002
獣道を抜け、緩やかな坂になっている小径の間を歩く彼女の背中を追う。
「明日さんは、この世界にいる不正者を見つけ、刑を執行するためにやってきたんですよ」
歩き始めてすぐに彼女は、前を向きながら言った。これこそ僕が聞きたかった、彼女の冗談の一つ。とにかく、彼女の話しに付き合うべきだ。情報がほしいから、そうするしかない。そうだよね? と自分に言い聞かせる。
「不正者? 犯罪者ってことですか?」
「まあ、そんなところです。明日さんぐらいのお歳なら、チーターとでも言いましょうか」
滑らかに揺れる銀髪が答えた。チーター。まだら模様の毛を持つ四足獣を思い浮かべる。いや、彼女が言っているのはゲームなどで不正を行う者のことだろう。
「僕がその、警察兼裁判官みたいなことをするんですか?」
「んー? チーターは既に判決が下されています。見つけて、執行するだけです」
「執行って、なにをするんですか?」
「不正者のスキルを奪います」
「スキル?」
「そんなことまで忘れてしまったのですか?」
彼女は足を止めて振り向いてきた。顔には呆れ色が混じっている。僕は首をすくめた。
「転移酔いによる記憶障害でしょうかね」
彼女は僕を覗き込むように見る。光の中にある彼女の碧眼は、南国の海のようで、吸い込まれるかと思った。
彼女は後ろ向きに歩き出し、右の人差し指を立てた。
「この世界では、天からの授かりものをスキルと呼びます。その中でも天命を持って授かったのが、チートスキルと呼ばれます。それはこの世界の条理を超えた力を持っており、極端な例をあげますと、抵抗をうけずに空が飛べたりとかです」
チートスキル、ラノベやアニメでよく見聞きする単語だ。そんな単語が異世界にあるのか? いや、もしかしたら彼女が僕に説明するために、わかりやすく変換してくれているのかもしれないが、今はどうでもいいか。
「チーターは元々、天命を授かった人々なんです。彼等はしっかり天命を全うしたのですが、チートスキルの便利さに気がついたのでしょうね。チートスキルを返還しなかったのです」
常に空を飛べたのに、仕事が終わったから飛べなくされた。元に戻っただけの話しだが、便利なものを返したくない気持ちはわからなくはない。僕もスマホを取り上げられたら、少し生きていく自信が無くなる……気がする。
しかし、借りたものは返さねばならない。どうやら、知らぬうちに僕は取り立て屋の仕事を任されているようだ。
異世界転移して取り立て屋か、まだ高校生活のほうがしたかったな………あっ。
心の中でぼやくと、あることに気がついた。
スマホがない。
常備してある制服のポケットに重みはないし、さっきの場所にも落ちていなかった。多分元から持っていなかったか、自宅に置いてあるのだろう。そうじゃなきゃ手荷物すらない。そこで疑問が生じた。
手荷物すらなく、僕はどうやってこんな山の中にいたんだ。
考えたところで、誘拐、としか思いつかない。誘拐ね。手足拘束されているならともかく、彼女と山に放置されて、妄想垂れ流されながら下山って、タチの悪いドッキリ動画じゃないんだからさ。そもそも僕をメインに据えても、このとおり期待通りのリアクションなんてできない。この線はなし。
僕は彼女の話しに考えを戻した。
「それをどうやって僕が取り戻すんですか?」
訊ねると、かなり呆れたように彼女は眉を顰めた。どうやら、これも説明済みらしい。
「明日さん本人も天命を授かった人なんです」
「僕もチートスキルを持っているってことですか?」
「ええ、パージというチートスキルを所持していますよ。思うか発声するかで発――」
その時だった。彼女の背後に巨大な影ができて、影が横に大きく動いたと思ったら、彼女が目の前から消えた。
さっきまでの陽気な風とは違うぬるい風が、僕の前髪を撫でて、その風に乗ってきたのか、ひどく生臭い臭いがした。
遅れて、遠くで呻き声と、水飛沫が飛び散るような音が聞こえた。
僕は音のした方へと目線を移す。遠くの幹に赤黒い染みがついており、その下では、身体がくの字に曲がって、痙攣している彼女が血溜まりをつくっていた。
僕は咄嗟に目を背けた。そして、硬直してしまう。彼女が立っていた位置には、逆立った茶色い毛を全身に携えた、巨大な熊が四つん這いで佇んだいた。
深淵を見つめているかのような黒い瞳に僕を捉え、半開きなった口からは、荒い呼吸をするたびに粘度の高い涎が地面に落ちる。
なにが、起こって………彼女が目の前で飛んだ。飛んだんだ。そして………ああっ……熊がっ、熊が彼女を殺したっ!
自分の足が震えていることに気がついた。それが伝播するように全身に行き渡り、歯音が頭に響く。
ドッキリだろ。そうだろっ! リアル志向なドッキリだ。熊も作り物で、彼女の有り様も特殊メイクだ。じゃなきゃ、じゃなきゃ僕は本当に熊と対峙していることになる。ならば次は、僕が彼女のようになる番だ。
僕と熊は目を合わせ続けた。心臓が高鳴って、呼吸がはやくなり、視界の下部分が薄らと滲みだす。
死にたくない。恐怖の中にポツリと湧いた思いを心の中で呟く。すると、思考が嘘のように働き出した。
これがドッキリじゃなかったら、どうすればいい。死んだふり? いや、熊が腹を空かせているのだとしたら通用しない。この熊は明らかに興奮しているのがわかる。
にげる? 駄目だ、絶対に追いつかれてしまうし、背中を向けるのは野生動物に対する悪手だ。
たたかう? できるわけがない。僕は猟師でもないし、猟銃も持たない。武器を持たないか弱い高校生だ。
武器? 足が地面を踏みしめている感覚が抜けてきた時、直前までの会話を思い出す。
彼女がホラ吹きでなければ、僕は異世界でチートスキルを持っていることになる。なにもかもが到底受け入れられない状況だが、まだ助かる見込みがあるのなら、馬鹿げた彼女の言葉を信じて、たたかうに賭ける。できなければ、死ぬだけだ。
パージ。胸の内に言い聞かせるように唱えると、右手に硬い感触が現れた。
熊との視線の間に右手をゆっくりと持ち上げると、手には、光沢のある、家庭包丁くらいの長さの鋭利なナイフが握られていた。
こんな短いナイフでどうやって、そう思ったとき、勝手に重心が低くなり、身体が腰を落とした。僕の戦う意思を汲み取ったのか、熊が空気を震わせる鳴き声をあげて前足を踏み込んで突進してくる。
熊の右腕が掻くように振るわれた。僕の身体は勝手に踏み込んで飛びあがる。熊の全長を超える跳躍に、頭がついていけない。涙が宙を舞い、滲んだ視界が明瞭になる。
僕は熊の背中に着地した。背中に異物が乗ったのを察知した熊が立ち上がり、身を捩る。生乾きの洗濯物のようなつんとした臭いを我慢しつつ、振り落とされないために、サバイバルナイフを背中に突き立てると、硬いものを突き破って、ぐにゅりとした不快な感触が手に伝わってきた。
熊が苦痛を伴った雄叫びをあげて、さらに身を捩りだす。右手のナイフと、左手で握った短い毛で、放り投げられないように耐えた。
脚は捕まるところがなく、なるべく外へ放り出されないように熊の背に足の裏をつけて張り付いていると、熊のどっしりとした背中の圧を感じるのと、生物の背中にいる実感が伴った。
その体勢も限界が近いのを、抜けそうなナイフの感覚で察し、右手のナイフを少しだけ角度を変えて動かす。熊は鳴き声を上げて、今度は前脚でどうにか背中にいる僕を取り払おうとするも、可動域が足りずにとどかない。
ここは安全な場所なんだ。僕は一息をつく。瞬間、身体が地面のほうへと傾いた。
ナイフを抜いて、熊の背中を蹴り、跳躍する。不快な浮遊感の中、熊が背中から地面に倒れた。上下に揺れる覚束ない視界で、遠くの方で鳥が羽ばたいたのが、着地した木の枝の上から見えた。
いったい僕はなにをしているんだ。どうやってかは知らないけど、身体が勝手に動いて、熊と戦っている。右手に握ったナイフの柄の感触も、左手に張り付いた抜け毛の感触も、現実だ。ドッキリじゃない、これは現実だ。それに――
熊が起き上がる。鼻を鳴らして僕を探し、木の上にいる僕を発見したら、短く吠えた。
――それに僕は熊の殺し方を知っている。そんな気がするのだ。
僕は木から降りて、再び熊と対峙した。お互いの間合いがなんとなくわかっているみたいで、じりじりと、足裏で地面を擦りながら距離を詰めていく。額に汗が滲んできたが拭う暇もない。落ち着かない鼓動の音が首元を揺らす。
間合いに差し迫ったとき、先に動いたのは熊だった。最初と同様に突進してきて、右前脚で僕の身体を薙ごうとする。
僕の身体も突進といっしょに走り出していた。右前脚が眼前に迫って、当たるっ?! と、思った瞬間に身体がなだらかに地面へと近づき、身体の上を右前脚が風切って通っていく。
そのまま熊の右脇の中へ滑り込むように掻い潜り、熊の心臓近くへナイフを突き刺した。
気色の悪い感触を気にせず、そのまま力一杯に引いて皮膚を切り裂くと、熊は悲鳴をあげた。僕の肩に鋭い痛みが走る。多分、前脚を懐に入れて抵抗してきたのだ。このままとどめをさせなければ、前脚の餌食になる。
身体は理解しているようで、そうなる前にナイフの柄を両手で握りしめて、開いた傷口の奥にあるはずである心臓へと向け、生暖かい肉の中に腕を伸ばす。いつのまにか僕も雄叫びをあげていた。
顔面にぬるま湯が大量にかかり、短く潰れるような悲鳴が聞こえたあとに、目の前にあった茶色い毛が迫ってきて、視界が真っ暗になった。
ああ、くそっ、これはやっぱり現実だ。
息苦しく、圧迫される感覚の中、僕は悪態をついた。




