13
「シシアス様は、薔薇がお好きですか」
机を挟んでおっとりと紅茶を飲む仕草からは、それでいて一切の隙がない。
彼女こそがシシアスの婚約者。
未来の侯爵夫人たるアルクラース伯爵令嬢、エレインである。
薔薇色の頬、亜麻色の髪、翡翠の瞳。
全てが完璧に磨き上げられた、アルクラース伯爵家の傑作だ。
「なぜ?」
「だって、いつも熱心にご覧になっていらっしゃるから。特にあの、生垣の辺り」
婚約者として侯爵家に居を移したエレインは、当然、一家の礼拝にも同行している。
そうなればヴェラコルダ子爵夫妻は遠慮するようになり、定例の昼食会は一家団欒の時へと変化していた。
今日は侯爵夫妻は先に邸に戻り、子どもたちだけが残っている。
「いや、そういうわけでもないよ。ただこの庭は不調法な私から見ても見事だから。春が楽しみだなと思うと、ついね」
「そうですね。本当に美しいお庭だこと。ね、リネット様」
「ええ。でも冬は少し寂しいわ。早く春が来ないかしら」
シシアスはふと、リネットの変化に気がついた。
ここ最近、妹の甘えたところを見た覚えがない。
そう思ってから、はたと気づく。あの二人がいないからだ。
胸に苦いものが広がる。
季節はもう冬になるが、フィリアどころかアンセルにすら全く会えていない。
使用人に金を握らせて様子を伺ったが、アンセルは堅実に領地経営に取り組むばかりだし、フィリアもそんな兄を支えているようだ。
二人がこちらに戻る気配は全くなく、気持ちばかりが焦る。
領地を抜け出してせめて顔だけでもと企んではみた。
が、父侯爵の目が光っており、全て不発に終わった。
シシアスは未だ、こんなにもフィリアに焦がれている。
エレインは素晴らしい令嬢だ。
婚約者として文句の一つもない。
だが、彼女はフィリアではない。
切なくも愛おしい、あの気持ちを抱くことができずにいる。
「そういえばシシアス様、もうお噂は耳にされました?」
「噂?」
「あの王弟殿下がご婚約されるそうです」
「王弟殿下? あの、庶子の?」
「お兄様。不敬だわ」
「なんでも陛下の肝入りでお話を進められたのだとか」
「それはそれは。あの溺愛っぷりなら不思議ではないね」
「私、先日王女殿下のお茶会にお招きいただきましたの。そこでね、お相手のお名前を伺ってしまったのです」
「へぇ、さすがはエレインだね」
満足げに微笑み、エレインは紅茶を一口飲んだ。
彼女は社交も完璧だ。
今後も侯爵夫人として、社交界でもさぞ活躍することだろう。
とはいえ、シシアスはあまりご婦人たちの噂話には興味が持てずにいた。
したがって、良い顔をしつつも王弟の話は聞き流していたのだ。
この瞬間までは。
「ヴェラコルダ子爵令嬢、フィリア様だそうですわ」
シシアスとリネットの顔色が変わった。
そのことに気がついているのかいないのか、エレインはおっとりと話し続ける。
「お隣の領地ですもの。お二人はよくご存じなのでしょう? どのような方なのです?」
シシアスは息もできずにいた。
フィリアが? 正式な身分も持たない庶子と?
なぜ。なぜなんだ。
それならば私の妾のほうがよほど——
「幼い頃はいつも私のお守りをしてくださったの。とても優しい、素敵なお姉様ですわ」
青い顔をしながらも、リネットの方が先に持ち直した。
シシアスは不甲斐なくも未だ机の下で握った拳を解くことができないというのに。
「王弟殿下は難しいお立場でしょう? 正直なところ、子爵家の御息女なら政にも近づき過ぎずにいられるというご配慮のようなの」
「陛下はお優しいのですね」
「いつまでも弟君が可愛くて仕方がないそうよ。王女殿下が、過保護だってこぼしてらしたの」
「まぁ」
妹と婚約者の淑やかな笑い声が、耳を通過していく。
シシアスの手のひらには己の爪が食い込み、血が出ていた。
あの深い海の瞳も。
柔らかな栗色の髪も。
甘く己の名を呼ぶ声も。
全ては、シシアスのものなのだ。
薔薇の香りのしない庭で、シシアスの胸に嫉妬の炎が灯った。




