第一章
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「なにを見てはるん?」
「……夜空だ」
大路英雄は、欄干に凭れかかって天を仰ぎ、室内の布団の上で、乱れた着物の着衣を整えつつ訊ねてきた、蠱惑的な女へ淡白に返した。
英雄は夜空の星が降るのを待っていた。無数に光る星々のどれかが筋を作って夜空を変化させるのを、火のついていない煙草を咥えて眺めていた。
着衣を整え終えた女が英雄の側に近寄って来て、手に持った煙管の火皿を差し出す。英雄は手で拒否すると、女は煙管を口つけて深く吸った。火皿の灯りが女の上気した白い頬を照らしつけた。
女は肩を英雄に預けながら、英雄の見やる空へと煙を吐き皮肉混じりの笑いを作る。
「見えやしまへんよ」
女は機嫌が悪かった。太く筋肉質な腕と、まめとタコでできた手で、弄ばれただけなのだから、消化不良であった。悪くはなかったが、不満はある。なのに、満足したのか、英雄が素知らぬ顔で、女を放置し、空を眺めているからいたずら心が働いたのだ。
「見えるさ」
視線を動かさずに言う英雄に女はムッとし、意地でも振り向かせてやりたくなった。女性は細い指を、英雄の甚平の胸の内に入れて、優しく求めるように撫で回した。
「お天と様には、なにもありゃしまへん」
「そうかな?」
茶色の瞳が女性の方を向き、少し自尊心が満たされて、女性は化粧が崩れないように微笑む。
「そうや」
「どうして、そう思うんだ?」
揺るがない瞳に女性は撫でていた腕を止めた。英雄が自分を見ていることは、魅了できた証なのに、英雄の眼が違う自分を見据えている感じがし、寒気がした。そんな感情を一片も悟らせずに、甚平から手を抜いて、女は英雄の腕に頭を預ける。英雄はそれを黙って受け入れた。
「どうしてって、天使が地上に釘付けになってはるんやろ? ほなら、天にはもう何もありまへん。あっても残りカスや」
この地を守護して司る天使がいる。それはこのノルン国に住まう民にとっては当たり前のことだ。たとえ実状がどうであろうと、天に居座っていた、天使達は地に堕ちた生物なのだ。英雄は、心の中で嘆息をついた。
「あれらの光は、残りカスが必死に輝いていると?」
英雄は視線を空へと戻して問う。空はどちらの世界も変わりなく、星々が輝いている。この世界では、あの星々は天界にいる魂の輝きと云われていた。しかし、真実は定かではない。
「ほうや」
「では、夜空はいつか真っ暗になってしまうな」
「それは嫌やわ、お月様だけ輝いていたら寂しいわ」
「そうだな。俺もそんな夜空は寂しい。規則的な夜空も素敵たが、不規則があるからこそ、美しいんだよな」
「意味わからへん」
女は英雄の言葉に呆れることしかできなかった。それもそのはずで、英雄は誰に言い聞かせるつもりで言ったわけではなかった。もしも、誰かに向けた言葉なら、遠く離れた地に居城を構えている男にである。会話ではなかったのだ。
女は本格的に寒気を感じて、英雄の腕を抱き寄せた。春にしてはやや寒い温度で、障子窓を全開にしていれば、風も入り、汗ばんだ身体を冷やすのは生物の性である。
女が窓を閉めよう、と口を開こうとしたとき、英雄は視界の端に一段と輝く星をとらえた。首を向けると、その星は一層と輝きを増していく。自然と英雄の背筋が伸びだした。
女も英雄に倣い、視線を空に戻した。その時には星は大きな筋を残して、星々を塗りつぶすかのように蒼白い軌跡で空を切り裂いていた。
夜半で静まった空気が震えだし、地鳴りに似たゴゴゴという轟音が鳴り始める。その音が脳裏に残る記憶を呼び起こし、末恐ろしくなった女は、英雄の腕にしがみついて展開を見守った。
蒼白い星が上空を通過していく時、朝よりも一層空が明るくなり、女は目を細めた。軒先にある屋根の瓦が擦れ合い鳴って、家屋が横に揺れ、五年前の大地震の被災した光景を思い出し、英雄の腕に爪が食い込んだ。
「いやや、怖い」
潰れた家屋、その家屋から悲痛な救命と、力無く血液の滴る腕が隙間から見えていた。女は壁に足を挟まれ動けずにいた。そのうち火の手が回り、目の前の家が燃え始め、肉の焦げた臭いがするなか、必死に叫んで踠いた。
誰でもいいから助けて、なんでもします。助かりたい一心で叫んだ。すると、足が抜けて、火が回りきる前に脱出できたのだ。女は、誰に感謝するでもなく、自分の強運を実感した。
苦い記憶に囚われる前に、女は英雄の胸に蹲るように身体を押し当てて、抱き寄せられるのを待つ。だが、英雄の目は落ちてくる星に捕らわれている。英雄の姿がまるで祭りを前にした子供の様相に、女は目の前にいる男の得体の知れなさに、さらに恐怖した。
「来たか」
女はハッキリと英雄がそう呟くのを聴いた。こんな状況でも取り乱さない英雄に対し、恐怖の中に隠れていた情動が火照りつくような気がし、より身を預けた。
星は頭上を通過して、西の剣岳の方へ尾を残しながら流れていった。暫くして、西の空が青白く光り、剣岳の輪郭を濃くした。かなり遅れて、爆発音が小さく聞こえ、街はいつもの夜を取り戻す。しかし、窓から見える大通りの軒先の灯りは濃くなり、人々が玄関口から出て騒めきだしていた。
「きゃっ」
英雄が突然立ち上がったので、女は姿勢を崩して欄干に額を打ちそうになり、小さな悲鳴をあげた。
「なんやの」
立ち上がっては部屋の隅に置いてある荷物の前に移動し、足袋を履き始めた英雄に、女は顔をしかめて唇の先を突きだすも、英雄は視線を合わせはしなかった。
「すまん。行かなければ」
「帰ってくるん?」
「わからない」
英雄は足袋を履き終えて、荷物と、荷物の上に裏返して置いてあった草履を持ってきて、欄干の上へ座り、草履を履きだす。
「また、会いたいわ」
「……また、会えるさ」
「約束やで」
英雄は曖昧に頷いて、建物の二階の欄干から飛び降りた。女が身を乗り出して下を見ようとしたら、英雄は既に星が流れていった方へ走り出しており、一回瞬きをしたら、もう街灯の灯が届かない暗闇の中に消えていた。
「はぁ、ええ男やったのに」
女は英雄を見送ってから障子窓を閉めた。夜風で冷えきった身体は、火照った身体が程よい気持ちよさとは言えなかった。
肩を抱き合わせながら、今夜の一番の場面を思い耽りつつ、女は布団を畳もうとする。
ふと、彼女は視線を感じて、少しだけ開いていら障子を隔てた、隣の四畳間の暗闇へと視線を移動させた。
「不義密通」
そこには暗闇に紛れた人の目があった。
「がっ、はえっ?」
女の身体が大きく震える。暗闇の中にいる人間が何を言ったのか理解する前に、女性の心臓には障子の間から伸びた銀色の穂先が刺さっていた。それが朱の柄をもつ槍だと認識したときには、口から生暖かい液体が吹きこぼれ出した。
背中から火傷しそうな程の熱さを感じながら、手足の先から熱を失っていく感覚。それが蝕むようにじわじわと全身に広がっていく。
女は悲鳴も、肉の焦げた臭いも、祈りもする間も無く、貫通している槍を抜こうと腕を伸ばしたところで、意識が無くなって腕が脱力した。
「追いますか?」
影の中にいた槍を持つ人間、カベージ・ニチカの隣に、もう一人、人間が立膝で現れる。
「追わへん」
女の全体重が乗った槍を片手で維持したままカベージは吐き捨てた。
「良いのですか?」
「ええねん。あれとやりあったら、良くて相打ち、悪くて全滅や。それともお前は死にたいんか?」
カベージは女の死体を蹴り、槍を引き抜いて、布団で槍を適当に拭う。事切れた肉体は壁にぶつかって大きな音を立て、床に転がった。
「いえ」
「ほな、啓示こなすだけや」
「はっ」
カベージの部下が部屋から出たところで、カベージは思案した。西、剣岳の果てか……行ったらおもろそうやけどなあ。行くなら、どこまで行くかが問題やな。
………ええわ、めんどうやしやめとこ。
カベージは槍を掌サイズに縮小し、ケープの中に収納する。ドタバタと階段を登ってから足音は気にはなっていなかった。
西言うたら、あの小僧が外におるんちゃうやろか。カベージの独り言は誰も聞くことはなく、彼と共に夜の闇に溶けた。その後、悲鳴が夜空に劈いたのを星々は聴いていた。




