006
さらに翌日の早朝、ようやく身体の痛みがひいており、全身をゆっくりと伸ばすと、筋肉が伸びる心地よさがあり、怪我はほぼ治ったとみた。その証に下半身も動かしても痛みはない。
ベッドから降りると、朝の湿度を染み込ませた床が足の裏を冷やした。角にある箪笥に着替えが入っているときいていたので、少し覚束ない足取りでむかって、開く。中にはラジエルの着ている紺の制服をスラックスに変えたものと、下着一式と、洒落た白いスニーカーが入っていた。
下着とカッターシャツを着用したあとに、ジャケットを羽織ってみると、制服のような重さがない。まるでTシャツを着ている着心地だ。太腿にあたる冷たくさらりとした感触は、ラジエルの髪を彷彿とさせた。
ネクタイが不恰好になっていないかを視線を落としながら確かめてから、初めて部屋を出て、ラジエルを探す。
部屋を出ると廊下で、左手前に扉がある。知らない空き家はほんのり木屑のようなにおいと、カビ臭さがした。
前にある部屋の扉を開けて中を見ると、男性ものから女性、子供服までもが、ざっくばらんとダブルベットに放り出された生活感に溢れる部屋だった。ラジエルが寝泊まりしていた部屋にしては、散らかしすぎだ。
ラジエルがいないので、扉を閉めて廊下を歩くと、広いダイニングに出た。いきなり、ぐっ、と息が詰まって、僕は咄嗟に鼻を手で覆う。それほどまでに、ダイニングには腐ったような臭いがたちこめていた。
僕が寝ていた部屋の三倍くらいの広さのダイニングは、左奥に竈門と炊事場があり、中央にダイニングテーブルと椅子が三脚置かれている。
右側にある窓から陽光が差し込んで、ダイニングテーブルの上にある、埃が積もった皿を強調している。テーブルの奥の壁につけられた食器棚にある食器も、埃が積もっている。この家は空き家になって長いのかもしれない。
何気なしに靴裏を見てみると、埃はそんなについていなかった。ラジエルが床だけ掃除したのかもしれない。
炊事場の方へ向かうと、炊事場の床には腐った野菜や肉が放置されていて、小蝿がたかっていた。これがにおいの原因かと、鼻の付け根にしわをよせる。
さっさと退避するため、炊事場の正面に出入り口と思われる頑丈そうな扉があったので移動した。
ダイニングには水汲み場がないので、空き家に水道が通っているとも思えないし、ラジエルは外にいるはずだろう、と思いながら扉に手をかける。
扉を開くと、この世界に来た時と同じ、自然豊かな風が駆け抜けた。僕はにおい立つ空き家から一歩踏み出して、両手を掲げ、目一杯新緑の爽やかな匂いを吸い込んで、充分に堪能してから大きく吐いて腕を下ろした。
ふと、目の端に物を捉える。視線を移動させると、扉の隣に、シーツに包まれた大きなものが横たわっていた。
なんだろう。これからの旅に必要なものかな? 気になったので、しっとりとした質感のシーツを捲ってみる。
「うっ」
捲ると鼻を塞ぎたくなる腐敗臭がして、身を引いてしまう。炊事場にあった生ゴミを入れているのか、いや、でもシーツに生ゴミって。いくらゴミ袋がないからってそんなことする? あ、もしかして僕が殺した熊の肉かな?
考えていると、シーツが風でさらに捲れて、中身が見えた。僕は声にならない声を上げる。捲れたシーツから、痩せこけた男児の顔が出てきたからだ。
咄嗟にシーツから手を離して、身を引く際に足が絡まり、尻餅をついた。
僕と男児は同じ高さで見つめ合うことになった。落ち窪んだ眼窩に、そげ落とされたような鼻、黒色に変色した唇が歯茎につき、皮膚が骨に張り付いているだけの顔。頭には水分のない髪の毛だけが残っている。彼のように冷たい地面が掌と臀部を冷やした。
虚のような瞳からはなんの訴えも感じない。ただただ恐ろしい。そんな瞳から目を離せなくなっていた僕は思いついた。ラジエルはこのことを知っていたのか。この家が空き家と言ったのは、家人が死んでいたからじゃないか? ラジエルが、殺した? いや、これはミイラのようになっているから、相当時間が経っている。いやいや、ここは異世界、そういう殺し方ができるのかもしれない。僕もこのように殺されるのかもしれない。
朝の心地よい風が身体を震わせた。
ここで考えていても仕方ない、ラジエルは近くにいるはずだ。そう自分に言い聞かせて、力の入らない足先でなんとか立ち上がり、早足でラジエルを探す。
なんとなく、家の裏手に行ってみる。すると、見覚えのある白銀の髪を発見した。
ラジエルは膝を折って屈んでいて、髪の毛が地面につきそうだ。
ラジエルの前には、こんもりとした土の上に、十字の木の枝が立てられている。それが四つあって、一つだけ穴が空いた状態だった。おそらく、お墓だろう。
震えがおさまりつつある足で近寄ると、ラジエルは気配に気がついたのか、こちらを向いた。
「おはようございます。歩けるようになってなによりです」
ラジエルは立ち上がり、笑顔を向けてくる。けど、どこか無理をしているように見えた。
「……そのお墓は?」
彼女の笑みを見て、彼女が偲んでいたのを見て、最初に彼女を責めようと思っていた気持ちが萎んでいくのがわかった。
「この家の持ち主のお墓です」
「……それってどういう意味?」
「そのままの意味です。この家を見つけて、入った時には、この家族は亡くなっていました」
「そんな、なんで」
「明日さん。明日さんの天命の話し、どこまでしましたか?」
「僕が、天命を授かって、チーターを執行するつてところまでかな」
「天命を終えた場合、チートスキルを返還する理由、おわかりになりますか?」
「えっと、借りたものを返さないといけないから?」
「そうですね。スキルは天から賜ったものです。チートスキルは、この世の条理を変えますが、天命を授かっている期間は、天の意思で制御されており、私のような天使が監視者として側にいます。なので蛮行を行えば、即刻対処できていました」
ラジエルは緩慢に瞬きをした。
「しかし、話したとおり、不正者はスキルを返還しませんでした。天の意思で制御できなくなったチートスキルは、不条理を発生させます」
「不条理……」
「不条理は、人の寿命を奪います。不正者がチートスキルを発動し、行使する度に、です。それがどんな形であれ、不正者は他者の命を糧にして生きながらえています」
「……そんな、どうしてそんなことに」
ラジエルの目に力が入る。
「最初の不正者である、ギョームがチートスキルを返還しなかったからです」
「でも、天使が監視していたんじゃないの?」
天使が横で監視しているからこそ、蛮行を止められる。天使はその手段を持っているはずだ。そう予想していると、ラジエルは口を歪めた。
「天使を殺したんです」
沈痛な面持ちで答えるラジエルへ、僕は、ぐにゅりとしたあの気色の悪い感触を手の中に思い出していて、言葉を出せなかった。
「殺して、捕らえ、磔にし、再生しても殺し続け、天命の期間を逃れてしまったんです。私達は異変に気がついて数多く天使を送りましたが、ギョームは既に天使と対抗できる仲間を集っていたんです。個人主義な私達は統率力が無く、敗北しました。多くの天使が精神を侵されて、この地に降り立つのを忌避するようになってしまったんです」
ラジエルが言っていることが嘘に聞こえてしまった。それほどまでに途方もなく現実離れしていると思ってしまったから。
そんなに簡単に人を殺せるのか? あれを何度も与え、受け入れられるとは到底思えない。僕には無理だ。絶対に。
天使達は、生命と精神を簒奪された。そこで僕は目の前にいる天使を見据える。
「ラジエルも、殺されたの?」
「私は大図書館の司書なので、前線に出ることはありませんでした。ですので、先日の死が初めての死です」
ラジエルは髪の毛を弄りながら苦笑いした。謝りたくなったが、自己満足な気がして黙った。
「話を戻しますね。チートスキルを持った不正者は、今も生き長らえています。天の意思を離れたチートスキルが使用される度に、世界は帳尻を合わせるために、別のところから寿命を奪うんです。この方達は、その犠牲者でしょう」
ラジエルは慈しむように四つの墓を見る。僕も拳を握りながら墓を見据えた。
借りた者を返さず私物化しているチーターには判決が下されている。さらにその私物化したスキルで人の命を奪っているのだから、重い罪だ。
僕は、そんな奴らを執行しなければいけない。それは、刑を執行するという意味なのだろうか。であれば、あのナイフで、あの凶器を人に振るうことを、執行というのなら……。考えるだけで腕が震えてきたので、両手を組んだ。
「僕には、できそうにないよ」
「明日さんならやり遂げますよ」
やりたくないんだよ。心の中でひとりごちる。
僕は途轍もなく家に帰りたくなった。でも、帰る手段も、帰り方も覚えていない。いずれやりたくなくても、やらなければならない時がくるのだろう。
その時、その時に考えよう。今は、目の前のことで手も頭も一杯なんだ。
「とりあえず、お墓に埋めるの、手伝うよ」
「ありがとうございます。彼らも、少しは報われることでしょう」
彼らが本当に報われるのは、僕が不正者を正した時だと言っている気がして、胸の奥が重くなった。




