
鋭く返された。
薬師は深く息を吐き、検査記録へ何かを書き込む。
「大きな損傷では、身体が強制的に休息を取ろうとして、強い眠気が出る可能性もある。まだ仮説だが、食事と睡眠は削るな」
「眠らない方が、長く鍛えられます」
「その結果、身体が成長しなければ意味がない」
正論だった。
「アトラス根で広げた成長域を、睡眠不足で自分から潰すつもりか?」
返す言葉がなかった。
「今日は軽い運動までだ。痛みや疲労が出た時点で止めろ」
「剣を振る程度なら構いませんか」
「軽くならな」
「では――」
「何回までかは聞くな」
先に遮られた。
「回数を決めれば、痛みがあってもそこまでは振るつもりだろう」
否定できなかった。
薬師は最後にもう一度、昨日と今朝の記録へ目を落とす。
「当面は定期的に検査する。珍しい反応ではあるが、幸運と呼べるかどうかは、君の使い方次第だ」
俺は小さく頷いた。
傷は消えていない。
痛みも残っている
無傷になったわけではない。
ただ、昨日までより少しだけ早く、元の状態へ戻ろうとしている。
それでも。
広がったのは、強くなれる限界だけではなかった。
壊れた後、もう一度立ち上がるまでの力まで、俺の身体には加わり始めていた。




