第21話 追憶・リュウ〈前編〉
その汚い口で俺の妹の名を呼ぶんじゃない。
『いいから答えろ! 妹に、……に何をした!?』
俺はあの男に食ってかかった。すでに心の中は抑えきれない憎しみで満たされていた。
それから俺が命を落とすまでに何があったのか。
一部始終を思い出すまでの2日間を、今から書き留めておこうと思う。
*
ここひと月ぐらいの間、俺は頻繁に過去の夢を見るようになっていた。
といっても今までと同じく、目を覚ました途端すっかり内容を忘れてしまうのが常だ。
それが、今朝だけは違った。
懐かしい、舌っ足らずな声がいまだ俺の耳に残っている。
『タツキ、誕生日おめでとう。今年はね……これあげる!』
いつからだろう。妹が俺のことを「お兄ちゃん」と呼ばなくなったのは。
俺は夢の中で見聞きしたことを、忘れないうちに日記帳に走り書きした。
妹から贈られたのと同じ、ミントブルーのボールペンで。
118日目。3日連続の猛暑日。
今日も俺はシズエを連れてあてどなく方々を歩き回る。
ここが俺の生まれ育った県内であるのは間違いない。しかしそれ以上の具体的な手がかりを得られぬまま、時間だけが過ぎ去っていた。
まるで俺の封じられた記憶が最後の抵抗を示しているかのように。
「ちょっと待ってよ、リュウ。足速いってば」
「あぁ、ごめん」
無意識の焦りが俺の歩幅を狂わせていたようだ。立ち止まってシズエが追いつくのを待つ。
周りは見渡すまでもなく田んぼや畑ばかりで、いかにも田舎町といった風情だった。
道路脇に停まった車から僧侶が顔を出し、民家へと入っていった。今日は朝からあちこちで袈裟姿を見かける気がする。
「お盆の時期はお坊さんも忙しそうだね」
シズエに言われて俺は二つ納得した。
一つは、もうそんな季節になったのかという驚き。
そしてもう一つは、俺が僧侶や神職の人間に近づくのをいまだに怖がっていたという気づきだ。
「なるほど、悪霊にかまってる暇はなさそうで安心だな」
俺だって坊さんの念仏とか気合いとかで除霊させられるとか、本気で信じちゃいない。
でも、万が一のことを思うと身がすくみそうになる。
シズエは俺の内心なんかお見通しとばかりに腕をからませてくる。
「もしものときは私も一緒に除霊されてあげる」
俺にもようやくわかってきた。シズエはべつに人の心が読めるってわけじゃない。それだけ他人の表情をうかがいながら生きてきたんだって。
シズエに隠し事はできない――いや、したくない。
「俺の本名さ、『タツキ』っていうらしい」
「……! 思い出したの!?」
「つい今朝だけどな。夢の中で妹がそう呼んでた」
母さんが亡くなってから俺にますます懐くようになった、さみしがりの妹。
あいつは多分、兄に甘えるのが照れくさくて、名前で呼ぶことにしたんだろう。
「そっかぁ。それじゃ私も――」
シズエが何か言おうとした瞬間、そばを通りがかった犬が激しく吠え始めた。ターゲットは言うまでもなく、俺だ。
近ごろは鳴りをひそめていたアクシデントに戸惑いつつ、俺はシズエに呼びかける。
「仕方ない。ここを離れよう」
「それじゃあっちの交差点まで競走ね!」
シズエは明るい調子のまま、すんなりと応じた。
だけど、勘のいいシズエのことだ、きっと気づいてるよな。
俺が悪霊呼ばわりされたあの頃に戻りつつあるってこと。
交差点を走り抜けたあと、シズエは俺に向かってたずねた。
「私もこれからは『タツキ』って呼んだほうがいい?」
俺は首を横に振りながら、
「俺はリュウだよ。今までも、これからも」
シズエに、そして俺自身に言い聞かせた。
*
その晩、俺たちは小さな旅館の空き部屋に仮の宿を取る。
まどろみに落ちる俺の耳に、遠くからカエルの鳴き声が流れ込んでくる。
そういえばあの夜もこんな感じだった。
親父から病気を告白された日の夜――
『ごめんな、二人とも。お父さん、通院しながら頑張るから』
親父の言葉に甘えて、俺たちはそれまでどおりの生活を続けていた。
やがて俺は就職が決まり、妹も高校に合格した。親父も喜んでくれていたのに。
会社で倒れた親父は、そのまま入院して半月ともたずに逝ってしまった。
二人きりになった家に請求書が山のように届いた。差出人は耳なじみのない通販業者やカード会社、病気治療をうたった健康食品の販売会社や漢方薬局、宗教法人など様々だった。
支払えるはずもない。俺は相続放棄の手続きに奔走した。
だけど、親父はそれ以外に親戚や知り合いからも多額の借り入れがあったらしい。借金を踏み倒す形となった俺たちに援助の手はなかった。
身辺整理も一段落し、ようやく兄妹二人の生活も落ち着いてきた。
そんな穏やかな日々も、あの男にすべてを壊される前触れでしかなかったなんて。
俺は信じたくなかった。




