第七章①
「ファフ!」
ブレスを避けるために川に飛び込んだディーオンは、流されつつも岸へと上がり、上空へと飛び去っていくファフニールを見送りながら叫んだ。
飛び去るファフニールの眼はディーオンを捉えることなかった。ディーオンのスキルは、神獣と契約することができる、であり、ファフニールとはこの異世界に飛ばされた当初に、親睦を深めて契約した実根の仲である。意思の疎通がとれなくなるなどと、ディーオンは考えもしていなかったのだ。
ファフニールは、我が強く気性の荒いドラゴンという生物の中でも、他生物に対して友好的であった。そのためディーオンは会見しただけですんなり契約はできた。だが、それが天命を果たす上で弊害となった。ファフニールは魔物に対しても慈悲深かったのだ。
それでも、ディーオンと契約したからには主従関係が結ばれているために、やむなく魔物を屠ってきた。魔物を屠る時の眼は井戸の底のように虚で、何も考えていない、何も感じさせない。飛び去るファフニールの眼はそんな眼をしていたのを、ディーオンは見逃さなかった。
「?!」
突然ディーオンの背中に圧力が加わったかと考える暇もなく、膝が折れ視界が低くなり、下顎と胸を地面に強く打ちつけられた。
腕も脚も胴も首も、全てが上からの圧力で上がらない。ディーオンはひしゃげた蛙のような姿勢で目線を這わすと、左後ろから近づいてくる男の脚が見えた。
「こっちと会うとはな。竜騎士で間違いない……よな? ラジ子」
「……はい」
ディーオンは忘れることのできない英雄の声に、歯を食い縛る。この男のせいでファフは、もう死ぬし、変わってしまった。そう含んだ罵詈を浴びせようとするも、圧力のおかげで口は開かなかった。
「あんたの名前は知らない。だが今は緊急事態でね。差し伸べるのは一回だ……スキルを一度天使に返してから、新たにスキルを得て俺の仲間になる気はないか?」
ディーオンの押さえつけられた身体が小刻みに震える。スキルを返すということは、ファフニールとの縁を切り、新たに神獣を見つけることだ。新たに神獣と契約するには、契約上ファフニールの命を断たねばならなかった。英雄はもちろんそのことを知らない。だが、そうなるであろうとは予想していた。
ディーオンは鋭く怒りを含んだ目つきだけを英雄に向ける。それはこの世界の社会に向けた目と変わりなかった。
ディーオンがこの世界に来てまず躓いたのは、言語であった。自我の強い天使の計らいで、神獣がいるとされる場所の島へと転移することになるも、その島は、忘れ去られた希少民族が住まい、難読話者しかいなかったのだ。
元々口下手で表情に乏しかったのも災いし、独りになるのは容易であった。さらに孤独への追い打ちをかけたのは部族社会であったことである。宮仕えであったのもあり、気性が合わず一人になることが多くなった。
だからこそ、苦難の挙句ファフニールと契約したディーオンは、ようやく初めてこの世界で気を許せる友人を手に入れたのだ。
ギョームはディーオンのことを友人だと言うものの、ディーオンとしては、仕事仲間との認識である。この契約関係を維持してくれる仕事仲間でしかなかった。
であるからこそ、スキルを返すのをずっと拒み、ギョームや他の不正者と連携し、どんな容姿の天使であろうと屠ってきた。
奪う人間は、どんな形をしていても、わかったような顔をして情に訴えてくる。情は対価と論理が合わさってこそ意味を成すもの、でなければ独りよがりの押しつけ。それが、ディーオンが生涯で学んだ答えの一つてあった。
「答えは、ノーでいいな?」
英雄の声が、暗くなり始めた辺りに染み渡る。ディーオンは奥歯を鳴らし、頭の中でファフニールを何度も呼んだ。この世界で信じられるのはただ一匹と一人、ファフニールと自分だけ。来いファフ、帰って来い! と呼び続けた。
ディーオンの首筋に英雄の指先が触れた時、ドラゴンの雄叫びが遠くからこだまする。英雄とラジエルは、声のした朱と宵が交差する空を見上げた。ディーオンは顔を上げることができないが、頬が弛緩してしまう。
『どいつだ? 我を呼ぶのわ』
ファフニールが三人の頭上で翼を羽ばたかせ滞空しつつ問うた。驚愕に顔を支配されるディーオンの身体から圧力が消えるのと、英雄が飛び上がるのは同時だった。
ファフニールの下顎を狙った英雄の突き上げは、尻尾と相殺する。溜めが不十分であったせいで威力さえも負け、尻尾の叩き落としによって英雄は真下の地面へと土煙をあげ着地した。
「ギュオオオオン!」
ファフニールは怒りの雄叫びを山間に響かせ、目の前にある物質を焼き尽くす高熱を喉の奥に溜める。
「ファフ?」
ブレスが放射される前にディーオンは、自身の聴いたこともない悲嘆に暮れた声をあげていることに気がついた。
ファフニールはなにがあっても自分には牙を向けなかった。それどころか捕食対象以外には穏やかな生き物だったのに。
ファフニールを心から信頼していたのに。
ディーオンの中で積み上げてきたなにかが崩れていく音がした。
変わり果てたファフニールを見ていたディーオンの身体がふっ、と軽くなり、ブレスが景色と一緒に遠ざかっていく。燦爛としていた放射線は消え、翼膜が空を切る音が遠くなっていった。
英雄の脇に抱えられたディーオンは、脱力した身体のまま地面へと放り投げられ、受け身を取らずにぬかるんだ地面に倒れ込んだ。
「どうして助けたんです?」
ラジエルが地面に足をつけてから英雄に尋ねるも、英雄は黙ったままディーオンに近づく。その目には確かな殺意の覚悟が宿っていた。
「あのドラゴンを屠るが、いいな?」
その言葉にディーオンの身体が躍動する。
「殺させない」
反射的に答えていた。
「だがあのドラゴンは、もうあんたを認知していない」
「貴様がっ、貴様がそう仕組んだのだろう!」
「俺のせいではある。だがあんた達が見て見ぬ振りしてきたツケだ」
「知ったことか!」
「たしかにな、そうやって孤高に生きているふりをしているあんたの気持ちなんかも、知ったことじゃない」
「なにっ!」
ディーオンは強い眼差しを向けるも、英雄は意にも介さず風上から川のせせらぎとともに、微かに聞こえてくる泣き声のする方向へ視線を移動させる。
英雄とラジエルは目配せし、ラジエルだけが泣き声の方角へと駆け出していった。おそらく明日と呼ばれていた子供の泣き声で、ブラディは死んだのだろう、とディーオンは予測した。
数時間前にブラディがディーオンに接触し、近々襲撃されるから助けてくれと懇求した。自身には知ったことではないが、狙いはディーオンだと分かれば、話が変わった。
対策を詰めている間に、奴らの一人が来てしまった。だがそいつは人を殺したこともなく、戦争がない時代の国に生まれた子供。その事前情報を訊いて容易いはずだとたかを括ったが、動きが精鋭の強者も舌を巻く俊敏さと反応で、主導権がありながらもいなされたのが、ディーオンにとっては予想外他ならない。
ブラディは、あの子供は人を殺せないと豪語していたが、生死がかかった場面で一線を越えるのは簡単である。一線を越えたら、あとは下り坂を駆け降りるように身を任せるだけだ。貧民窟にいた自分より顔の整った少女が、最初の一線だったのをディーオンは思い出す。
「……ブラディは俺や天使を信じられなかったんだとさ。なあ、あんたはどうしてスキルを返したくない?」
その問いに言葉が詰まり、ゆっくりと原因となった記憶がディーオンの頭に浮き上がってくる。




