第13話 初日の終わり
教室を出た瞬間、腰の軽さが気になった。
左の短剣も、右の長剣もない。
いつもなら歩くたびに返ってくる鞘の重みが消え、
たったそれだけで歩幅まで微妙に変わっていた。
剣を抜くつもりがなくても、そこにあるだけで身体の芯が決まる。
今は、その感覚がない。
まるで、自分の輪郭だけが少し薄くなったようだった。
「そんなに不安そうな顔をするな」
前を歩くザルティが言った。
俺は思わず顔を上げる。ザルティは振り返っていない。
それでも、後ろを歩くこちらの様子くらい分かっているらしい。
「顔に出ていましたか」
「出ている。剣士が武器を預けた時の顔だ」
「剣士ではありません」
「魔法使いでもないだろう」
返す言葉がなかった。
隣を歩くディムローが、少しだけこちらを見る。すぐに視線を逸らした。
触媒庫で口にした言葉を、まだ気にしているらしい。
それ、杖にするより……剣に入れた方がいい。
虚環銀へ近づいた時、腰の双剣にも音が伝わった。
それが虚環銀と剣の間に起きた反応なのか、
魔力を持たない俺を介したものなのかは、まだ分からない。
それでもディムローは、その場で剣へ組み込む可能性を口にした。
そして直後に、忘れてくれと言った。
今も、何かを言いかけては飲み込んでいるような顔をしている。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「さっきの話だけど」
ディムローの肩が、分かりやすく跳ねた。
「え、あ、いや。だから、あれは……」
「忘れてほしいなら、忘れたことにする」
ディムローは黙った。
忘れてくれと言ったはずなのに、その表情はどこか納得していないようにも見える。
面倒なのは、あの案そのものではないのだろう。
あれを口にした自分の方なのかもしれない。
「ただ」
俺は続けた。
「俺には必要な話だった」
ディムローが、こちらを見る。
「必要?」
「俺は魔法を撃てない。杖にも反応されなかった。けど、虚環銀へ近づいた時、腰の双剣にも変化があった」
「……それだけで、剣に組み込めるとは限らない」
「そうだな。けど、十分試す理由にはなる」
ディムローは、ほんの少しだけ視線を下げた。
「素材の相性も、剣の構造も、負荷の逃がし方も、ちゃんと見ないと分からない。下手に入れたら刀身が歪むかもしれないし、何も起きないかもしれない。外から取り込んだマナが内部で滞留したら、戦闘中に――」
そこまで言って、ディムローは口を閉じた。
また、言いすぎたと思ったのだろう。
俺は少しだけ笑った。
「やっぱり詳しいな」
「……好きなだけだよ」
その声は、さっきまでより小さかった。
「好きだから、余計なことまで見える」
ザルティがそこで足を止めた。
俺たちも遅れて止まる。
そこは、講義棟の奥にある小さな検査室だった。
工房と呼ぶには狭いが、ただの教室とも違っている。
壁には工具に似た魔導具が並び、中央には白石の検査台が置かれていた。
天井からは細い銀鎖がいくつも垂れ、その先には小さな魔石が結ばれている。
武器や触媒を固定し、反応を調べるための設備なのだろう。
ザルティは扉を開けて中へ入った。
「ここで簡易確認をする。本格的な加工や分解はしない」
俺は、わずかに息を吐いた。
それを見たザルティが片眉を上げる。
「信用がないな」
「いえ」
「ある顔ではない」
「……すみません」
「謝る必要はない。武器を預けるのを嫌がる奴の方が、私はまだ信用できる」
ザルティはそう言い、預かっていた俺の双剣を検査台へ置いた。
ディムローの視線が、再び双剣へ吸い寄せられる。
興味を隠しきれていない。けれど、先ほどほど前のめりではなかった。
手を伸ばしかけて、止める。
それを見たザルティが短く言う。
「触るな」
「はい!」
即答だった。
ザルティが検査台へ手をかざすと、白石の表面に薄い術式が広がった。
青白い線が双剣を包むように巡り、刃に残った傷や柄の歪み、
金属内部へ偏った負荷を光の濃淡として映し出していく。
ディムローが小さく息を呑んだ。
「……一度、応急補修はされてる。刃の欠けと柄の固定は直してある。でも、表面を戻しただけだ。内部の歪みまでは消えてない」
「分かるのか」
「右の長剣は、背の内側へ負荷が偏ってる。たぶん、あの赤い光を流した時のものだ。左の短剣も、根元側に歪みが残ってる。あの時、最初に力へ触れたのはこっちだろ?」
「ああ」
「なら、たぶんそれだ」
ディムローの声が、少しずつ元へ戻っていく。
最初の気まずさが、剣を見るにつれて薄れていくのが分かった。
俺は黙って、検査台の光を見る。
あの時、無傷で済んだわけがない。
剣も。
自分も。
分かっていたつもりだった。
それでも、こうして傷の形を見せられると、胃の奥が少し重くなる。
ザルティは検査結果を確認しながら言った。
「応急処置としては悪くない。だが、この状態で次に同じ規模の攻撃を受ければ、折れる可能性がある」
「……はい」
「それでも使う気だったな」
「他にありませんから」
「いい答えではない」
「分かっています」
「分かっているなら、次までに別の答えを用意しろ」
ザルティの声は厳しかった。
だが、責めているわけではない。これは助言に近いものだった。
俺は頷く。
「虚環銀については、試験使用と加工検討の申請を出す。ただし、許可が下りるまでは触らせない。学院の素材区画にあるものは、学生が勝手に扱っていいものではない」
「はい」
「それと、加工できるかどうかも別問題だ。虚環銀は外部のマナへ干渉する性質を持つ。剣へ組み込むなら、吸収した力が刀身へどんな影響を及ぼすのか、制御できる構造を作れるのか、その両方を調べなければならない」
ディムローが、わずかに顔を上げた。
ザルティはその反応を見逃さない。
「ディムロー」
「はい」
「今の説明の意味は分かるな」
「……分かります」
「なら、確認には付き合え。案を口にした以上、結果を見るところまでは責任を持て」
ディムローは押し黙った。
ザルティは追及しない。
それ以上の説明も求めず、彼自身が返事をするのを待っている。
数秒の沈黙の後、ディムローは小さく頷いた。
「分かりました」
声はまだ頼りない。
けれど、逃げる声ではなかった。
ザルティもそれ以上は何も言わず、検査台へ視線を戻す。
「今日のところは、反応記録と剣の状態確認までにする」
「剣は、いつ返してもらえますか」
俺が尋ねると、ザルティはこちらを見た。
「簡易確認だけでは返せん。反応記録と内部の歪みを調べるまで、両方とも預かる」
正論であることは分かっていたが、それでも簡単には飲み込めなかった。
検査台の上に残された双剣が、妙に遠く見える。
ザルティは俺の表情を確認すると、検査台の横にある棚へ手を伸ばした。
簡素な鞘に収められた短剣と長剣を取り出す。
学院の訓練用備品らしく、どちらも十分に整備されていた。
「代わりだ」
「……借りてもいいんですか」
「返せよ」
「はい」
「一般的な訓練剣だ。お前の戦い方には向いていないだろうが、何も持たないよりはましだ」
俺は借り物の短剣と長剣を受け取り、腰へ下げる。
失われていた重さが戻った。
短剣と長剣という組み合わせだけは同じだった。だが、歩く前から違いが分かる。
重心が違う。
長剣の背の厚みも、短剣の刃を寝かせた時の角度も違う。
俺が受け流すために作らせた剣ではない。
これは武器だ。
だが、俺の剣ではない。
「顔に出ているぞ」
ザルティが言った。
「すみません」
「謝るな。分かっていて渡している」
ザルティは検査台の上の双剣へ視線を落とした。
「勝手にいじることはしない。必要なら加工申請を出す。許可が下りるまでは、このまま預かる」
「お願いします」
ディムローは検査台の上の双剣を見たまま、少しだけ口を開いた。
「その……長剣、ちゃんと戻ると思う」
俺はディムローを見る。
「そうだと助かる」
「いや、戻す。たぶん。俺が、じゃなくて、学院が。いや、俺も関わるなら、できるだけ……」
言葉がまとまっていない。
けれど、言いたいことは分かった。
「頼りにしてる」
俺がそう言うと、ディムローは少しだけ目を見開いた。
「……まだ何もしてない」
「これからするんだろ」
「分からない」
「じゃあ、分かったらでいい」
ディムローは黙った。
それから、小さく頷く。
「……おう」
ザルティはそのやり取りを見ていたが、何も言わなかった。
検査台の術式へ触れ、剣の周囲へ透明な防護膜を展開する。
青白い光が閉じ、俺の双剣が検査台の上へ封じられた。
無意識に腰へ伸びかけた右手が、何もない場所で止まる。
俺は指を握り込み、その手を下ろした。
◇
検査室を出る頃には、廊下を照らす光も少し薄くなっていた。
窓の外では、夕日が学院の塔を赤く染めている。
初日は、まだ終わっていない。
だが、もう終わってほしいと思うくらいには、色々なことが起きすぎた。
入学試験の後、治療室を出た日の夕方。
俺は短い時間だけ、中央棟の一室へ通された。
そこにいたのは、イリス王女だった。
試験場で独断行動に出た理由と、
なぜルビアへ赤い光が向かった瞬間に動けたのかを問われた。
処分はなかった。
むしろ、猶予を与えられた。
それが許しなのか、観察を続けるためなのかは、まだ分からない。
ただ、1つだけ覚えている。
王女は、静かな金の瞳で俺を見て尋ねた。
「次に同じことが起きた時、あなたはまた任務より彼女を優先しますか」
俺は、その場では答えなかった。
答えなかったことが、答えになっていたのかもしれない。
ザルティ教官と別れ、ディムローとも途中で別れた。
俺は借り物の短剣と長剣を腰に下げたまま、1年生寮へ向かう。
1年生寮は、1つの建物というより小さな城に近かった。
白石の壁と黒紺の屋根。中央には大きな共用ホールがあり、
そこから左右へ男子区画と女子区画が分かれている。
同じ建物ではあるが、区画は明確に区切られていた。
夜間の行き来は禁止。深夜帯の男女区画間の移動は、発覚すれば処罰対象になる。
入口の掲示板には、そう書かれている。
ただ、中央共用部を挟んで同じ建物にある以上、完全に断絶しているわけではない。
何か起きた時、女子区画にいるルビアのもとへ辿り着く道がある。
その事実に、わずかに安堵した。
校則を破るつもりはない。
必要がなければ、それでいい。
だが、必要になった時に壁一枚の向こうへ行けないよりは、ずっとましだった。
中央共用部を通る時、俺は一度だけ女子区画へ続く回廊へ目を向けた。
銀髪の姿はない。
探したつもりはなかったが、見つからなかったことだけは妙にはっきり分かった。
寮の職員に案内されながら、部屋割りについて説明を受ける。
Sクラスは一人部屋、Aクラスは二人部屋、Bクラスは三人部屋。
下位クラスほど相部屋の人数が増えるらしい。
露骨ではあるが、シルンは差を隠す学院ではないのだろう。
期待される者も、育成すべき者も、観察すべき者も、
その理由に応じた場所へ置かれる。
俺が与えられた部屋は、予想よりずっと広かった。
寝台。
机。
小さな書棚。
収納棚。
壁に埋め込まれた魔導灯。
窓の外には、学院の塔の1つが見える。
壁も扉も厚く、防音性も高そうだった。
町の安い宿とも、学院へ来るまで使っていた部屋とも、比べ物にならない。
学生の部屋というより、1人用の小さな執務室に近かった。
ただ、どれほど部屋が整っていても、腰の違和感は消えない。
借り物の剣を外し、机の横へ立てかける。
金属音が、いつもの音ではなかった。
同じ剣ではない。
そのことを、身体が何度も訴えている。
もし、今また何かが起きたら。
赤い光。
燃え上がる杖。
誰かの悲鳴。
そこまで考え、俺は息を止めた。
やめよう。
今、考えても仕方がない。
借り物だろうが何だろうが、手元に剣はある。
なら、今できることを確認するしかない。
俺は椅子に座り、机の上へ置かれていた薄い魔導板に触れた。
淡い光が浮かび、履修内容が白銀の文字で表示される。
魔法基礎理論。
血統魔法概論。
魔法災害対処論。
決闘魔法。
魔法も、学問も足りない。
ルビアとの距離は縮まったのかどうかすら分からず、自分の剣も今は手元にない。
初日の終わりに見えたのは、足りないものばかりだった。
それでも。
ここから始めるしかない。
今世でもまた、彼女の隣に立つためには。
俺は魔導板の光を消さず、しばらく4つの文字を見つめていた。
窓の外では、学院の塔に灯りがともり始めている。
借り物の剣。
知らない言葉ばかりの履修表。
広すぎる一人部屋。
そして、まだ返ってこない自分の剣。
初日の終わりは、思っていたよりも静かだった。
けれど、その静けさの中で、俺はようやく理解した。
シルン魔導学院での生活は、もう始まっている。
誰かが待ってくれるわけではない。
足りないままでも、進むしかない。
俺は椅子の背へ身体を預け、深く息を吐いた。
明日から、本当の意味で授業が始まる。
魔導板の文字が切り替わり、翌日の最初の科目が最上段へ浮かび上がった。
『決闘魔法』
魔法を撃てない俺が、最初に立つ教室。
その文字を見た瞬間、嫌な予感だけは、妙にはっきりとしていた。




