003
白い壁だ。四方をその壁に囲まれた広い部屋のリノリウムの床は、蒼穹から降り注ぐ光を反射して部屋全体を眩しくしている。窓が開けられていて、レースのカーテンが風を受けてたおやかに揺れていた。そのカーテンの隣の床頭台には一輪挿しが陽気に咲いて、横にある医療用のベッドで眠る人間を見下ろしている。
僕は病室の扉を閉めて、ベッドで眠る◾️◾️へと近づく。◾️◾️の前までやってくると、◾️◾️は気配に気がついたのか、目を開いた。
「部活動、決まった?」
◾️◾️はいつものように快活な笑顔を作ろうとしたのだろうが、力がでないのか、ひしゃげたような笑顔になっていた。そんな顔を見て、僕は無理して笑顔を作ってみせた。たぶん、◾️◾️と同じような顔になっていたに違いない。
なんと答えたのだろうか。◾️◾️は、えくぼができるほどに顔を緩めた。
「一緒にできるね」
そう言った◾️◾️の顔は淡い光に包まれて、見えなかった。
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淡い光の感覚を受けて僕は覚醒した。見知らぬ木の天井だ。
「いっつ!」
上体を起こそうとすると、全身に電気が走ったような鋭い痛みがした。脚や腕を動かそうとすれば、その痛みが襲ってくる。かろうじて首は動かせるので、周囲を見回した。
部屋の広さは四畳もないように見えた。首を左へと倒した視線の先に質素な扉があって、視線を下に移動していくと、部屋の角に小さな箪笥が一つあるだけ。
頭の先には窓があり、淡い光が差し込んで、隣にあるサイドテーブルの木目を照らしている。サイドテーブルの上には陶器の吸飲みが置かれていた。僕は床よりも一段高い場所にいるようだから、ベッドの上にいるのだろう。
どうやら僕は生きているみたいだ。あれらが夢オチで、病院のベッドの上で目覚めるみたいな定番なオチではないらしい。まだ、続いている。まだ、現実。
最悪の気分だが、僕は助かった。あそこから一人で助かるはずもない。誰かが助けてくれたに違いない。
だとすれば彼女はどうなっただろうか、僕同様に助かったのだろうか。彼女の最後の姿ーー血溜まりの中で横たわる彼女を思い出すと、腹の底から込み上げてくるものがあった。
「ううっ、ぐはっ」
吐いた。顔の隣に、黄色い胃液があり、すえたにおいが、もう一度吐き気をもよおしてくる。
「かっ、けっ、はっはっ………はぁっ」
彼女は、死んだ。彼女は僕の目の前で死んだ。それは現実的ではないが、僕がこうして生きていることこそが、現実だ。また、胃液が込み上げてきて、身体を逸らした。身体に走る鋭い痛みと共に、涎とたんがでた。
喉が燃えるように熱く、胃が痙攣して、全身の痛みを何度も起こす。苦しさで視界が滲み、洟水をすすらず垂れ流す。
どうして僕は、ここにいるのだろう。天命を授かって、遠く離れた異世界にいるらしいが、実感が伴わない。嘘だと言ってほしい。それか、彼女さえ生きていてくれていればいい。彼女が、今までの事が嘘だと言ってくれれば、受け入れられる気がする。
鼻歌が聞こえてきた。でも枕から頭を上げる気にはなれない。
僕を助けてくれた人が来るだけだ。僕は一人で助かった訳じゃないのは、この有り様でわかる。その人に、やっと起きた、とか、どうしたんだ? とか声をかけられるのだろう。それで、彼女が死んだことを説明し、僕が何者であるかも説明する。それはとても受け入れたくないことだ。
………もしかしたら、今から来るのは警察かもしれない。そうだといい。それならば、現実でも受け入れられる。熊に襲われたんです、と言える。可哀想な人間が二人できあがるだけだ。
期待に応えるかのように鼻歌は大きくなり、扉の前で止まった。ドアノブが回されて、扉が押される。
僕は心底ホッとしながらも、現実が希釈していくのを感じた。
黒茶色のパンを入れたバスケットを、胸に抱えた銀色の髪の女性が現れた。涙で視界が歪んでしっかりとは見えないが、彼女と差異なく見える。だから、胸が強く締め付けられた。
「うわ、なにっ、くっさ! って吐いたんですか?! 喉に詰まってませんか?!」
僕の有り様を見た彼女は、慌ててバスケットをサイドテーブルに置いて、呼吸をしているか確認してから、僕の周りにある吐瀉物を足元にあったのか、水布で処理していく。そのあとに、目許と口許を違う布で拭ってくれた。水の冷たさが少し心地よく、熱い涙が頬を伝う。
「換気しましょうね」
一通り処理を終えると、彼女ーー紛れもなく彼女は、窓を開ける。すえた臭いが流されて、新緑の爽やかな匂いがした。
「どうして?」
胸の締め付けに耐えながら、呟くように問う。
「ん? ああ、私、使令体ですからお気になさらず……あ、使令体の説明はしていませんでしたね。とりあえず、私は死にませんよ」
彼女は安心できる微笑を僕へと向ける。前半の意味がわからないが、後半の言葉は、彼女がこうしていることで信じるに値した。
「良かった」
かける言葉は迷わなかった。僕は彼女に生きていてほしかった。
言葉にすると、胸が楽になった。
「心配してくれたんですか?」
僕は小さく頷く。すると彼女は目を見張った。それから目を伏せて、口を尖らせながら髪の毛の先を弄りはじめる。その仕草が今まで毅然としていた彼女とは違い、再度、胸を強く締めつけられた。
「ありがとうございます」
上目遣いで彼女はいう。日に当たった頬が紅潮しているように見えた。僕も、どこか熱っぽく、顔が熱い。起きたばかりなのに、また眠くなってきた。
「名前……」
半分瞼を落としながら、彼女の顔を必死に目に焼き付ける。
「え?なんです?」
僕の声が聞き取りにくかったのか、彼女は耳付近の髪の毛をかき分け、髪をおさえて、僕の口許まで顔を近づけてくる。彼女の女性らしい甘い匂いがして、形の良い耳がよく見えた。
「……君の名前……まだ、聞いていない」
彼女の顔が離れた。僕は瞼を押し上げるのに集中しながら返答を待つ。
「ラジエルですよ」
ラジエルは朗らかに笑って自己紹介をした。
「………ラジエル」
彼女の名前を呟いてから、僕は抵抗をやめ、瞼を落として、微睡に意識を任せた。




