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アンセルとフィリアは人目を避けてホールを抜け出した。
そして公爵家の面々が支度部屋として使う小部屋へと向かった。
部屋に入ると、シシアスは既にバルコニーに出ていた。
アンセルは扉の前で足を止め、そっと妹の背を押した。
「シシアス様」
「フィリア」
夜に会うのは初めてだった。
月明かりでも、この人の髪はこんなにも輝くのだなと思った。
「フィリア。綺麗だ。今までで一番」
「ありがとうございます」
「着けてくれたんだね」
そう言ってシシアスはフィリアの髪に触れた。
初めて淑女として髪をまとめたフィリアは、その飾りとしてシシアスから贈られたレースを選んだ。
目を潤ませたシシアスは、向かい合ったフィリアの両手をとった。
「話がある」
「はい」
「婚約が決まった。相手はアルクラース伯爵家のエレイン嬢だ」
「おめでとうございます」
「今日まで、どうしても君に言えなかった」
「シシアス様はお優しいから。お気になさらないで」
「フィリア。私は、君を愛している。心の底から、君だけを」
フィリアの手が震える。
シシアスは慰めるように手の甲を撫でた。
「……私もです、シシアス様。私もあなたを愛しています」
「どうしても私は、君を手放したくない」
「シシアス様……」
「私は君を、妾に迎えたい」
「っ」
震えが止まった。
あるいは、心臓すら。
「妾……?」
「君のために別邸を用意する。絶対に不便な思いはさせない。私の心は君だけのものだ」
足元が揺れたようだった。
フィリアは倒れこみそうになるが、目の端に入ったドレスのおかげで立ち直った。
「ご冗談でしょう……?」
「冗談ではない。婚約の話はもう進んでしまっているし、事実、君を侯爵夫人として迎えることは難しい。これしかないんだ」
「やめて」
「フィリア、分かってくれ。私だって君だけを妻として愛したい。けれど、身分がそれを許さない。身分がなくては、君を守ることもできないんだ」
「やめて……」
「今決めてくれ。今夜の君は美しすぎる。他の男にとられたくない」
「バカなことを」
「共に生きるにはこれしかない。分かるだろう、フィリア!」
「分からないわ!」
フィリアがシシアスに向かって声を荒げたのは、初めてのことだった。
突然のことに動けなくなったシシアスの両手から、フィリアの手が抜かれる。
フィリアはシシアスの手が好きだった。
彼の温かく大きな手が絡むと、小さく細いフィリアの指の間は少し傷んだ。
その痛みすら、幸せだった。
「シシアス様。お話はそれだけですか?」
「フィリア……?」
「それではこれで、お別れですね」
フィリアは微笑んだ。
その声に迷いはなく、その瞳に涙は浮かばなかった。
「フィリア!?」
「妾にはなりません」
「待て! よく考えるんだ」
「家のためということであればこそ。当主たる父に何の相談もなく、口約束などできません」
もう一度手を取ろうとしたシシアスを、フィリアは拒んだ。
そしてシシアスを見据えた。
それはもう、恋する少女の目ではなかった。
「これから先、きっと私だけを愛してくれる人が現れます。そうであるように、私も努力します」
「やめてくれ」
凪いだ瞳は、月の光で深海のように光っている。
「私は今日、デビュタントでした」
シシアスは息を飲んだ。
女性にとって、今日という日が生涯でどんな一日になるのか。
楽しげに支度を進める母と妹の様子を見ていれば、分からないはずがなかったのに。
そんなことに思い至らないほど、焦っていた。
「幸福な少女時代とお別れするのに、ふさわしい日になりました」
「すまない……でもダメだ。諦めないでくれ」
「私も末席とは言え貴族の娘です。今後も夜会などでお見かけすることもあるでしょう」
「いやだ、フィリア! 待ってくれ!」
「これからは、正しく妻となる方を愛して差しあげてください」
「フィリア……!」
フィリアは半歩下がり、淑女の礼をとった。
シシアスは呆然とそれを受けるしかできなかった。
フィリアは姿勢を正すと、聞こえないふりをしている兄のエスコートでホールに戻った。
最後までフィリアは崩れなかった。
話しかけられれば応えたし、勧められれば飲食もした。
楽しげに笑うことすらあった。
むしろアンセルの方が保たなかった。
帰ろう、と小さく耳打ちし、予定より早めに退出した。
邸に帰ったフィリアは両親にどんなに煌びやかな夜会であったかを語り、これまでの感謝を述べた。
それは初めての夜会ではしゃぐ幸福な娘そのものだった。
そんな妹の顔を眺めながら、アンセルはシシアスを恨んだ。
友を一人、失った夜だった。




