第九章
呂樹では犯罪を犯せば刑罰を受ける。物盗りなら物品の価値で爪剥ぎ、指、手、腕の切り落とし。そして首落としと刑罰が重くなっていく。しかし昨今の呂樹は、物品の価値に関係なく拷問の後に首落としとされる。功績として市内では誰も物を盗むことは無くなった。功罪として裏で物の数が合わなくなった。
国家権力の武装集団である警備兵は強権を持ち、個々人で気に入らないことがあれば、難癖をつけて庶民を不敬罪にすることができた。
ある農民の男が、区画一の別嬪とされる娘と結納の準備のために市井を歩いていると、露天の商品をみかじめ料として奪っている警備兵長に目をつけられた。
好色家の警備兵長は、娘の噂を聞きつけ、管轄外の市井にまで足を伸ばしたことを喜んだ。下心を膨らませながら娘に近づいたとき、娘の頭を見て愕然とした。娘の頭には高価なかんざしが留めてあり、それが結納の証であることが理解できたためである。
これは僥倖、と警備兵長は微笑んだ。一人のものとなった女ほど競争率は低いからであり、慕う者がいると女は強情になり、強情なほどに強権を行使したときの劣情は計り知れないからである。
警備兵長は二人を呼び止め、娘のかんざしを指差しこう言った。
「そのかんざしは先週露店から盗まれたものである」
娘は否定した。男も強く否定した。だが現場での言い分など通らないのが呂樹の現状。言いがかりをつけて、番所まで連行し拘禁する。その間に証拠をでっちあげるのだ。
男と娘は牢に監禁され、官使を待つ。官使が来るまでに警備兵長は追加尋問と銘打って娘の房へやってきて行為に及ぶ。それがまかり通る世の中だ。世間は可哀想だと憐憫はするものの、自分には関係ないと我慢する。反発をしてきたが、したものはことごとく二度と日の下には戻って来なかった。仕方ない、そういう時代なんだ、と言葉を飲みこんで生きていくだけである。呂樹は腐り始めていた。
「そんなことがあったのですか。いたたましい……」
ホン・ピンインは煎じた湯気の立つ茶をテーブルの上に置いた。テーブルの対面にいる黒髪を傷がついたかんざしでまとめている少女は、濁った茶の表面と、ピンインの顔を交互に見やる。日常でみる薄い茶とは違い、手をつけていいものか困ったのだ。
「遠慮なくどうぞ。心身疲れたでしょう。ここは安全ですよ」
ピンインに促されて少女は磁器を手にとって口につける。湯気が血の気が引いた顔を戻していき、口の中では濃く苦味のある味が程よい熱として波打った。嚥下すると、熱が体の内側を流れていき腹におちついた。そして涙が溢れて止まらなかった。
日常は苦しくても、夫婦生活ができるほどには裕福であったのに、その一歩手前で不幸の底に落ちた。
だが警備兵長は宿願を達成できなかった。未通のまま終わったのは、官使であるピンインがすんでのところでやってきたからである。ピンインは警備兵長を牢から出るように命令すると、娘に着物を与え、官使だけが使える部屋に案内した。
人間としての尊厳を取り戻す熱と、役人にしては珍しい包み込むような優しい言葉に、強く芯のある少女の心は耐えきれなかった。
ピンインは黙って手拭いをそっとテーブルの上を滑らせる。少女は礼を言って何度も頭を下げながら目元を拭った。
酷吏蔓延るこの世の中に、能吏がいるのは青天霹靂であり、少女から見ればピンインは特別に見えることだ。それは先に助け出されていた男も、同じ考えに至るほど洗礼されていた。
「わたし、創作をするのです」
ピンインの話始めが理解できなくて、娘は短い言葉で頷いた。
「水墨画、陶芸、絵画、詩、吟、手広くやっています。この部屋にあるものは大体はわたしの作品です」
落ち着いた娘は辺りを見回す。壁には鮮やかな風景画がかかっており、棚には琴と紙の束が積まれていた。この磁器の茶器も? と目で訊ねると、ピンインの目元に刻まれた皺が濃くなる。娘は官吏でありなからも多趣味なピンインに関心した。
「最近は少しのことで罪になる。わたしの創作もいつかは罪になるかもしれません」
役人でありながらも、悲嘆にくれた声で国家のあり方を否定するピンインに、娘はさらに胸を打たれた。
「そうなる前にわたしは作品を作り上げたいのですよ。貴女、少し協力してくれませんか?」
えっ、と娘は驚いてしまった。警備兵長のように下劣な要求をされるのではないかと、疑念が湧き上がってくる。その気配を察してピンインは首を振った。
「貴女は婚礼の身です。なのにこんな目にあったのでは居た堪れません。そんな貴女の身に起こった不幸を描き留め、未来永劫わたしの絵のなかに不幸を封じこめましょう。そうして、清らかな気持ちで、ここを出ていってもらいたいのです」
絵に描かれるとなると、それが残り続けるのでは、と娘は思ったが、逆に不幸を取り込んで忘れるという概念もあるのかと納得した。それに、一連の出来事を帳消しにする、と暗にピンインが提案しているのだとも受け取ったので、了承することにした。
快い返事を貰ったピンインは、部屋の一画に置いてあった画材道具を持ち出して描き始めた。描くものは娘の肖像画である。娘は椅子に座りながら横を向く姿勢をとらされた。
木炭が走る音までは緊張はあったが、筆越しにみせるピンインの柔らかい眼を見つめていると、時間とともに溶けていった。
「わたし、もう一つ芸術に関わっていましてね」
集中すると寡黙になるピンインが口を開いたのは、仕上げの段階に入ったからである。娘は訊ねた。
「花火です。しかしこちらは趣味ではなく仕事なのです。わたし、官吏であり花火師でもあるんですよ」
娘はそれは大層に目を輝かせて喜んで、キャンバスに顔を隠したピンインを賞賛した。呂樹では花火は祝事にあげられるものであり、吉兆の印としても民に浸透している。その花火の製作に関われるのは国の中でも一握りの人間だけなので、ピンインは官吏の中でも上位の席に座る人間であった。
「夫婦茶碗ってありますよね」
急な話しの舵きりに娘はかるく眉をひそめて曖昧に頷いた。婚姻の祝いの品をありきたりな夫婦茶碗にしようなどと話していたので、祝事繋がりなのかと娘は考えた。
「大小二つで一つ。男は肥大に、女は慎ましく。まさに性を表現したもので、生活の営みを想起できる代物です」
うっとりとした声に娘は困った風に相槌をうつ。
「……完成しましたよ」
大きく息をついてからピンインはキャンバスを回して、完成した絵を娘に見せた。キャンバスには黒を背景に、その黒から滲み光るような輪郭を持った娘が彩色豊かに描かれている。見たこともない鮮やかな色使いに娘は感嘆の声を漏らしていた。
「わたし、夫婦花火なるものを作りたくなったのですよ」
転々と変わる話しにまた娘は頭が混乱してしまう。娘が絵から目を離すと、鼻が高く彫りの深い目元の白黒交わる仮面をつけた、姿勢の良いピンインが立ち上がるところだった。
「ずっと貴女のような、貴方達のような夫婦を探していたんです」
娘は小さく悲鳴を上げる。繰り抜かれた仮面の奥の瞳には優しさなどはなく、狂気と喜色と興奮が入り混じっているからだ。
娘が悲鳴を上げて逃げる前に、ピンインの手が娘の顔面を掴んだ。
「安心しなさい、貴女は素晴らしい作品になる。わたしが保証します」
娘は腕に違和感を感じて視線を向ける。そこには平面になった腕があり、それが一重二重に折りたたまれて肩へと上がってくる最中であった。あまりにも恐ろしすぎて悲鳴をあげられず、身体を震えさせることで精一杯である。
娘からは見えていないが、脚も胴体へと向かって同じように折りたたまれており、頭部へと向かっていた。
娘は、どうして、と問うた。
「神の思し召しですよ」
自身の折りたたまれた胴体が頭部を包み込む前に聞こえた言葉は、理解不能だった。それ以降、娘は考えることはなかった。
出来上がった花火玉を矯めつ眇めつし、ピンインは満足げに息を吐いた。
「素晴らしい。これは婚礼の儀で使おう」
城の中にある自身のアトリエに保存するために、先に変容させた男の花火玉が入った袋を持ち出し、手の花火玉を入れ、部屋を出る。
「ああ、警備兵長。据え膳食えなくて申し訳ないね。これはほんのお詫びだ」
部屋を出て廊下の突き当たりで人払いをしていた警備兵長に、各出費を差し引いても三月は遊んで暮らせる金子の入った袋を手渡し、肩を叩いて横を通り過ぎる。
警備兵長は強張った声をあげて敬礼をして見送り、肩にのこる感触に身を大きく震わせた。
ピンインの素顔を見たものはいない。ピンインは常日頃から黒と白の仮面をつけており、城中では灰仮面と呼ばれていた。
外にでて、雲に夕焼けの色が張り付いているのを眺めつつ、まだ婚礼の儀に必要な花火が足りないな、と考え、創作意欲を胸の内に燃やしながら、ピンインはアトリエに帰っていった。




